19


 背の高い女性だった。
 公美さんもどちらかといえば高い方だけど、それよりも五センチ以上高い。百七十センチは超えている。
 すらりと痩せていて、派手さはないが精悍な顔立ちをした、なかなか綺麗な人だ。歳は、公美さんと同じか、少し下くらいだろうか。
 隣に、セーラー服の小柄な女の子が立っている。こちらはあたしと同世代。ストレートの長い黒髪を腰まで伸ばして、日本人形のような可愛い子だった。レトロなデザインのセーラー服は、二つ先の駅で降りたところにある有名なお嬢様学校の制服だ。雰囲気から察するに、どうやらこの二人は知り合いらしい。
 長身の女性は公美さんをきっと睨みつけて、手首をしっかりと掴んでいる。
 一瞬驚いたような公美さんの顔が、固く強張った。
「あなた、何をしていたの? その子はずいぶん嫌がっていたみたいだけど?」
 公美さんは小さく肩をすくめると、質問には答えずに別なことを訊いた。
「あなたは?」
「近くの高校の教師。最近、うちの生徒が電車で痴漢に遭うっていうんでパトロールしてた……って言えば、もういいかな?」
「そのようね」
 公美さんが小さく息を吐く音が聞こえた。
 あたしはその光景を、呆然と見つめていた。
 いつかは起こるかもしれないと、漠然と思っていたこと。
 それが目の前で現実になっても、なんだか実感が湧かなかった。
「それにしても、女の痴漢って初めて見るわ。あ、この場合は痴女っていうんだっけ?」
「どっちでもいいわよ、そんなこと」
 公美さんの口調は、なんだかふて腐れているようだった。
「鉄道警察隊まで、来てくれるよね? 念のため言っておくけど、逃げようとか抵抗しようとか、考えない方がいいよ。腕には自信があるからね」
「……でしょうね」
「悪いけど、あなたもついてきてくれる? 手間は取らせないから」
 その女性は、公美さんに対するのとはまるで違う、親しみやすい笑みを浮かべてあたしに言った。
「あ、はい……」
 反射的にうなずいて、あたしは後に続いた。セーラー服の子も並んで歩き出す。こちらを見てにこっと微笑んだ。
「もう、大丈夫ですよ。沙紀さ……先生に任せておけば、なにも心配はいりませんわ」
 お嬢様学校に通うに相応しい、丁寧な口調だった。しかもそれがぴったりとはまっていて、まるで違和感がない。
「沙紀……先生?」
「進藤沙紀先生。うちの学校の体育の先生です。すごく優しくて、生徒思いで、頼りになる先生ですから、あなたも安心してください」
「……う、ん」
 前を歩く公美さんは、意外なくらい大人しくしていた。
 もう、観念したのだろうか。
 あんなことを続けていれば、いつかはこんな日が来るはずだった。
 それは、分かりきっていたことだ。
 これからどうなるのだろう。
 警察に行って、やっぱり事情聴取とかされるのだろうか。あたしは「被害者」なんだから当然だろう。
 そして、公美さんは?
 痴漢の罪って、どのくらいなんだろう。
 罰金? 執行猶予? まさか実刑ってことはないだろうけれど。
 いずれにせよ、前科一犯であることには変わりない。女の人の痴漢なんて、ニュースになってしまうかもしれない。
 こんなことで一生を棒に振るなんて、馬鹿みたい。
 同情なんかしない。自業自得だ。
 これで、公美さんから解放される。罪がどうなるにせよ、明日からはもう公美さんに会う心配はないわけだ。
 なのに。
 どうしてだろう。こんなに、嫌な気分なのは。
 胸がもやもやする。毎日悩まされていた痴漢から解放されて、本来ならもっと晴れやかな気分になってもいいはずなのに。
 同情なんか、しちゃいけない。
 全部、公美さんが悪いんだから。
 自業自得なんだから。
「……違う」
 思わず、声に出てしまった。
 足が止まる。
 はたと、気付いてしまった。
 公美さんが掴まったのは、あたしのせいだ。
 あたしが、電車の時間を変えたから。
 そんなことしなければ、今日もひとつ後の電車に乗っていたはずで、あの進藤先生とやらには会わなかったはずだ。
 いや、だけど。
 そんなことを気にするなんて、おかしい。
 公美さんがあたしに痴漢行為を働いていたのは、動かしようのない事実だ。それで掴まったからといって、あたしが気に病む必要はない。
 いつもの電車に乗っていてもいつかはこうなった可能性もあるし、第一、あたしは被害者なのだ。
 被害者。
 本当にそうだろうか。
 その気になれば、こうなる前にいくらでも手の打ちようはあったのではないだろうか。
 例えば、もっと早くに電車を変えたり、別な車両に乗っていれば。
 公美さんはそれで諦めていたのではないだろうか。
 なのにあたしが毎日同じ電車に乗って、いつの間にか親しくなっていたから、公美さんも油断していたのではないだろうか。
 そんなことを気にするなんて、おかしい。
 おかしい、はずなのに。
 あたしは、被害者だ。被害者なんだから。
 被害者……なのだろうか。
 本気で嫌がっていたと、胸を張って言えるんだろうか。
 最初の一、二回は、確かにそうだった。
 だけどいつしか、ゲーム感覚になっていたのではないだろうか。
 相手が、公美さんだから。
 相手が、女の人だから。
 本当の意味で「犯される」心配がないから。遊び感覚で「痴漢される女の子」の役を楽しんでいたとは言い切れないだろうか。
 階段の途中で立ち止まって、ぎゅっと拳を握った。
「……あの?」
 急に立ち止まったあたしを不思議に思ったのか、セーラー服の子が顔を覗き込んでくる。
 前を歩く進藤先生も振り返った。
「…………ません」
 なんとか絞り出した声は、変にかすれていた。
「え?」
「警察には……行きません」
 一番最初に驚いた表情をしたのは、公美さんだった。
 進藤先生は、困ったような顔になる。
「……もう、いいんです。その人、放して……あげてください」
 自分の声なのに、どこか遠くから聞こえてくる。
 まるで、自分の声じゃないみたいだ。
 自分で喋っているのだという実感がない。
「……恥ずかしいのはわかるけど、こういうことは泣き寝入りしちゃ駄目だよ。それとも、なにか弱みでも握られてるの? 大丈夫、私に任せてくれれば……」
「……違うんです。でも、もう、いいんです。お願いですから……」
 あたしはそれだけ言って唇を噛んだ。
 どうしてか、涙が溢れてきた。
 進藤先生が、困ったようにセーラー服の子と顔を見合わせる。
 公美さんは……どんな顔をしていたのか、目に入らなかった。
「……仕方ない」
 進藤先生が溜息をついた。ずっと掴まえていた公美さんの腕を放す。
「今日は助かったみたいだけど、あんた、次はないからね」
 公美さんはなにも応えず、ただ、微かにうなずいたように見えた。見間違いかもしれないが。
「沙紀さん……」
「仕方ないでしょ。痴漢は、被害者の証言がなければ捕まえられないんだから。……行こ、笙子。遅刻するよ」
「でも……」
 笙子と呼ばれた女の子はまだぐずぐず言っていたが、進藤先生にぽんと背中を叩かれて渋々うなずいた。進藤先生は何度も公美さんに釘を刺してから、笙子を連れてホームへと戻っていく。
 後には、あたしと公美さんが残された。


「はい」
 改札を抜けたところで、駅の中にあるハンバーガーショップに連れて行かれた。席に着いたあたしの前に、コーラの紙コップが置かれる。
 あたしは黙って俯いて、だんだん水滴が増えてくる紙コップを見つめていた。
 小さなテーブルを挟んで、公美さんが向かいに座る。
「……ありがとう、って言うべきなのかな?」
 ストローをくわえて公美さんが言う。
「立場上、私がこんなこと言うのも変かもしれないけど……。どうして、って訊いてもいい?」
 あたしは首を左右に振った。
 訊かれたって困る。きっと、答えられない。
 どうしてなのか、自分でもわからない。
「でも、確かに助かったわ。あの相手じゃ抵抗するわけにもいかないしね。まさか、こんなところで進藤沙紀に会うなんて思わなかった」
 今の台詞、おやっと思って顔を上げる。
「公美さん、あの人知ってるんですか?」
「君は知らないの?」
 もちろん、知らない。あたしは首を振る。
「個人的な知り合いじゃないわ。でもテレビで何度か見たことある。女子では世界トップクラスの空手家。プロレスラーやなんかとの異種格闘技戦にも勝ってたし」
「はぁ」
 あたしはぼんやりとうなずいた。なるほど、それでは下手な抵抗などできるわけがない。そんな有名人が近所の女子校の教師だなんて、まるで知らなかった。
「ところで、今晩ヒマ?」
「え?」
「ごはん、食べに行かない? 美味しいものご馳走するよ」
「……」
 お礼、のつもりなんだろうか。
 また、びっくりするくらい高いものをご馳走してくれるんだろうか。
「お寿司……でも、いい?」
 試しに、そう訊いてみた。公美さんは、なんの躊躇もなくうなずいた。



 夕方。
 駅で待ち合わせて、連れて行かれたのはまた銀座。いかにも、大企業のお偉いさんが接待とかで使いそうなお寿司屋さんだった。
 確かに、ものすごく美味しかったんだけど。
 公美さんって本当に、お金は大丈夫なんだろうか。
 カードの支払に困って、サラ金に手を出したりしてないだろうか。
 それも返済できなくて、風俗に売られたりしてないだろうか。
「……別に、どうでもいいけどね」
「え? なにか言った?」
「ううん」
 値段を聞いたら胃が縮み上がってしまいそうな大トロを手にしながら、ぼんやりと考えていた。
 どうでもいい。
 向こうが好きでやってることだ。あたしには関係ない。
 公美さんがカード破産しようと、痴漢の現行犯で捕まろうと。
 あたしには関係ないこと……のはずなのに。
 どうして、無視できないんだろう。
 どうして、こんなに気になるんだろう。
 自分でも理解できない自分の心がもどかしくて、それが不愉快で。
 トロとかアワビとかウニとかを、ヤケ喰いのように食べまくった。


 その後は、また軽く飲みに行って。
 公美さんは、朝のことなんてすっかり忘れているかのように陽気だった。
 夜中、またタクシーで家まで送ってもらった。
「コーヒー、飲んでく?」
 念のため、訊いてみる。
「もっちろん。君のコーヒー、美味しいもんね」
 前回と同じように、ブルーマウンテンを淹れる。
 カップを手に取った公美さんは、香りを深く吸い込んで、それからゆっくりと口をつける。
 そんな動作はすごく様になっていて、見ている分には文句なしの美女だった。
 あたしは隣に座って、わざと、公美さんにもたれかかった。
 髪に、手が触れる。
 公美さんの手が、優しく頭を撫でてくれている。
 だんだん、眠くなってくるみたい。
 三分。五分。
 そんな状態が続く。
 コーヒーと、公美さんの香水の匂いに包まれて、すごく心地よい。
 あたしは機嫌のいい猫みたいに、公美さんに寄り添って撫でられている。
 カップが空になっても、そんな状態が続いていた。
 予想していたことは、なにも起こらなかった。
「……どうして?」
「ん?」
「どうして、なにもしないの?」
 一度うとうとしかけて、はっと目を覚まして。
 それでも先刻までと同じ体勢でいることに気付いて、あたしは訊いた。いつもの公美さんなら、とっくに襲いかかってきているはずだ。
「なにかして欲しいの?」
 冗談めかしたその言い方が、ひどく癇に障った。あたしは、頭を撫でてくれていた手を乱暴に払いのける。
「どうしてよ、好きなように犯せばいいじゃない! どうせあんたは痴漢で変質者で、レズの変態じゃない! なに、いい子ぶってんのよっ!」
 叩きつけるように言うと、公美さんは悲しそうな表情を見せた。そのせいで、あたしは弱いもの苛めをしているような気分にさせられてしまう。
 悲しそうな、今にも泣きそうな目で、じっとあたしを見つめてくる。
「……な、なによ」
「美鳩ちゃん」
 手が、頬に触れた。
 思わず、びくっと数センチ後ろに下がる。
 公美さんの顔が、近付いてきた。
 唇が重なる。
 これで、確か四度目の。
 公美さんの唇の感触。
 柔らかくて滑らかな粘膜が、しっかりと押し付けられる。
「……ん」
 長いキスだった。
 今まで経験した中で、一番長いキスだった。
 五分、十分。しまいには、時間なんてわからなくなるくらい。
 でも、それだけだった。
 胸を触りもしない、ブラウスのボタンも外さない。当然、スカートの中に手を入れたりもしない。
 それどころか、舌すら入れてこない。
 ただ、唇が触れ合うだけのキス。
 長い長いキスが終わって、公美さんが離れる。
 静かに微笑んでいた。
 同性でも溜息が出るような、優しげで、儚げな笑みだった。
 一瞬、見とれてしまった。
 そのことに腹が立った。
「……帰って」
 玄関の方を指差して、あたしは言った。
「帰ってよ! そして、もう二度とあたしに触れないで!」
 小さく肩をすくめながら、公美さんが立ち上がる。
 ハンドバッグを手にとって、居間から出ていく。
 居間の扉を閉める時、小さく「おやすみ」という声が聞こえた。
「二度と来んなっ、バカっ!」
 閉められた扉に向かって、テーブルの上のカップを投げつける。
 一番のお気に入りのジノリが、粉々に砕けて絨毯の上に散らばった。



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