終章


 いつまでも笙子と一緒にいられないのは、最初からわかっていたことだ。
 いずれは、帰らなければならない。
 だけどその別れは予定よりも早く、あまりにも突然で、そして呆気ないものだった。
 まだ夏休みは残っているある日。
 私がバイトから帰ると、部屋に笙子の姿はなくて。
 留守電のランプが点滅して、メッセージがあることを示しているだけだった。
『……ごめんなさい。帰らなきゃいけなくなりました』
 メッセージは、それだけだった。周囲が賑やかだ。公衆電話からかけたものらしい。
 私はしばらく呆然としていたが、やがて状況を理解した。
 笙子は、連れ戻されたのだ。留守電で「帰らなきゃいけなくなった」と言っていた。自分の意志で帰ったのなら「帰ることにした」と言うべきだろう。
 だけど、どうして?
 その理由も、見当がついた。
 笙子は何度か、家に手紙を出していたはずだ。近くの公衆電話から、電話もしていた。
 そして、カードで買い物も。
 北海道、それも札幌にいることは、消印から簡単にわかる。そして笙子の父親のように十分すぎる権力と財力を持った者なら、それ以上の情報を得ることも可能だろう。
 誰かが、連れ戻しに来たのだ。
 おそらく、買い物に行った時にでも見つかって、そのまま連れられていったのだろう。その途中にあった公衆電話で、簡単なメッセージを残したに違いない。たった一言だけなのは、連れ戻しに来た誰かの目を盗んでかけたものだからだろうか。
 どうして笙子は、部屋に戻らなかったのだろう。こちらに来てから買った服やバッグも残っているのに。
 それは多分、私を巻き込まないためなのだろう。笙子が外で捕まったのなら、向こうは私のことは知らないはずだ。電話を逆探知したにしろ、カード会社に手を回したにしろ、笙子がこの町内にいるとわかるだけ。それだけでは私の存在はわからない。
 これで事情は理解できたが、ショックは大きかった。
 私はその日、何もせずにただ呆然としていた。



 突然笙子がいなくなって、ぽっかりと穴が開いたような生活にようやく慣れはじめた頃、一通の手紙が届いた。
 笙子からだった。
 私が推測したのと大きな違いはない、連れ戻された時の状況を説明していた。
 向こうの住所は書いていなかった。「しばらく、わたし宛ての手紙や電話は全部チェックされそうだから」と。どうやら、外出時も監視がついているらしい。
 それでよかったのだと思う。笙子の住所がわかったとしても、いったい手紙に何を書けばいいのかわからないから。
 そもそも一緒に暮らしていた時だって、二人の間にそれほど多くの会話はなかった。身体の相性は確かに抜群だったが、性格も趣味も違うし、共通の話題はそう多くない。
 会話なんかなくても、ただお互いに、相手が傍にいること、相手の体温が感じられることが心地よかったのだ。
 だから、手紙や電話、あるいは電子メールで話が出来たとしても、それはあまり意味のないことだった。


 それでも笙子からは、その後も時々手紙が届いた。内容は主に自分の近況だった。一応受験生ということで、そろそろ忙しくなってくる頃だろう。もっとも笙子は、志望校の推薦枠に確実に入れるくらいの成績らしい。「高校へ行ったら、わたしも空手を始めようかと考えています。沙紀さんと同じことをしていると思うだけで、なんだか元気が出てきます」手紙に書いてあったそんな一文は、私を少し喜ばせた。
 そして手紙には必ず「会いたい」と書いてあった。今はまだ、親の監視の目が厳しいけど、そのうちにきっと――と。
 私も、会いたかった。笙子の小さな身体を、抱きしめたかった。
 その願いは、当分叶えられることはないだろうけれど。


 一度二人の生活に慣れてしまうと、独り暮らしはひどく寂しかった。
 それで、一度だけ浮気をしてしまった。
 彩樹と二人でお酒を飲む機会があって、なんだかよくわからないうちにホテルに連れ込まれていたのだ。
 私は酔っていたし、寂しかったし、身体も疼いていたから、そのまま彩樹に抱かれた。彩樹は私よりもずっと同性との経験が豊富で、テクニシャンで、確かに気持ちよかったけれど、ことが終わった後の言いようのない虚しさはどうにもならなかった。どんなに気持ちよくても、ただ肉体的な欲求を満たすためだけのセックスは、私にとってはあまりいいものではなかった。
 ただ、寂しさだけが募っていた。
 その寂しさを紛らわせるように、私は空手の稽古に励んだ。
 そして、秋に開催された全日本体重別選手権で優勝した。


 その成績のためだろう。その後まもなく『L―ファイト』への出場依頼が舞い込んできた。
 それは「世界最強の女子格闘家を決める」という謳い文句の、打撃、組技なんでもありの、いわゆるヴァーリ・トゥードのトーナメントだ。過去二回開かれていて、今回が第三回だった。ちなみに前回と前々回の優勝者は、私が学ぶ北原極闘流の総帥の孫娘、北原美樹だった。彼女は私より一つ年下だけど、高校時代から「世界最強」と呼ばれていた、女子格闘技界の女帝だ。
 もちろん今回も、タイトル保持者として美樹は出場する。同じ極闘流から二人も選ばれるというのは名誉なことだが、私は迷っていた。
 理由は簡単、美樹には勝てないからだ。階級が違うから空手の大会で当たることは少ないが、これまで一度も勝てたことがない。彼女は、他を超越した圧倒的な存在なのだ。
 もしかしたら一回戦くらいは勝てるかもしれないが、優勝できないのはわかっている。負けるとわかっている戦いに挑むのは好きではない。誰だって、痛い思いはしたくないものだ。
 それでも私が出場を決めたのは、この大会がテレビで全国中継されるからだ。
 別に、テレビに出たかったわけではない。ただ、もしかしたら笙子が見るかもしれないと思ったのだ。格闘技に興味を持ち始めているようだったから。
 笙子は、空手をしているときの私を「格好いい」「素敵」と言ってくれた。だから、少しでもいいところを見せられたらいいな、と思ったのだ。
 運良く一回戦を勝てて、もしも笙子がそれを見ていれば、きっと喜んでくれるだろう。



 十二月に日本武道館で開催された『L―ファイト』の当日。
 私は信じられない思いで、控え室にいた。
 私と美樹さんの他、女子プロレス、柔道、テコンドー、キックボクシング等の第一線で活躍する選手八人が集まるこのトーナメントで、私は一回戦と二回戦を勝ち進んだのだ。
 もちろん無傷で、とはいかない。特に、二回戦で女子プロレスラーにスープレックスで投げられた時に肩を痛めて、左手の突きが思うように出せない状態だ。
 そして決勝の相手は当然、圧倒的な強さで勝ち残ってきた北原美樹だった。どう考えても私に勝ち目はない。
 それでも、私は満足していた。ここまで来れただけでも十分ではないか。決勝では無理に勝つことなど望まずに、今の自分にできるだけのことをすればいい。
 そう思って、決勝のリングへと向かった。


 満員の観客。
 会場内にこだまする大歓声。
 リングに上がると、自分が、ひどく場違いな場所にいるように思えてきた。
 こんな状況には慣れている美樹が、普段通りの不適な笑みを浮かべている。
 私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
 これから、彼女と闘わなければならないのだ。
『決勝戦に先立ち、両選手に花束の贈呈が行われます』
 そんなアナウンスが聞こえる。和服姿の女性が二人、それぞれ大きな花束を手にリングに上がっている。
「頑張ってください」
 そんな声と共に差し出された花束を受け取ろうとしたところで、私は思わず声を上げそうになった。上げかけた手が途中で止まる。
「しょ……うこ?」
 自分の目を疑った。一回戦でテコンドーの選手にハイキックを喰らった時に、視神経がどうかしてしまったのか、と。
 しかし何度瞬きしても、目の前に立っているのは紛れもなく笙子だった。服装のせいだろうか、一緒に暮らしていた頃よりも大人っぽく見えた。長い黒髪をまとめた振り袖姿がよく似合っている。
「ど……」
「どうして、って?」
 周囲には聞こえない小さな声で、笙子が言った。
「気付いていませんでした? この大会のスポンサー、父の会社なんですよ。それで、ちょっとおねだりしたんです」
 なんということだろう。私は全然気付いていなかった。笙子の父が経営する会社の名は聞いていたはずなのに。
「頑張ってくださいね。勝ったら、祝福のキスしてあげますから」
「……もし、負けたら?」
「やっぱりその時は、対戦者の方にキスしなきゃ不公平ですよね」
「冗談じゃない!」
 思わず、少し大きな声を出してしまった。笙子が、たとえ頬であっても他の相手にキスするところなんて見たくない。
「それでしたら、頑張ってください。応援してますから」
「……わかったよ」
 渋々、私はうなずいた。受け取った花束をセコンドに渡して、リングの中央に進む。
 美樹が、こちらを見ている。これまで公式戦無敗を誇る女王の目を、私は真っ直ぐに見返した。
「今度ばかりは、勝たせてもらう。勝たなきゃならない理由があるんだ」
 私は言った。試合前に、格上の相手にこんな強気な発言をしたのは初めてだった。
 美樹が口の端を上げて笑う。
「……面白い。やってみなよ、できるものなら」
「やるさ」
 かつてないほどの闘志が湧き上がってくる。無意識のうちに、私も笑みを浮かべていた。
 なんとしても勝ってみせる。女帝・北原美樹に土をつけた、最初の女子選手になってみせる。笙子の唇を護るために。
 そして、試合開始のゴングが鳴った。

〈終〉


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