29


 今日から新学期。
 久しぶりの学校。
 だけど、夏休み前とはひとつ違うことがある。
 学校へ行っても、もう聖さんはいない。一昨日、成田空港まで見送りに行った。
 次に会えるのは、ずっと先のことだろう。もしかしたらお正月には一時帰国するかもしれない、とは言っていたけれど。
 一番仲のよかった友達がいない教室。
 ひとつだけ、使われない机がある教室。
 そのことを考えるだけで、憂鬱な気分になってくる。あたしは溜息をつきながら、久々の朝の電車に乗った。
「おはよ。久しぶり」
 いきなり、耳元でささやく声。
 肩に置かれる手。
 背中がぞくぞくする。
 いつものように微笑んでいる公美さん。だけど、それに対するあたしの反応は少し違っていた。
 わざと不機嫌そうな表情を作って、そっぽを向くか嫌みのひとつでも言う――それがいつものあたしの態度。
 なのに今朝はどうしたわけかそれができなくて、顔が真っ赤になって、黙ってうつむいてしまった。
 何故だろう。公美さんの顔を見るなり、あの、聖さんと過ごした夜の記憶が鮮明に甦ってきたのだ。
 あたしに触れる聖さんの手の感触、唇の感触、重なり合う肌の感触。あまりにも生々しいその記憶に、顔が熱く火照ってしまう。
 赤い顔を見られたくなくて、あたしは公美さんに背中を向けた。
「どうしたの?」
 不自然な反応を訝しく思ったのか、背後から公美さんが訊いてくる。あたしは首を左右に振った。
「……なんでもない」
「なんでもない、って雰囲気じゃないけど」
「……ホントに、なんでもない」
 どうしてだろう。
 公美さんの顔がまともに見られない。
 どうして、だろう。
 どうしてこんなに後ろめたくて、罪悪感を覚えるのだろう。
 まるで、浮気をした後で本命の恋人と会ったような気分。実際にそんな経験があるわけじゃないけれど、なんとなくそんな気がした。
 どうして。
 公美さんなんて、恋人でもなんでもないのに。
 むしろ、聖さんの方が本命っていってもいいのに。
 どうしても、公美さんの顔を見ることができなかった。
 公美さんはいつものように、あたしの背後にぴったりとくっついてくる。
 だけど最初に肩に触れたきり、触ってこない。
 ただ、そこに立っているだけ。
 背中に公美さんの体温を感じながら、あたしはかすかな物足りなさを感じていた。
 別に、痴漢されたいわけじゃない。だけど、あって当然のはずのものがないというのは、やっぱり拍子抜けしてしまう。
 そんなことを考えていると、不意に耳元でささやかれた。
「美鳩ちゃんの浮気者」
 びくっ!
 一瞬、全身が強張った。
 反射的に振り返って、目が合ってしまった。
 しまった、と思った時にはもう遅い。頬がかぁっと熱くなる。あたしはそのままうつむいた。
「聖子ちゃんに電話で自慢されちゃったわ」
「あ……」
 聖さんってば、どうして。
 もう、おしゃべりなんだから。
 今は太平洋の向こうにいるはずの人を、ちょっとだけ恨んでしまう。
「美鳩ちゃんってば、すっごく積極的で激しかったそうじゃない? 私の時は抵抗するくせに」
 どことなく拗ねたような、子供っぽい口調だった。
「あ、あの……」
「しかも、タチもやったんだって? 私にはなんにもしてくれないのに」
 ねちねちと続く公美さんの嫌味。冗談めかした物言いではあったけれど、結構しつこい。
「ご、ごめんなさい」
 あたしはいたたまれなくなって、まだ降りる駅じゃなかったけれど、ちょうどドアが開いていたのをいいことに電車から飛び降りた。
 公美さんが追ってくるかと思ったけれど、そんな気配はない。
 背後でドアが閉まる。
 走り出す電車を見送りながら、なんだか泣きたくなってきた。
 どうして、こんな気持ちになるのだろう。
 今朝のあたしは、いったいどうしてしまったんだろう。
 ひとつ、大きな溜息をつく。
 ここで次の電車を待つ、という気分ではなかったので、あたしは駅を出て歩き出した。学校まではあと一駅、歩けない距離じゃない。
 一人で歩きたい気分だった。
 どんよりと曇った今日の空と、同じ色の心。
 何度も溜息をつきながら、とぼとぼと歩いていく。
 ぽつり、と鼻の頭に冷たいものが当たる。
 雨はすぐに本降りになってきたけれど、あたしは濡れるのも構わずに、傘もささずに歩き続けた。



 翌日。
 あたしは、熱を出して寝込んでいた。雨に濡れて風邪をひいてしまったようだ。
 外は、昨日から降り続いている雨に風が加わって、ひどい嵐になっていた。天気予報を見ると、小型の台風が速度を上げて接近しているらしい。
 ビュウビュウと鳴る風の音。
 がたがたと揺れる窓。
 こんな状況で寝込んでいると、よりいっそう陰鬱な気持ちになってしまう。
「……美鳩、具合はどう? なにか、欲しいものでもある?」
 夕方、出勤前のお母さんが、遠慮がちに部屋の扉をノックした。あたしは返事をせずに、眠っているふりをしていた。
 もう一度ノックがあって、やがて、お母さんの気配は遠ざかっていった。
 はっきり言って、あたしとお母さんはうまくいっていない。普段、ほとんど口もきかない。
 理由はよくわからないけれど、あたしはお母さんのことが嫌いだった。お母さんも、あたしに対してどこかよそよそしい接し方をする。
 卵が先か、鶏が先か。どちらから始めたことなのか。
 正確には憶えていないけれど、ギクシャクしはじめたのは小学生の頃、両親が離婚した頃か、その少し前だと思う。
 きっと、離婚のゴタゴタがきっかけなのだろう。その頃の記憶はあまり残っていない。
 お母さんが出かけて家にひとりになると、少し気が楽になった。二人の時は、家の中に奇妙な緊張感が漂っている。
 喉が渇いたので、起き上がってキッチンへ行った。食欲がなくて、今朝から食事はほとんど食べていない。スポーツドリンクだけでカロリーを補給している。
 ちらっと外を見ると、雲が低く立ちこめて、夕方といってもまだ早い時刻なのに空は真っ暗だった。
 街路樹が、今にも折れそうなほどに大きく揺れている。
 雨粒がばらばらと窓を叩いている。
 見ているだけで、怖くなってくるような光景だ。
 すぐに、ベッドに戻った。
 ベッドに戻って、眠ろうとした。
 眠ってさえいれば、嫌なことは忘れていられる。
 怖い嵐のことも、お母さんのことも、公美さんのことも、聖さんのことも。
 ここ数日、あたしのテンションは下がりっぱなしだった。聖さんの転校が、予想以上に堪えていた。
 昨日、聖さんのいない教室は、夏休み前とは別な空間のようだった。
 仲のいい友達は他にもいる。だけどやっぱり、聖さんは特別だった。
 今なら、その理由もわかる気がする。
 聖さんは、「友情」ではなく「愛情」であたしと接してくれていたから。
 だから、他の友達とは違っている。
 聖さんと、……そして公美さんは、その点で他の友達とは違う、特別な存在だった。



 いつの間にか、眠っていたらしい。
 熱のせいか、ひどくうなされて、目が覚めると身体中汗びっしょりだった。すごく嫌な夢を見ていたような気がするけれど、それがどんな夢だったかは思い出せなかった。
 これだけ汗をかいたのに、まだ熱は下がっていないようだった。頭が朦朧としている。
 枕元の時計をちらりと見る。真っ暗な部屋の中でぼんやりと光っている数字は、もう夜の十時を過ぎていた。
 外は相変わらずの嵐で、窓ががたがたと鳴っている。
 あたしは頭まで布団を被って、ベッドの中で丸くなって震えていた。
 どうしてだろう。
 どうして、こんなに怖いんだろう。
 もう、嵐を怖がるような子供じゃないのに。
 震えが止まらない。
 夜の嵐が、怖くて怖くて仕方がない。
 風の音に、か細い嗚咽の声が混じる。いつの間にか、あたしは泣いていた。
 小さな子供のように、一人の夜が怖くて泣いていた。
 嫌だ。
 一人でいたくない。
 誰か、傍にいて欲しい。傍にいて、あたしを守って欲しい。
 守って……?
 いったい、なにから守るというのだろう。
 思考が支離滅裂だ。
 頭がずきずきと痛んで、順序だてて落ち着いて考えることを邪魔している。
「やだ……いや……、お母さん……」
 子供のような、情けない泣き声。いくら呼んでも、お母さんが助けてくれるわけないのに。
 そう。
 お母さんは助けてくれないんだ。あたしが泣いていても。
 あたしがどんなに辛い思いをしていても、助けてはくれない。
 だから、ここで泣いてちゃいけない。
 そう、一人でいちゃいけないんだ。
「――っ!」
 あたしは跳び起きると、部屋の明かりをつけた。もう一度時計を見る。
 まだ、最終電車には間に合う。
 大急ぎで服を着て、お財布だけを持って家を飛び出した。
 家にいたくなかった。嵐の夜に一人でいるのは耐えられなかった。
 外はひどい風と雨で、傘なんてほとんどなんの役にも立たなかった。風を受けて飛ばされそうになるだけだ。
 徒歩数分の駅まではずっと向かい風だった。そのせいか、それとも熱のせいか、普段の三倍くらいの時間がかかった。
 傘をさした意味はほとんどなくて、駅に着いた時には下着までずぶ濡れで、髪はくしゃくしゃになっていた。
 駅員さんの他は誰もいない、人気のない駅。こんな夜はみんな、家でおとなしくしているのだろう。
 切符を買ってホームへ出る。熱のせいで立っているのが辛くて、すぐにベンチにうずくまった。
 自分の身体をぎゅっと抱きしめる。
 震えている身体。
 雨に濡れて寒いから?
 熱のせい?
 それとも、まだ治まらない恐怖感のため?
 いったい、なにを怖がっているのだろう。
 子供みたいに、一人でいるのを怖がっているなんて。
 馬鹿馬鹿しい、と思っても、恐怖感が拭えない。
 どうして?
 どうして……それは考えちゃいけない、そんな気がする。
 だけど、考えずにいられない。
 そうだ。あたしは子供の頃もそうだった。お母さんのいない夜を怖がっていた。
 どうして……?
 だめ。考えちゃいけない。
 思考の糸がごちゃごちゃに絡まる。
 頭が痛い。
 頭が痛い。
 心臓が頭の中にあるみたいに、ずきんずきんと脈打っている。
 あたしは、それ以上の思考を諦めた。同時に、眩い光が視界に飛び込んでくる。近づいてくる電車のライトだ。
 電車の中も、ほとんどお客さんの姿はない。
 貸切りのような車内で、あたしは端の席に座った。あたしを中心にシートが濡れて、黒っぽい染みが広がっていく。
 電車がガタンと揺れて動き出す。
 身体に力が入っていないから、あたしの身体も揺れる。そして、視界も揺れる。
 外は真っ暗でなにも見えない。ただ、窓に叩きつけられる雨音が聞こえるだけ。
 目的地まで二十分ほど、あたしはただぼんやりと、真っ暗な窓を見つめていた。



 電車を降りて駅を出ると、外は相変わらずの暴風雨だった。
 歩き出してすぐに、傘をさすことを諦めた。一瞬で壊れるか、飛ばされるか。どっちにしろ、傘をさしていたところで濡れることに変わりない。
 横殴りの雨の中、あたしは走り出した。
 あたしを助けてくれる人。
 傍にいてくれる人。
 優しく抱きしめてくれる人のところへ。
 熱のせいで、風のせいで、何度もよろけて転んでしまう。
 既にずぶ濡れの服が、さらに泥だらけになってしまう。
 それでも構わずに走り続ける。
 雨が目に入って、まともに開けていられない。それ以上に、溢れ出る涙の方が多い。
 あたしは、泣きながら走っていた。
 何をやっているのだろう。
 家を飛び出した段階から、すでに理性的に考えての行動ではない。
 本能のままに、心の命じるままに走っていったあたしは、やがて、夢遊病者のように朦朧とした足取りで、その建物に着いた。
 まだ新しい、お洒落な外装のマンション。最近ちょっと古びてきた感のあるうちとは大違いだ。きっと価格も億単位なのだろう。
 入口は閉まっていた。
 その横にあるテンキーと、細いスリット。セキュリティもしっかりしている。
 お財布の中に入れてあったカードキー、絶対に使うことなどないと思っていたキーを差し込む。熱に犯された頭で暗証番号を思い出すのには、少し時間がかかった。
 よろめきながら中に入る。
 身体が妙にふわふわして、歩いている感覚もなかった。
 なにも考えられない。
 視界が暗くなってくる。
 もう、自分が何をしているのかすらわからないままにエレベータのボタンを押して――

 意識があったのは、そこまでだった。



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