数日後――
 
 その日は、朝から雨だった。
 あの日以来の雨。
 違うのは、激しい通り雨ではなく、朝から静かに降り続けていること。
 それでもやっぱり、杏は雨を見るとあの日のことを想い出してしまう。
 由起の柔らかな身体を。
 初めて体験した快感を。
 湿った土の、濡れた草木の、雨の、風の匂いを。
 想い出しながら、目は、由起の姿を追っている。
 今日も、いつもと同じだった。
 地味な、目立たない姿。
 教室の中に埋もれてしまうような、希薄な存在感。
 自分の席で真面目に勉強している。
 なにも変わらない、普段通りの由起。
 
 ……今日は雨降りなのに。



 朝から雨が降っていたので、今日は自転車通学ではなかった。
 久々に、傘をさして歩く学校帰りの道。
 この道を歩くのも久しぶりだ。いったいいつ以来だろう。普段は自転車で走り抜けている道も、時速四kmで歩いてみるとなんだか新鮮だった。
 杏の場合、自転車か徒歩かで通学に使う道が少し違う。自転車の場合、多少遠回りでも走りやすい道を選んだ方が結果的に早い。徒歩の場合は、ロードレーサーでは走れないような未舗装の抜け道を通れば最短ルートだ。
 だから、この道を「歩く」のは本当に珍しいことだった。普段、雨の日に使う徒歩通学用の道ではなく、自転車通学と同じルートを歩くなんて。
 今朝はもちろん、徒歩用の最短ルートを通ってきた。
 だけど帰りは違う。
 帰りは普段と――普段の自転車通学と――同じ道を通って帰った。
 
 ……あの日と同じ道を。
 
 予感がする。
 いや、それとも期待というべきだろうか。
 あの場所が近づいてくる。
 あの、高速道路の高架下が。
 それにしたがって、鼓動が大きくなってくる。
 
 どくん!
 
 心臓がひときわ大きく脈打った。
 声を上げそうになる。
 いた!
 コンクリートの橋脚に寄りかかるようにして座り、文庫本を読んでいる小さな人影。
 その姿が目に入った瞬間、脚の動きが加速する。全速力で走り出したい気持ちを抑えて、小走りに駆け寄る。
 そして、走りながら考える。
 もしかしたら由起は、雨の日はいつもここでこうしているのかもしれない。そういえばあの日、突然の夕立だというのに飲物やお菓子まで用意して、降り始める前からここにいたではないか。
 計画的な行動だったのかもしれない。
 雨の日はいつもここにいて、通りすがりの相手を誘っているのかもしれない。
 そんな疑念が頭をよぎる。
 脚の動きが遅くなっていく。
 あと十メートルほどの距離まで近づいたところで、由起が顔を上げてこちらを見た。
 杏の姿を認めて、にっこりと、輝くような笑顔を浮かべる。
「……よかった」
 本当に嬉しそうな笑顔だった。
 その反応に、一瞬前の疑念もたちまちかき消されてしまう。
 ありえない。
 杏を見た時のこの笑顔。間違いなく、杏を待っていたのだ。あの日のことを覚えていて、ここで待っていれば杏に逢えると期待していたに違いない。
「来てくれたのね」
 喜びと安堵が半々にブレンドされた笑顔。
 この笑みを見てしまったら、杏としても「通り道だから」なんて言い訳はできなくなってしまった。そう言ってしまったら嘘になる。由起は知らないだろうが、この道は本来の下校コースではない。
「……話、したかったし」
 照れ隠しのために、どうしても素っ気ない態度を取ってしまう。そうしなければ、必要以上に嬉しそうな顔を見せてしまいそうだった。
「私もよ」
 由起はそう言って立ちあがると、スカートに付いた埃をぱたぱたと払い落とした。
 話をするならむしろ座ったままの方がいいのではないか、と思ったが、由起は傍らに立てかけてあった傘を手にとった。
「よかったら、これから私の家に来ない?」
「え?」
「今日、両親は二人とも帰りが遅いの。他に誰もいないから、遠慮しないで」
「えっ?」
 思わず、声が大きくなってしまう。
 今日は誰もいないの、家に来ない? ――なんて。
 まるで、彼氏を誘うような台詞ではないか。それも、もちろんエッチが目的で。
 だけど杏と由起は恋人同士などではない。
 そもそも同性だ。
 ……しかし、肉体関係を持ったことはある。
 そう考えると、自分たちの関係がわからなくなってしまう。
「……」
 由起の台詞の意図を考える。
 額面通りに受けとるなら、やっぱり、この前と同じようなことをするつもりなのだろうか。ここよりも家の方が人目を気にせず安心してできるのは間違いない。屋外の方が昂奮する、なんて台詞を言えるほどにはすれていないし、それは由起も同じだろう。
「……いや?」
 意図を量りかねてすぐに返答できずにいると、由起がやや不安げな表情で訊いてくる。
「……別に、…………いやじゃ、ないよ」
 質問の意図が読めないから、曖昧な返事になってしまう。
 いったい「いや?」は何についての質問なのだろう。
 由起の家へ行くことか。
 それとも、この前と同じようなことをすることか。
 その違いは大きい、冷静に判断しなければ――と考えたところで、実際にはどちらであっても答えは同じだと気がついた。
 由起の家へ行くことを断る理由はない。家族が留守で余計な気を遣う必要がないならなおさらだ。
 そして率直に言って、また肉体関係を持つこともいやではない。
 この前、ここでしたことに関しては、嫌悪感も後悔もまったくなかった。
 すごく気持ちよかったし。
 由起の反応は可愛くて楽しかったし。
 はっきりと認めることにはいくぶん抵抗もあるが、正直なところ、今日この道を帰路に選んだ時点で、まったく期待していなかったといったら嘘になる。
 ぜひともしたい――というほど積極的な想いでもないが、そうなるかもしれない、そうなってもいいな、くらいには考えていたのは事実だ。
 今朝、いちおう念のため、といいつつお気に入りの新しい下着を選ぶくらいには、こうした展開を予想、あるいは期待していた。
「じゃあ、行きましょう」
 由起が傘を開く。
 杏も、一度閉じた傘をまた開く。
 静かに降り続ける雨の中、ふたつの傘が並んで歩きだした。



 歩いている間、二人ともほとんど無言だった。
 言いたいことも訊きたいこともたくさんあるように思うのだけれど、いざ口を開こうとすると言葉が出てこない。
 隣を見ると、由起の横顔が目に入る。
 メガネをかけて髪を三つ編みにした、普段通りの地味な外見。
 だけど杏は知っている。その下に隠された素顔はずっと可愛いことを。
 視線が下に移動する。
 どうしても意識せずにはいられない、大きな胸の膨らみ。それに触れた時の感触は、まだ手に残っている。
「なに?」
 視線に気づいた由起がこちらを見る。
「あ、えっと……その……」
 適当な話題で誤魔化そうにも、なにも思いつかない。
 結局、いちばん気になっていたことを訊くことにした。
「……やっぱり……するの? この前、みたいなこと」
 それがいちばんの大問題。他は些末なことといってもいい。
「……私は…………、したいわ。三郷さんが嫌じゃなければ」
 一瞬口ごもったものの、由起は落ち着いた口調で言った。
「……三郷さんは?」
「あ、あたし……は……」
 素直に肯定するのは恥ずかしい。
 しかし否定するのも悪い。それに、否定してしまえば嘘になる。
「…………どっちかといえば、したい、かな。あたしも」
「よかった」
 嬉しそうに笑う由起。
 思わずどきっとする。教室では見せることのない、素直な、弾けるような笑顔。
 本当に可愛らしい。
 鼓動が速くなる。
 これから、由起と、セックスする。
 その場の勢いでしてしまった前回よりも、すると決めてから実際に行為をはじめるまでに間がある分、今回の方が緊張度が高いように感じた。


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