「……あ」
彩樹が目を開けると、翠が顔を覗き込んでいた。
(……翠? いや、違う)
一瞬の間があってから、そのことに気がついた。
翠ではない、翠のはずがない。
姉が死んだのは、もう五年以上も前のことだ。
「栞、か」
のろのろと身体を起こす。
そこは、よく晴れた夏の午後の公園だった。木陰で、栞の膝枕で眠ってしまったらしい。
それにしては、夢見が悪かった。
栞の外見が、翠とよく似ているためだろうか。
それとも昨日、久しぶりにまったくその気のない相手を犯したからだろうか。
レシューナたちの悲鳴と、翠の悲鳴の記憶が重なる。
(なにやってるんだ……オレは……)
うつむいて苦笑した彩樹は、すぐに顔を上げて栞を見た。
時々、彩樹の前に姿を現す少女。死んだ姉の幻影のように。
住んでいるところも、学校も、家族のことも、それどころか本名すら知らない。彩樹に対してはいろいろと聞こうとするくせに、自分のことは何も教えてくれない。
栞という名前だって、彩樹が勝手にそう呼んでいるだけだ。名前がないと呼ぶときに不便だから、と。
「どうして?」
栞の声は決して大きくはないけれど、澄んでいてよく通る。そんな声も、どことなく翠に似ていた。
「どうして泣いているの?」
「泣いて……?」
そう言われて、指で自分の顔に触れて気がついた。頬に、涙が乾いた痕がある。
いつものことだ。あの夢を見たときは、いつもそうだ。
「夢、見てた。昔の……いやな、夢」
「翠って……誰?」
栞の口から出てきた意外な単語に、驚いて顔を上げた。これまで、栞に姉のことなど話したことはない。
「……オレ、寝言でも言ってたか?」
「ええ」
「やれやれ……」
何故か、溜息が漏れた。
「死んだ……姉貴の名前」
「わたしと似ている?」
「どうして、そう思う?」
「気付いていない? 彩樹は時々、わたしのことをその名前で呼んでいる」
「……まさか」
彩樹の目がわずかに見開かれる。
まったく気付いてはいなかった。
あまりにも翠によく似ているから、無意識のうちに姉の名前で呼んでしまったのだろうか。栞は、半分だけ血がつながった妹の彩樹よりも、よほど翠に似ている。
「お姉さん、どうして亡くなったの?」
こんな風に、栞との会話は向こうからの質問が多い。自分のことは何も話そうとしないのに、彩樹のことはなんでも知りたがる。
かといって、彩樹の取り巻きの女の子たちとはどこか雰囲気が違う。いったいどういうつもりで彩樹と会っているのか、好意を持たれているのかどうかすら、はっきりとはわからない。
「……」
さすがの彩樹でも、翠の死について話すのは少し躊躇した。しかし栞は引き下がらない。
「教えて。差し支えなければ……だけど」
「……オレが、殺したんだ」
呻くように、それだけを口にした。言いたくはないのに、どうしてか翠には隠し事ができない。
「そう」
対する翠は、小さくうなずいただけだった。これは予想外の反応だった。
「驚かないのか? 冗談じゃないんだぞ」
「そうかしら」
「……そうさ。そうに決まってる」
翠が自殺したのは、あの男にレイプされたからではない。
真相を知っているのは彩樹だけだ。
翠が死んだのは、彩樹が怖かったから。
彩樹と血のつながった姉妹であることが怖かったから。
自分の中に、同じ血が流れていることが怖かったから。
だから、翠は死んだのだ。
本人がそう言ったわけではない。
遺書があったわけではない。
それでも、彩樹はそう信じていた。
そうでなければ、どうしてわざわざ当てつけるように、妹の目の前で屋上から飛び降りたりするだろう。
いや、もしかしたら、そんな悪意はなかったのかもしれない。彩樹のためを思って、そうしたのかもしれない。
彩樹の狂気を鎮めようとした、ショック療法のつもりだったのかもしれない。
マンションの屋上から落下している間、翠は真っ直ぐに彩樹を見つめていた。その時なにを思っていたのかなんて、知る術がない。
だから彩樹は、警官が現場検証をしている隙に、その屋上に昇ってみた。
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