森の中をしばらく歩くと、やがて小さな池のほとりに出た。澄んだ水が滾々と湧いていて、小川となって流れ出している。
 水面がきらきらと陽の光を反射する様は、まるで森の中の宝石だ。
 睡蓮に似た花が水面を彩り、そのまわりを小さな水色の蝶が飛び回っている。透明な羽をきらめかせたトンボが、空中静止を繰り返しながら岸に沿って池を周回している。
 澄みきった水の中では水草が揺れ、その陰にメダカより一回り大きいくらいの小魚が群れていた。
「森の中に、こんなところがあったのか…」
 驚いたように、感心したように、彩樹はつぶやいた。
「ここは、わたしの秘密の場所なんだ。退屈な政務に飽きたら、ここに来ることにしている。他の誰も、ここは知らないんだ」
 いつも抑揚のないその声も、今はいくらか嬉しそうに聞こえた。
(まあ、書類仕事ばかりじゃ退屈だろうしな……って、え? ちょっと待てよ?)
 彩樹はその声の主を見た。紫の瞳が、こちらを見返している。
「ア……」
 口から出かけたその名を飲み込む。
「どうした? なにを驚いたような顔をしている?」
 アリアーナは服を脱ぎはじめていた。いつものように、ここで水浴びを楽しもうというのだろう。
「なにを……って」
 なんだろう。いったい何を。
 いいや、思い違いだ。なにも驚くことなどありはしない。
 いつものようにアリアーナのわがままに付き合って、城を抜け出したところだ。彩樹は立場上、護衛ということでついてきている。アリアーナが水浴びを楽しんでいる間、湖岸に座って周囲を警戒しているのだ。
 ぴちゃ……。
 アリアーナが、脚を水に浸している。一糸まとわぬ姿でありながら、彩樹の目を気にするそぶりもない。
 彩樹は、アリアーナのプロポーションには素直に感心していた。決して、口に出して褒めることはないが。
 Eカップを誇る早苗ほどのメリハリはないが、それでも胸は大きく、ウェストは細くくびれ、艶めかしい曲線を描いている。手足は細くすらりと伸びて、なにより腰の高さが日本人とはまるで違う。
 腰まで届く淡い色の金髪も手伝って、こうしているとまるでお伽話に出てくる泉の妖精のようだ。
(でも、泉の精のヘアについての描写ってのはなかったな……)
 心の中で苦笑する。アリアーナの下腹部では、髪の色と変わらない淡い色の茂みが、ごく狭い範囲を覆っていた。
「気持ちいいぞ。サイキも入ってきたらどうだ?」
 腰の深さまで進んだところで、アリアーナが言った。
 普段はその誘いには乗らずに岸で待っている彩樹だったが、今日に限っては「それもいいかな」と思い始めていた。
 ここには何度か来ている。危険な獣などいないことはわかっていたし、最近では刺客の心配もほとんどない。
 別に、彩樹が目を光らせている必要もないのだ。
「そうだな、たまには付き合うか」
 彩樹は立ち上がると、ジーンズのベルトを外した。タンクトップとジーンズを脱ぎ捨て、少し躊躇してから下着も取る。
 同性の前で全裸になることなんて慣れているはずなのに、何故か少し恥ずかしかった。アリアーナの完璧なプロポーションの前で、少年でも少女でもない自分の身体を晒すことに気後れした。
 無駄な脂肪が一切なくて、必要な筋肉だけをまとった痩せた身体。胸の膨らみもほとんどなく、空手の稽古や喧嘩でできた傷がいくつも残っている。
 それでも最後の一枚を脱ぎ捨ててしまえば、なんということもなかった。この場所で服を着ていることの方が、むしろ不自然に思われた。
 アリアーナの後を追って、水の中に入る。深い水脈から湧き出る水は、真夏でもひどく冷たい。
 きん、と痺れるような冷たさが、骨まで伝わってくる。三分も浸かっていたら唇が紫色になってしまうだろう。そんな冷水の中でいつも十分以上泳いでいるアリアーナは、いったいどういう身体をしているのやら。
「……冷たいな」
 自分の身体を抱くようにしてつぶやく。鍛え抜いた肉体を持つ彩樹であっても、この低温に長くは耐えられない。
「そうか? わたしは平気だが」
「お前の神経はどっかへンなんだよ」
「サイキがひ弱なんだろう」
 池の中心まで泳ぎ出ていたアリアーナが戻ってくる。目の前で立ち上がって、無数の水滴が滴った。
「こうすれば、暖かいだろう」
 なんの前振りもなしに、そう言って身体を押しつけてきた。ぴったりと肌を合わせ、両腕を腰に回してくる。
「……お、おい」
「私は、暖かいぞ」
 アリアーナの顔が、すぐ目の前にあった。
 深い紫の瞳が、真っ直ぐに見つめている。
 肌が触れ合っている身体の前面だけが、妙に熱かった。
「サイキ……」
 少しずつ、顔が近付いてくる。息が顔にかかる。
 彩樹はおずおずと、アリアーナの細い腰に腕を回した。滑らかな、吸い付くような肌だった。
 ごくり……と唾を飲んで、相手の瞳を覗き込む。
 そこに、自分の姿が映っていた。
「……オレを、挑発してるのか?」
「さあ、どうだろう」
 静かに微笑んでいる。こんな状況下でも冷静なアリアーナが、少し憎らしい。
「サイキは、嫌なのか?」
「……さあ、どうかな」
 わからなかった。自分でもわからない。
 どうしてだろう。他のどんな女の子が相手であれ、こんな状況下で悩むことなどなかったのに。
「くそっ」
 彩樹は小さく舌打ちすると、乱暴に唇を重ねた。アリアーナはわずかに身じろぎしただけで、抵抗はしなかった。
 柔らかい唇だった。これまでにキスをした誰よりも、柔らかいと思った。アリアーナを抱く腕に、ぎゅっと力を込める。ふくよかな胸が、二人の身体のに挟まれて柔らかく潰れた。
「まさか、キスだけですむなんて思っちゃいないだろーな?」
 アリアーナは黙って、こちらを見ていた。ただ静かに微笑んで。
 彩樹はそっと、アリアーナの身体を湖岸の草の上に押し倒した。その上に身体を重ね、もう一度唇を合わせる。
 指先でそっと、胸に触れた。そのまま静かに指を滑らせる。鎖骨から、首筋へと。
「……サイキ」
 上体を少し起こして、真上からアリアーナの顔を見下ろした。紫の瞳が潤んで、木漏れ日を反射している。まるで宝石のアメシストのようだ。
 無意識のうちに、口元が緩む。彩樹の手は、アリアーナの首に触れていた。
「細い首だな。ちょっと力を入れたら……」
 折れそうだ、と。
 その言葉を発することなく、彩樹は手に力を込めた。
 宝石のような瞳が、驚愕に見開かれる。
 彩樹の口には、笑みが浮かんだままだった。笑みの張り付いた顔のまま、手に力を込めていく。
 その握力は、同世代の並の男子よりもはるかに強い。そして、彩樹は本気だった。
 アリアーナの表情が苦痛に歪む。
「……や……めて……。苦し……」
 か細い懇願の声を無視して、アリアーナの首を絞め続けた。
 細い首を掴んでいる右手に、体重をかけていく。酸素と血液の供給を止められたアリアーナの真白い顔が、赤黒く変色しはじめていた。
 それでも、力を緩めようとしない。それどころか、左手も添えて渾身の力で締め上げる。
「お願い……サイキ……」
 アリアーナの指が、彩樹の手を引っかく。その力はか弱く、手の甲に微かな紅い筋をつけるのが精一杯だった。
 その時ふと、彩樹の顔から狂気の混じった笑みが消えた。代わりに、訝しげな表情を浮かべる。
「違う……? お前、……いったい何だ?」
 答えはない。
 聞こえていないのか、あるいは力いっぱい首を絞められているために、答える余裕がないのか。
 どちらでも、彩樹にとっては同じことだった。
「ああ、答えなくていいや。あいつの姿をしている、オレにはそれだけで十分だ」
 気管の上に置いていた親指に、最後の力を込める。
「……死ねよ、お前」
 気管が潰れる感触が伝わってきた。指が喉にめり込む。
 咳き込むような音とともに、アリアーナの口から血の泡が吹き出す。
 彩樹の手に爪を立てていた白い手から、力が抜けていった。
 口から溢れ出した血が、彩樹の手を汚す。
 そっと、手を放した。
 見開かれたままの瞳からは生命の光が消え、今はアメシストではなくて、ただのガラス玉に見えた。



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