二章 狼の晩餐


 翌日の夕刻――
 リューリィは一人、樹に縛り付けられていた。
 目の前にはエイシスの荷物が置いてあるが、その持ち主の姿はない。
 今夜はここで野営することに決めたエイシスは、食料の調達に行っていた。干し肉は喰い飽きた、ということで狩りをすることにしたのだ。
 ここはちょうど森を抜けたところで、目の前にはまばらに灌木が生えた草原が広がっている。この辺りなら、野ウサギや木ネズミが獲れるだろうと考えたらしい。
 これは、リューリィにとってチャンスだった。
 エイシスの姿が見えなくなったところで、彼女は作業を始めた。
 その手には、小さな黒曜石のかけらが握られている。
 昼間、山道を歩いている最中にこれを見つけ、つまづいて転んだふりをしてこっそり拾っておいたのだ。鋭利な黒曜石の破片は、そのまま刃物として使える。
 後ろ手に縛られているし、拾った黒曜石は小さな物なのでなかなか上手くロープは切れないが、リューリィは諦めない。
 魔法が使えれば簡単なのだが、さすがにエイシスもその点は抜かりなく、リューリィの周囲に魔法封じの結界を張っていた。
 あの男が戻ってくる前に……と、リューリィは必死に黒曜石でロープを擦る。
 もう少し。
 もう少し……。
 切れた!
 両手を縛っていたロープがはらりと落ちる。
 こうなれば後の作業は簡単だ。
 自由になった手で、身体を樹に縛り付けていたロープを解いたリューリィは、周囲を油断なく見回し、エイシスの姿が見えないことを確認して立ち上がった。
 どっちへ逃げるべきか?
 ほんの少し考えてから、背後の森へ向かって走り出す。
 他に選択肢はない。草原の中を走っていたら簡単に見つかってしまうだろう。
 正直なところ、ただ逃げ出すのは癪だった。
 できれば、逃げる前にエイシスになにか仕返しをしたかったのだが、今はあまり危険を冒すわけにもいかない。今度捕まったら、もう簡単には逃げ出せないだろう。
(見てらっしゃい。今度どこかで会ったら、きっとひどい目に遭わせてやるんだから!)
 リューリィは、負けず嫌いな性格である。
 どうやって、という具体的な方法は取り敢えずおいといて、今度こそ正真正銘の『復讐』を誓うのだった。



 エイシスは夕食のおかずを獲るために狩りに行ったのだが、それは何もエイシスだけに限ったことではない。夕まずめのこの時刻は、他の多くの肉食動物にとっても狩りの時間帯だった。
 鋭い牙と爪を持った肉食獣でも、そう簡単に獲物を捕れるわけではない。狙われる側の草食動物も、群をつくって見張りを立てるなどの対策を講じているし、いざ襲われれば、息絶える最後の瞬間まで必死に抵抗しようとする。
 だから、肉食獣はできるだけ襲いやすい獲物を狙う。
 病気や怪我などで弱っているもの。
 まだ力のない子供。
 群からはぐれたもの。
 そして今、これらの条件を満たした獲物が無防備に森の中を歩いていた。


 リューリィがそれに気付いたときには、すっかり取り囲まれてしまっていた。
 暗くなり始めた森の中で、金色に光る目。
 その数は、十や二十ではない。
 飢えた狼の群だった。
 低い唸り声を上げながら、徐々に包囲の輪を狭めてくる。
「な……なによ、あたしにケンカを売ると痛い目に遭うわよ!」
 リューリィは大きな樹を背にして立ち、狼に向かって言った。但し、その声は幾分震えている。
 勿論、いくら強がって見せたところで、そんな人間の言葉が狼に通じるはずもないのだが。
 実際のところ、狼が人間を襲うことはそう多くない。武器や魔法を使いこなす人間は狼よりも強い存在であり、狼はそのことをよく知っているからだ。
 だが、一人きりでいる子供となれば話は別だ。
 しかもリューリィは、武器を持っていない。
 逃げ出すのに使った黒曜石のかけらはまだポケットの中に入っていたが、こんなものは狼相手には何の役にも立たない。
 そうなると、リューリィの身を守るものは魔法しかなかった。両手の指を組んで印を結ぶと、呪文を唱え始める。
『天と地の狭間にあるもの
 力ある者達よ
 我の言葉に応え、我が元に集え……』
 ざわっ
 リューリィの周囲で不自然に風が巻き、木の葉を揺らした。
 狼たちは何かの気配を感じ取ったのか、盛んに唸り声を上げる。
 リューリィは、魔力の源となる精霊を召喚しようとしていた。
 だが、思いのほか精霊の反応は鈍い。
 彼女に魔法を教えてくれた先生は「スジがいい」と褒めてくれたものだが、リューリィはまだ十歳、実践魔法の初歩をちょっとかじった程度に過ぎない。
 実際にこうして魔法で闘うのも初めてのことだ。緊張しているため、精神集中も上手くいかない。
(アプシの樹か、オルディカがあればいいのに……)
 リューリィは唇を噛んだ。
 一部の植物は魔力の増幅、集中を助けるする性質を持っていて、アプシやオルディカはその代表だ。魔除けの護符や、いわゆる『魔術師の杖』の素材として使われている。
 昨日、エイシスに奇襲を仕掛けた時にはアプシの樹の小さな枝を持っていたのだが、それは捕まった時に落としてしまっていた。
(一頭か二頭やっつけたら、怖じ気づいて逃げ出してくれないかなぁ……)
 リューリィとしては、そう期待するしかない。見える範囲だけでも優に二〜三十頭はいる狼を、簡単に全て倒せるとは思えなかった。
 徐々に、包囲の輪を狭めてきた狼の群の中から、特に血の気の多い一頭が飛び出してくる。
「炎よ!」
 リューリィは、狼に向かって手を突き出して叫んだ。
 瞬間、その狼の身体は炎に包まれて地面に転がる。
 それが、きっかけとなった。
 他の狼たちは、まったく怯むことなく襲いかかってくる。
 リューリィの力を見た狼は、直接牙が届くところまではそうそう近寄らないが、入れ替わり立ち替わり、今にも噛みつくぞといった素振りを見せる。その度にリューリィは炎の魔法を放つのだが、相手の動きが素速いことと、気が動転していることで、なかなか命中しない。
 そんなやりとりの繰り返しは、リューリィの体力と気力を急激に消耗させていく。
 それが、この狼たちの戦法だった。威嚇を繰り返すことで相手を消耗させ、力尽きて隙ができたところで確実に仕留めようというのだ。
 リューリィはもともと体力のない子供だ。持久力という点で野生動物と張り合えるはずがない。
 それに、昨日からろくに食事も摂っていないためにひどく空腹だった。別にエイシスが食べ物をくれなかったわけではないのだが「腹を空かして見栄えが悪くなると売れないから食え」という台詞を聞いて食欲をなくしたのだ。それに、エイシスからもらった物を食べるというのなんだか屈辱だった。
(こんなことなら、我慢して食べておくべきだったかなぁ……)
 やっと三頭目の狼を倒した時、リューリィはもう疲れきっていた。
 体力的なものもあるが、なにより、命懸けの闘いというのは慣れない者にとって精神的な消耗が激しいのだ。
(もう……ダメ……)
 息が切れて、目がかすむ。
 足に力が入らなくなったリューリィは、地面に座り込んだ。
(生きたまま狼に食べられるなんて、ヤダなぁ。きっと痛いんだろうなぁ……)
 ぼんやりと、そんなことを考える。
 リューリィが力尽きたのを見た狼の群はたちまち包囲の輪を狭め、一斉に襲いかかって……は来なかった。
 狼の視線は、リューリィではない相手に注がれている。
「え……?」
「天と地の狭間にあるもの
 力を司る者達よ
 我の言葉に従い、我が元に集え……」
 背後から低い男の声が聞こえた。
 リューリィは顔を上げる。
「傭兵……」
 いつの間にか、エイシスがそこに立っていた。
 魔法の印を結び、呪文を唱えている。
「我は命ずる
 力ある言葉に従い
 汝らの力を解き放ち
 数多の世界より
 我の元に届けんことを
 ――炎よ!」
 それは、リューリィのささやかな魔法とはまるで次元の違うものだった。突如出現した炎の竜巻が、十数頭の狼を一瞬にして薙ぎ倒す。
「よぉ、困ってるようだな?」
 エイシスは地面にへたり込んでいるリューリィを見下ろし、ニヤリと笑った。
「だ、誰も助けてくれなんて言ってないよ!」
 体力を使い果たし、肩で息をしながらもリューリィは虚勢を張る。
「売り飛ばされて、変態オヤジの慰み物になるくらいなら、狼に喰われた方がマシだもの」
「そっか、じゃあそうしろ」
 リューリィの言葉にあっさり頷いたエイシスは、背を向けて立ち去ろうとする。
「あ、ちょ、ちょっと待った!」
 リューリィは慌てて呼び止める。
 強敵の出現にも関わらず、生き残った狼が相変わらず二人を取り囲んでいることに気付いたからだ。
「別に頼んじゃいないけど……あんたがどうしてもって言うんなら、助けられてやってもいいよ」
 それが、精一杯の強がりだった。
 しかし、エイシスは足を止めない。
「いや、別にそうまでして助けたいわけじゃない。疲れるしな……、でも」
 エイシスは振り向くと、からかうような表情で笑った。
「どうしても助けて欲しいって言うんなら、助けてやってもいいぜ、リュー?」
「うぅ……」
 リューリィは、涙目でエイシスを睨み付けた。
「なによっ! この性悪男! わざわざここまで来たんなら助けて行きなさいよっ!」
「お願いします、を忘れてるぞ?」
「……」
 ちらりと、背後の狼の群を振り返る。エイシスが離れるにつれて、狼は再びリューリィに迫ってきている。
 その群の中心に、一際大きな狼がいることにリューリィは気付いた。
 周りにいる並の狼の倍近い体格だ。これが、この群のリーダーなのだろう。
 おそらくただの狼ではない。遠い昔、魔術師たちの手で戦争の道具として造り出された魔物の末裔だ。
 大きな口に並んだ牙は、リューリィの手足など一噛みで喰いちぎることができそうに見える。
 それが、一歩一歩こちらに向かって歩いてくる。
 全身に鳥肌が立つのを感じて、リューリィはエイシスの背中に向かって叫んだ。
「お願いだから助けてよっ! このバカッ!」
 その言葉と同時に、再び炎の竜巻が現れて狼の群を蹂躙する。それでもリーダーだけは怯むことなく、リューリィに飛びかかってきた。
「ひっ!」
 思わず、頭を抱えて目を瞑る。
 しかし、いつまでたっても何も起こらない。
 恐る恐る目を開けると、目の前にエイシスの大きな背中があった。
 その手には、大きな剣が握られている。
 リューリィの背丈よりも大きな剣。
 刃に、少し血が付いている。
 そしてエイシスの前には、両断された大きな狼の死体が転がっていた。
 他の狼の姿はない。
 リーダーが倒されたので逃げ出したらしい。
「怪我はないか?」
 剣を鞘にしまうと、エイシスは振り返る。
「顔に傷でも付いたら大変だ。値打ちが下がるからな」
「……平気よ」
 差しのべられた手を無視して、リューリィは自力で立ち上がった。
 スカートに付いた土埃や草を払い落とす。
「……ま、ちょっとだけ感謝してあげないこともないわ」
 つんとすました表情でリューリィは言ったが、その頬に涙の痕があるのを見てエイシスは小さく笑う。
 それから、足元に放り出してあった野ウサギを拾い上げてリューリィに渡した。
「手間かけさせた罰だ。晩メシの支度はお前がやれよ」
「ふん、だ」
 リューリィはエイシスに向かって舌を出したが、それでも大きな野ウサギを抱えて後をついていった。



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