それは、金曜の夜のこと。
北海道の秋は、夜になるとずいぶんと気温が下がる。それでも、掌にお互いの温もりを感じているので寒さは気にならない。
奈子と由維は夕食の後、奏珠別公園の展望台へと向かった。いよいよ、由維を連れて向こうへ行こうというのだ。
月の綺麗な、静かな夜だった。展望台への坂道は、エンマコオロギをはじめとする秋の虫たちの声だけが響いている。
小さな公園となった展望台は、奏珠別の街の夜景を見下ろせる場所なのだが、夜に人がいることはほとんどない。水銀灯の冷たい光が、周囲をぼんやりと照らしていた。
「なんだか、ドキドキしますね〜」
「それはいいんだけど…そのカッコは何?」
興奮気味の由維に向かって、奈子は呆れ顔で訊いた。
奈子はいつものように、ジーンズに薄手のブルゾンという姿。公園の茂みの陰で向こうの服に着替えるのが常だった。
それに対して由維の服装は…。
セーラー服、だった。
赤いミニスカートで一部男性に人気の、白岩学園中等部の制服だ。
「知らないんですか?」
自分の服装になんの疑問も持たない様子で由維が応える。
「女の子が主役の異世界乱入ファンタジーでは、学校の制服を着なければならないんですよ」
「誰が決めた、そんなこと」
「それに、セーラー服は女子中学生の戦闘服ですから」
「……ま、いいけど」
奈子は肩をすくめた。向こうへ着いたら、由維のサイズに合う服を買ってやらなければなるまい。
「じゃあ、行こっか?」
ポケットから、一枚のカードを取り出す。転移魔法のカードを。
由維はこくんとうなずいて、奈子に抱きついた。
「しっかり掴まってて」
「うん」
「シカルト トゥ シルカ…」
奈子の唇が、転移魔法の呪文を紡ぎ出す。手の中のカードが一瞬の閃光を放って消滅し、白い霧のような光が二人を包み込んだ。
呪文に呼応するかのように、光はどんどん強くなってゆく。
「…で、ここ、どこなんです?」
由維が訊いた。
もっともな質問だ。
しかし、それを訊きたいのは奈子も同じだ。
今回の目的地は、いつものようにソレアの家だった。それが一番確実に転移できる場所なのだ。
だが、いま二人がいるのは、大きな街の中だった。
ソレアの屋敷があるタルコプのような田舎町ではない。もっともっと大きな街。相当な都会だ。
奈子にも見覚えのない街並みだった。
マイカラスの王都も問題にならない大きな街。これに匹敵するほどの都会といえば、ハレイトンの王都か、トカイ・ラーナ教会の総本山があるトゥラシくらいしか行ったことはない。しかしこの街はそのどちらでもない。
気温は高めだ。かなり南の地方なのだろうか。
「…ゴメン、失敗したみたい」
奈子は素直にミスを認めた。
転移魔法はひどく繊細なものだ。ちょっとしたきっかけで、まったく違った場所へ移動してしまうことも珍しくない。特に奈子の場合は、最近少なくなったとはいえ、それでも五〜六回に一回は失敗してしまう。
「…今日は一日、この街で過ごすしかないか」
ファージやソレアならともかく、奈子の転移は何度も続けて行うことができない。少なくとも十数時間の間隔を置かねばならず、事実上一日一回と制限されているのだ。
明日までは、帰ることもできない。
「奈子先輩も初めての街なんでしょう? とりあえず、観光しよ」
由維が気楽にに言う。彼女にとってはタルコプだろうとそれ以外の街だろうと、物珍しい初めての土地に変わりはない。
「そうだね…」
奈子もうなずいた。実際のところ、他に選択肢はないのだ。
街の中は人通りが多い。
時折、由維のことを不思議そうに見る人もいる。なにしろセーラー服を着ているのだから当然のことだ。しかし、交易の盛んな街なのか、様々な人種、様々な衣装の人が歩いているので、心配したほどには目立っていないようだった。
二人で、街の中を歩き回る。街の名前すらわからないというのは困ったものだが、かといって通りすがりの人に「ここはなんて街ですか?」などと訊くのも不自然すぎる。適当に歩きながら、ヒントを探すしかないだろう。
「あれ、何かわかります?」
円形の建物を指差して、由維が訊いた。大きな建造物で、どことなく野球場に似ていなくもない。
「あれは…闘技場、じゃないかなぁ。ハレイトンの街で、似たような建物を見たことあるよ」
「闘技場? 古代ローマにあったような?」
「そう。もっとも、貴族の楽しみのために奴隷を闘わせるというよりは、もっと競技として完成されたものだけど」
奈子は以前、ファージに連れられてハレイトンの王都を訪れた時に、見たことがある。
闘技者は傭兵が多いらしい。勝者は少なからぬ賞金を得られるから、平時の稼ぎ場所としてはうってつけなのだろう。特に腕の立つ者は、正規軍の騎士に取り立てられることも珍しくない。
傭兵の他にも、若い騎士たちが腕試しとして参加することも多いという。だから、試合のレベルはかなり高い。古代ローマのような、凄惨な「見せ物」ではないようだ。とはいえ試合は賭けの対象にもなっていて、市民にとっては楽しい娯楽であるのだが。
「誰でも入れるんですか? ちょっと見てみたいなぁ」
「ハレイトンの闘技場は、誰でも入れたよ。ちょっと行ってみる?」
城内から歓声が聞こえてくるところを見ると、今も試合が行われているのだろう。二人は、闘技場へと入っていった。
野球場か陸上競技場にも似た、屋根のない円形の建物は、思っていたよりも広い。観客も一万人近くらい収容できそうだ。その客席はほぼ満員である。
二人が入った時、ちょうど試合が行われているところだった。観客たちが熱狂している。
「うわぁ、すごい! ねぇ、あれ! 女の人ですよ」
由維が興奮した声を上げる。
確かに、試合場で対峙している二人のうちの一方は、若い女性だった。両手に剣を持って、二刀流の使い手らしい。相手は見るからに力自慢といった、屈強な男だ。
それを見て、奈子も少し驚いた。女性の騎士がさほど珍しくないこの世界でも、傭兵や闘技場の闘士となれば話は別だ。
しかも、この女戦士が強い。自分よりもはるかに大きな男を圧倒している。
二人とも、赤い光の剣を持っている。といっても、ファージが使うような魔力が結晶した剣ではない。普通の剣に似た柄から、ややピンクがかった赤い光が伸びている。見た目はまるでライトセーバーだ。
それが、こうした試合で用いられる剣であることを奈子は知っていた。魔力に反応して熱と光を発する鉱物が柄の中に組み込まれていて、光の刃のように見えるのだが、それは実体を持っていない。
通常の攻撃魔法と比べても力が抑えられていて、よほどのことがなければ命を落とすようなことはない。もちろん、まともに当たれば怪我は免れないのだが。
奈子の世界でいえば、真剣ではなく木刀での闘いといったところだろうか。
「魔法も使っていいんですね」
飛び交う光の矢を見て、由維がつぶやく。
「当然でしょ」
この世界では当たり前のことだ。『戦士』や『魔術師』といった職業が定められているロールプレイングゲームとは違う。ここでは剣と魔法は独立したものではなく、二つが組み合わされて戦いの技術となっているのだ。
女戦士は、青白い光の魔法の矢を立て続けに放ち、相手の体勢を崩す。その一瞬の隙に間合いを詰め、剣を振った。
男は最初の打ち込みは辛うじて受けとめたものの、もう片方の剣に対応するのは間に合わなかった。
胴をまともに打たれる。
脚へもう一撃。
とどめに肩口めがけて、剣が袈裟斬りに振り下ろされる。
男が倒れ、歓声が場内を包み込んだ。
観客たちが口々に叫んでいる「エリシュエル」というのが彼女の名前なのだろう。すごい人気だ。
それも無理はない。年齢は、奈子よりも少し上だろうか。背格好は同じくらいで、なかなかの美人だ。目つきは鋭いが、クレインやダルジィに比べれば、いくらか少女らしい可憐さがある。
エリシュエルは軽く手を上げて観客の声援に応えると、何事もなかったかのような表情で引き上げてきた。
ちょうどその通路の横に、奈子と由維は立っていた。すぐ傍をエリシュエルが通り過ぎようとする。あれだけ激しい闘いの直後なのに、ほとんど汗もかいていない。
「カッコイイですね〜、クールな感じで。奈子先輩と、どっちが強いかな?」
由維は日本語で話しているのだから、言っていることがわかったわけではないだろうが、エリシュエルはぴたりと足を止めた。
真っ直ぐに、奈子の顔を見て。
こちらへやってくる。
近くで見ると、背は奈子よりもわずかに低いだろうか。細身なのはどちらも同じだが、胸が小さい分、向こうの方が小柄に見える。
それでも、全身から放つ気は相当なものだ。研ぎ澄まされた、鋭い刃物を思わせる雰囲気を持っている。
エリシュエルは鋭い目で、奈子を不躾にじろじろと見て言った。
「お前、名はなんという?」
「え…? 奈子…ナコ・ウェル」
奈子は戸惑いながらも応えた。エリシュエルの口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「ナコ…か。では、ここで私と闘え」
「……は?」
いきなりのことで、一瞬なにを言われたのかわからなかった。傍らの由維が、奈子の服をくいくいと引っ張る。
「この人、なんて言ってるんですか?」
「なんか…私と闘えって、言ってるみたい」
そう通訳すると、たちまち由維が目を輝かせた。
「奈子先輩、この闘技場で闘うの? うわ〜カッコイイ! 私、応援しますね」
「ちょ、ちょっと由維…」
「まさか、逃げはしないでしょう? その銀環が飾りではないというのなら」
エリシュエルは、奈子の左手を指差した。手首に光る銀の腕輪は、マイカラス王国の騎士の証だ。
(あ…これのせいか…)
奈子は理解した。奈子が騎士であることに気付いて、腕試ししてみたくなったのだろうか。同世代の女騎士なんて、それほど多くはない。興味を惹かれるのもわかる。
奈子は、エリシュエルを見た。
強そうな相手だ。ファージやクレインのような正真正銘の竜騎士は別格としても、先ほどの闘いを見る限り、あの「マイカラスの戦姫」ダルジィにも匹敵するかもしれない。同世代の女子でこれほどの相手、そうそういないだろう。
闘ってみたい…正直なところ、奈子もそう思った。
突然のことなので戸惑いはしたが、結局のところ、奈子も闘うことが好きなのだ。
「いいよ、やってやろうじゃん」
「よし、話をつけてくる」
エリシュエルは、この闘技場の運営委員と思しき男たちのいる方へと歩いていった。
隣にいる由維が、妙にはしゃいでいる。意外なところで奈子の試合が観られて、嬉しいのだろう。
「奈子先輩、お金貸してくれません?」
いきなり、由維が言った。
「なぜ?」
「決まってるじゃないですか。奈子先輩に賭けるんですよ」
確かに、闘技場での試合はすべて賭けの対象になっている。
「あの人、すごい人気みたいだから、奈子先輩が勝てば大儲けですよ、きっと」
「あんたね…」
由維の要領のよさに呆れながらも、奈子は一掴みの金貨と銀貨を渡してやった。
『お集まりの皆さんに、素晴らしいお知らせがあります!』
闘技場の中心に進み出た初老の男性が、観客へ向かって大きな声で呼びかける。豊かな髭を蓄えたこの男が、闘技場の運営責任者であるという。
何千という観客の視線が集中する。
『予定されていた今日の試合はすべて終わりましたが、最後にもう一試合、特別試合を行います。この闘技場で不敗を誇る「戦場の舞姫」エリシュエル・ディンに、新たな挑戦者が現れました!』
その言葉に観客がどよめく。どうやら多くは、エリシュエルの試合が目当てで来ているらしい。それが一日に二試合も観られるということで、喜びの声が上がる。
『挑戦者は、はるかな東方の地マイカラスよりやって参りました。マイカラスといえば小国ながらも、トリニアの伝統を色濃く残す騎士団の強さは大陸中に知られております。今年になってからも、兵数にして五倍の敵を見事に撃ち破った精鋭揃い。
そのマイカラスの騎士団の中でもっとも年若い身でありながら、一、二を争う実力の持ち主。そして国王ハルトインカル・ウェル・アイサールの危機を何度も救ったマイカラスの若き英雄が、武者修行の旅の途中、このアルトゥルの地に立ち寄ったのであります!』
観客に与える効果を充分に計算して、男は一呼吸分の間を取る。
『ご紹介しましょう。マイカラスの美しき女豹! ナコ・ウェル・マツミヤ!』
奈子は思わず赤面する。
相当に脚色の入った紹介だ。彼は、奈子がマイカラスの騎士であることしか知らないはずなのに。しかし「騎士団の中でもっとも若い」「国王の危機を救った」という部分はあながち間違いでもない。
それに、この紹介のおかげで観客の盛り上がりはすごい。促されて闘技場に足を進めた奈子が、エリシュエルとさほど変わらない年齢の少女であったことも、観客たちを驚かせた。
奈子はかすかに肩をすくめる。
空手の全国大会の決勝だって、こんな熱狂的な盛り上がりを見せることはない。
まるで、プロレスのリングではないか。あの大げさな紹介は、多少面映ゆい。
とはいえ、向こうにも事情というものがあるのだろう。奈子の実力と実績が、エリシュエルに引けを取らないものであると観客に思わせなければ、賭けが成立しないのだから。
そのこととは別に、表情には出さなかったが、奈子もひとつ驚いていた。
今の男の台詞の中にあった「このアルトゥルの地」という言葉。
では、ここはアルトゥル王国なのだ。
早まったかな、と。ちらりと、そんなことを思った。
アルトゥル王国といえば、大陸南西部の広い地域を支配する大国だ。その軍事力は強大で、大陸中でも一、二を争う。兵の質も高いと聞いている。
奈子は以前、アルトゥル王国の赤旗将軍と名乗る男と闘ったことがあるが、確かに強かった。その時は無銘の剣の力で、なんとか切り抜けはしたが。
そんな国の闘技場で不敗を誇るというエリシュエルの実力も、生半可なものであるはずがない。「戦場の舞姫」という通り名を持つということは、闘技場だけではなく、実戦でも実績があるということだ。
(通り名といえば…)
先刻の「マイカラスの美しき女豹」というのには参った。由維が、この世界の言葉を理解できないのは幸いだった。聞かれていれば、しばらくはからかいのネタにされるだろう。
(…ま、とにかくやるしかないか)
そう、心を決める。
歓声がいっそう大きくなった。エリシュエルが場内に入ってきたのだ。
先ほどと同じく、両手に試合用の剣――魔光剣というのだそうだ――を持っている。
それは奈子も同じだ。向こうが用意してくれた何種類かの魔光剣の中から、やや短めのものを二振り選んだ。
奈子は滅多に長剣を使わない。使えなくはないが、空手の技が制限されるのが嫌なのだ。だから剣を相手にする場合、両手に大型の短剣を逆手に持つのが常だった。これなら、武器を持ったまま殴ることもできる。
二人は、十メートルほど離れて向き合った。真っ直ぐに見つめ合う。
エリシュエルは、静かな笑みを浮かべている。これから始まる闘いを待ち望んでいるかのように。
そう思った直後に気付いた。自分も、知らず知らずのうちに同じような笑みを浮かべているではないか。
なんだかんだいっても、闘うことが好きだ。 困った性格だけど…。
そんな自分は、嫌いじゃない。
奈子は、軽く息を吸い込んだ。魔光剣が輝きを増す。
立会人が手を上げる。「始め!」の声と共に、二人は同時に動いた。
大きく腕を振る。それぞれ、青白い光でできた魔法の矢を撃ち出す。
奈子は七本の矢を放射状に放った。一度広がった矢は、再び集まってエリシュエルを狙う。
それに対してエリシュエルは、五本の矢を扇状に放った。奈子の左右への動きを封じようというのだろう。
奈子は真っ直ぐに前へ出た。直撃コースにある矢を、防御結界を張ってまともに受けとめる。
エリシュエルは迫ってくる矢をぎりぎりまで引きつけて、一気に剣で薙ぎ払った。
その一瞬の隙に、奈子は間合いを詰める。
エリシュエルの剣が襲いかかる。奈子は左手の短剣で受けとめて、そのまま前に一歩踏み出す。
相手の剣は標準的なものよりもやや長めだから、奈子としては接近戦に持ち込みたい。それに、剣や魔法の間合いの内側に入り込めば、それは奈子にとって絶対的有利の距離だ。
エリシュエルが戸惑いの表情を浮かべる。奈子が、この世界の常識では有効な攻撃手段のない間合いまで入ってきたから。
拳を相手の腹に当てる。腰を落とし、全身の力を一点に集中して突き出す。
北原極闘流の奥義『衝』だ。
エリシュエルの身体が後ろに吹き飛ぶ。
(いや…浅い!)
傍目には、奈子の突きで飛ばされたように見えるが、それにしては手応えがなさ過ぎる。自分で後ろへ飛んだのだ。
徒手格闘が一般的ではないこの世界で、驚いた反射神経だ。
それでもダメージがまったくないということはないだろう。奈子は追撃しようとするが、エリシュエルは魔法でそれを牽制する。
目の前で放たれた魔法の矢を、奈子はサイドステップでかわす。同時に、こちらも魔法で反撃する。白い閃光が、相手の防御結界と衝突して弾ける。
エリシュエルが剣を構える。その打ち込みを受けとめながら、もう一方の剣を繰り出す。しかしその刃は、エリシュエルの長剣に阻まれる。
あれだけ長い剣を扱いながら、その速度は短剣を持つ奈子に引けを取らない。
魔光剣の光の刃がぶつかり合い、火花が散る。
立て続けに二撃、三撃。
エリシュエルの強烈な打ち込みに、奈子は必死に耐える。
下がるわけにはいかない。接近戦にこそ勝機があるのだ。
真横からの攻撃を、身を沈めてかわす。そのまま片足を軸に回転し、相手の脚を払った。いわゆる水面蹴りだ。
エリシュエルがバランスを崩した隙に踏み込んで、中段の回し蹴りを放つ。
「ぐぅっ!」
相手の動きが一瞬止まる。続けてローキックで脚を狙う。
それがまともに入った…と思った瞬間、奈子の身体が地面に転がった。左胸――鎖骨のすぐ下あたりに、強烈な衝撃を感じた。至近距離から強力な魔法を喰らったのだと気付いたのは、倒れてからのことだった。
攻撃に意識が集中するあまり、防御結界が疎かになっていたようだ。
倒れた奈子を、魔法の矢が追う。奈子は地面を転がってかわす。
その勢いを利用して、地面を蹴って跳び上がった。空中で奈子は、一度に撃てる限りの魔法の矢を放つ。
二十数本の矢の雨に、さすがのエリシュエルも追撃の手を止めて回避と防御に専念した。
その数秒間に、奈子は自分の身体をチェックする。
先刻の魔法はかなり痛かったが、それでも防御結界を破るまでにエネルギーの大半を費やしたらしく、痛みの割に外傷は大したことはない。ただ、まともに胸に当たったので一瞬息が止まった。
(さすがに、強いな…)
呼吸を整え、体勢を立て直す。
エリシュエルも剣を構え、今度は少しずつ間合いを詰めてくる。
お互いの呼吸を計り、時折小技で牽制を繰り返す。
三メートルくらいまで近付いたところで、一気に距離を詰めた。赤い光の刃同士がぶつかり合い、火花が散る。
普通の人間ならば目にもとまらない速度で、激しい剣戟が繰り広げられる。攻撃魔法を放つ余裕すらない。魔法は、防御結界に集中させる。
奈子は、徐々に押されつつあった。
剣同士の闘いではやはり不利だ。
奈子の専門はあくまでも徒手格闘である。素手の闘いならば打撃に限らず、投げでも関節でもこなすが、剣となると少し勝手が違う。
最近、暇を見てはファージや、あるいはマイカラスのケイウェリやダルジィに剣の手ほどきを受けてはいるが、エリシュエルのような一流を相手にしてはそうそう通じるものでもない。
それに、徒手格闘を前提として短剣を使っている奈子と、標準よりも長い剣を使うエリシュエルとでは、間合いからして違う。
奈子の闘い方のくせを憶えたのか、エリシュエルは必要以上に間合いを詰めなくなった。常に長剣ぎりぎりの間合いか、もっと距離を空けて魔法で攻撃してくる。
スピードでは向こうが上なのだから、遠距離の闘いに徹せられると打つ手がない。
これが、空手の大会ならば話は違う。軽量級チャンピオンの美夢のようにスピードで奈子を上まわる相手はいるが、向こうだって手足の届く距離に入ってこなければ攻撃できないのだから。
魔法の撃ち合いでも奈子は劣勢に立っていた。純粋な魔力の比較では奈子が勝るだろうが、魔法の技術や攻撃のコンビネーションの点ではまだまだ未熟だ。
今のところ、天性の格闘センスでなんとか持ちこたえている状態だった。
(くそ、苦しくなってきたな…)
奈子は小さく舌打ちする。こっちの世界での実戦も、これまで何度も体験してはいるが、こうしただだっ広い闘技場での一対一の闘いは、また勝手が違う。
一度、エリシュエルが離れた。遠距離から、立て続けに魔法を放つ。直線曲線、様々な軌道を描いた光線が襲いかかってくる。
横に跳んでかわそうとした奈子の足元で、小さな爆発が起こった。足を取られてバランスを崩す。
奈子は地面を転がって、続く魔法の矢を避けた。機銃掃射のように、次々と青色の光が地面に突き刺さる。
(ちっ、こうなったら…)
一瞬の隙に地面を蹴って立ち上がると、奈子はそこで動きを止めた。
防御結界に、すべての力をそそぎ込む。
避けもせず、反撃もせず、ただエリシュエルの攻撃にタイミングを合わせ、意識を集中して防御に徹する。
次々と飛来するエリシュエルの魔法は、防御結界を破ることはできなかった。
守りだけに集中していれば、この程度の小技は怖くない。魔力だけなら、奈子の力はエリシュエルを凌駕する。
こうなれば、エリシュエルの行動も大きく制限される。攻撃後に大きな隙ができることを覚悟の上で、強力な攻撃魔法を使用するか、それとも接近して剣でとどめを刺すか。
エリシュエルは後者を選んだ。
対魔法用の防御結界では、試合用の魔光剣とはいえ、剣での攻撃を完全に防ぐことはできないのだ。
時折、魔法を放って奈子の動きを牽制しながら、間合いを詰めてくる。
奈子は、慎重にその距離とタイミングを計っていた。
五メートル、三メートル、二メートル…。
エリシュエルの剣が動くのと同時に、奈子は力を解放した。
最大限まで強度を上げた防御結界を構成していた魔力を、そのまま、狙いもなにもなしに放出する。
エネルギーを一点に集中させた攻撃魔法に比べれば、相手に与えるダメージは微々たるものだ。それでも、魔力の強さだけなら桁外れの奈子にとっては、これはこれで有効な攻撃手段になる。少なくとも、相手の体勢を崩して隙を作るには充分だ。
狙い通り、エリシュエルは放出された魔力の奔流をまともに浴びて、大きくバランスを崩した。そこに奈子が飛び込む。
右の手刀で相手の手首を打ち、剣を落とさせる。同時に、顎を狙った下からの掌打。続けて腹への膝蹴りへと技をつなぐ。
「このっ!」
エリシュエルが叫ぶ。
相手を掴んで顔面への膝でとどめを刺そうとした奈子の身体が、突然炎に包まれた。
奈子は慌てて後ろに飛び退く。大丈夫、燃え移ってはいない。
距離が空いたところで、二人の動きが止まった。
二人とも、肩で息をしている。
お互い油断なく、相手の次の出方を探る。
…と突然、試合場に銅鑼の音が響き渡った。
「…あ!」
二人は同時に顔を上げる。
それは、時間切れの合図だった。
夜空に、三つの月がかかっている。
それぞれ少しずつ大きさの異なる、三つの月。
「こんな光景を見ると、ホントに異世界なんだな〜って実感しますね」
窓から身体を乗り出して空を見上げていた由維が、うっとりとつぶやく。
「初めて見た時は、死ぬほど驚いたけどね」
奈子が応える。一年ちょっと前、初めてこの世界へ迷い込んだときのことを思い出していた。見知らぬ土地に迷い込んだ奈子は、夜空に輝く三つの月を見て、パニックに陥ったものだ。
ここは街の中にある、比較的上等な宿だった。地方からやって来た騎士や、裕福な商人がよく利用するらしい。
本来なら、いくらマイカラスの騎士とはいえ、奈子のような小娘が泊まれるところではない。しかし、闘技場でエリシュエルと好勝負を繰り広げたことが主人の耳にも入っていたらしく、大層な歓迎ぶりだった。
二間続きの上等な部屋に、素晴らしい食事。
もちろん宿代も安くはないのだが、今夜は由維のおごりだ。
熱戦を終えて、疲れ切った奈子が戻った時、由維は妙にご機嫌だった。
奈子が渡した額の、何倍もの金貨が詰まった袋の口を開いて、得意そうに見せる。
「…あんた、どうしたの、これ?」
そういえば、奈子とエリシュエルの勝負で、奈子に賭けると言っていた。
よくよく考えてみれば、由維はこちらの言葉を話せない。まあ、要領のいい由維のことだから、言葉が通じなくても身振り手振りでなんとかなったのかもしれないが。
とはいえ、試合は引き分けだったのにこれはどうしたことだろう。
「えへへ…」
由維がほんの少しだけ、気まずそうな笑みを浮かべた。
「引き分けに賭けた人って、ほとんどいなかったらしいんですよ。おかげで大儲け」
「引き分け? どうして? アタシの応援してたんじゃないの?」
「そりゃあ応援はしてましたけどね、それとこれとはまた別問題。奈子先輩は確かに強いけど、あの人もすごく強そうだし、ここは相手の土俵だし、簡単には勝てないかな〜って。でも、奈子先輩が負けるとも思えなかったんで、だから引き分け。掛け率もよかったし」
確かに、ああいった闘技場での勝負が、引き分けで終わることは極めて珍しい。
賭けは圧倒的にエリシュエルの人気だっただろうが、それだけに大穴狙いで奈子に賭けた客もいることだろう。しかし、あの状況下で引き分けに賭ける酔狂な客はそうそういまい。
「儲かったから、今夜はなにか美味しいもの食べましょうよ。私、おごりますよ」
「元手はアタシの金じゃん」
正確に言えば、それはファージにもらったものなのだが。
とまあ、試合の後、そんなことがあったのだ。で、闘技場の偉い人をつかまえて宿を紹介してもらったというわけである。
それにしても、由維の要領のよさには呆れてしまう。
万が一、こっちに一人で置き去りにされても、こいつなら平気かも…と。
ちらりと、そんなことを考えた。
そんなことがあってから一週間後。
二人は、また一緒にこちらへ来ていた。
「あんまり、こんなこと言いたくないんですけどぉ…」
由維の視線が痛い。
「…なに?」
何気ない調子で応える奈子のこめかみを、一筋の冷や汗が流れ落ちる。
「ひょっとして奈子先輩って、すごく、魔法が…ヘタ?」
普通なら面と向かっては言いにくいことを、きっぱりと言うあたりが由維らしいといえばらしい。
しかし、奈子は何も言い返せなかった。
言い返せるわけがない。
「…で、ここ、どこなんです?」
由維は、一週間前と同じ台詞を口にした。
「…さあ」
奈子は肩をすくめる。
やっぱり、奈子の方がそれを訊きたかった。
先週はアルトゥル王国で一泊して帰った。で、祝日も含めて三連休の今週、今度こそソレアの家へ行こうとしたのだ。
その結果は…
また、見知らぬ街だった。
由維の口調が、やや軽蔑を含んだものであったとしても仕方がない。
確かに奈子は転移が下手だが、二連続で失敗などというのは珍しい。
やっぱり二人一緒ということで、いつもとは加減が違うのか。あるいは、由維に抱きつかれているから精神集中が乱れているのか。
「いや、まあ…。また、知らない街を観光できると思えばいいじゃない」
「タルコプだって、私にとっては知らない街ですよ」
由維が口を尖らせる。早くソレアに会いたがっているのだ。
なにしろ今の状態では、由維はこちらの言葉をろくに話せないから、不自由で仕方がない。奈子が初めてファージと出会った時と同じように、魔法の力で、アイクル語を話せるようにしてもらおうと思っているのだ。
あれはかけられる側にとっては泣くほど痛い魔法だが、ソレアならファージほど乱暴にはしないだろう。後で聞いたところでは、ファージのように一瞬でやろうとせずに、少し時間――といってもせいぜい数分間なのだが――をかければ、ほとんど痛みはないということだった。
「奈子先輩はいいかもしれないけど、私は不便なんですよ、いろいろと」
「まあ、来てしまったものは仕方ないじゃん。明日までは戻れないんだし…」
そんなわけで二人は当てもなく、街の中をうろついていた。
ここも、相当に大きな街だ。
建物の大きさや洗練度ではアルトゥルの王都の方が上だろうが、人の多さや賑やかさという点ではこちらに軍配が上がる。
近くに大きな川が流れているのだろうか。街の中にも無数の運河が走り、荷物を山と積んだ艀が浮かんでいる。
「ところで、お腹空きません?」
しばらく街の中を見て回ったところで、由維が訊いてきた。
「ん〜、そうだね」
太陽の位置からすると、こちらでは午後二〜三時といったところだろうか。しかし、朝に家を出てきた奈子たちにとっては、そろそろ昼食の時間だ。
「そこのお店なんて、どうです?」
由維が、近くにある小さな宿を指差した。こういった宿の例に漏れず、一階は酒場を兼ねた食堂になっている。
ちらりと覗いてみると、食事には中途半端な時刻だというのに、客は意外と多い。このあたりでは人気の店なのかもしれない。
「これだけ人気があるってことは、きっと美味しいんですよ」
そう言って、由維が先に入口をくぐる。奈子も後に続いた。
こぢんまりとした店だ。雰囲気は悪くないが、壁や柱のあちこちに、剣で斬りつけたと思しき傷跡が残っている。まあ、こういった店では酔って喧嘩する客も多いのだろうと、特に気にもせず空いている席に着いた。
すぐに、奈子より一つ二つくらい年上の少女が注文を取りに来る。この宿の娘だろうか。薄いそばかすのある可愛らしい顔で、以前記憶喪失になった時に世話になった、ウェンタラの村のチャイカに少し雰囲気が似ていた。
(そういえば、あれから会ってないな…。今度、行ってみようか)
自力でたどり着くのは難しいだろうが、ソレアかファージに頼めば連れていってもらえるだろう。
そんなことを考えながら、おすすめの料理をいくつか注文した。運ばれてきた料理は、おすすめだけにどれも美味しい。
そろそろ食べ終わるかという頃、一瞬、店の中がざわめいた。
店内の男たちが皆、嬉しそうに入口を見ている。ちょうど、一人の少女が店に入ってきたところだった。
「う…わぁ…、綺麗な人…」
入口に背を向けて座っていた奈子は、そんな由維のつぶやきに後ろを振り返った。
思わず、息を呑む。
男たちが騒ぐのも、由維が見とれているのももっともだ。そのくらい、美しい少女だった。
歳の頃は奈子と同じくらいだろう。美しい金髪を腰まで伸ばし、瞳は深い緑。そして肌は透き通るように白い。
一瞬、どこのお姫様かと思ったが、着ているものはこの街で普通に見かける街娘のものだ。買い物でもしてきたのか、野菜や肉の入った大きなかごを抱えて、まぶしいくらいの笑顔を見せている。
「はぁ…」
思わずため息が出る。こんな、裏通りの宿にいるような娘には見えない。
料理を運んで厨房から出てきた先刻のそばかすの少女が、その美少女に気付いて明るい声で言った。
「あら、お帰りなさい、リュー」
「――っっっっ!」
奈子は、思わず口の中のものを吹き出すところだった。慌てて口を押さえる。
一瞬で、疑問が氷解した。
あの美少女は何者なのか。
ここはなんという街なのか。
同時に、額から汗が噴き出す。
「どうしたんですか?」
奈子の不審な行動に、由維が首を傾げる。
「…な、なんでもない。早く食べて、出よう。お、大きな街だし、急がないと今日中に全部見て回れないよ」
「私、デザートも食べたいんだけどな〜」
「そんなの後でいいっしょ。さ、早く」
大慌てで由維を急かす。
まずい。
なんだかよくわからないけれど、非常にまずい。
そんな気がした。
彼女に、こちらの正体を知られてはならない、と。
まったく、なんという偶然だろう。転移のミスで訪れた街で、たまたま食事に入った店で、彼女に会うなんて。
この街は、大陸西部にある、交易で栄える自治都市ハシュハルドだ。
彼女は、リューリィ・リン・セイシェルに違いない。
ハシュハルド一と評判の美少女。
そして――
あのエイシスの恋人だ。
別に、奈子が負い目を感じる必要はないはずだったが、ついこの間エイシスとあんなことをした直後にリューリィに会うというのは、あまりにも気まずい。
これまで直接会ったことはなかったが、フェイリアやエイシス、あるいはファージから話は聞いている。彼女も結構嫉妬深く、怒らせると怖い性格らしい。
悪いのは主にエイシスとはいえ、リューリィの立場から見れば、奈子もエイシスの浮気相手の一人ということになる。そうと知ったリューリィがどんな反応を示すか、試してみる勇気はなかった。
状況が飲み込めずに首を傾げている由維を引っ張るようにして、奈子は早々に店を出た。
通りを一本越えたところで、ふぅっと大きく安堵の息をつく。
「いったい、どうしたんですか?」
「この街…」
奈子は絞り出すように言った。
「…ハシュハルド、だ」
その一言で、由維も事情を察したようだ。
「てことは、あの綺麗な人が例の、リューリィ・リン?」
「…だろうね」
「ふぅん…」
意地の悪い笑みを浮かべて言った。
「それで、慌てて逃げ出したんだ? そりゃそ〜よね〜。愛人が本妻と出くわしたら、気まずいですもんね〜」
由維の顔は笑っているが、言葉の端々には棘がある。
「誰が愛人よ! あんた、やっぱりエイシスとのこと怒ってるっしょ?」
「別にぃ。怒ってなんかいませんよ〜?」
「やっぱり怒ってるじゃん」
「怒ってませんよ〜、だ!」
「ウソ、怒ってる。何度も謝ったじゃん!」
「だから、怒ってませんって!」
痴話喧嘩のような…というか、痴話喧嘩以外のなにものでもない言い合いを続けながら、二人は通りを歩いていく。
――と。
「…あれ?」
「む…?」
ちょうどすれ違った、一人の男と目が合った。
やや痩せ気味のその男の顔、どこかで見覚えがある。
向こうも同じ印象を受けたのか、奈子の顔をじっと見ている。
誰だろう。
見たところ、職業は傭兵のようだ。ハシュハルドのような交易の盛んな都市では、隊商の護衛を務める傭兵の姿も珍しくないという。
しかし、奈子の知り合いで傭兵といえばあのエイシスくらいしかないし、この男の姿はエイシスとは似ても似つかない。
背は人並みでやや痩せ気味、それでも弱々しい印象を受けないのは、その鋭い目のせいだろうか。獲物を狙う猛禽のような、隙のない目つきだった。
腰にはやや細身の、長い剣を差している。
(誰だっけ…。でも、ハシュハルドで会う可能性のある知り合いなんて…リューリィと、エイシスと、フェイリアと…。ん? フェイリア…?)
フェイリア・ルゥ。それが、答えを引き出すキーワードだった。
「あ、ああぁ〜っっ!」
「き、貴様は…!」
思わず、相手を指差して叫んでしまった。
向こうも同時に思い出したらしい。
「確か、ナコ・ウエルとかいったな…? マイカラスの!」
「あんたは…」
奈子はそこで口ごもった。
男を指差したまま、ぱくぱくと口を動かす。
「…名前、憶えてないんですね?」
由維が鋭く指摘する。
「貴様ぁっ! さてはこの私のことを忘れたな?」
この、妙にプライドの高そうな口調には覚えがあるのだが。
「えっとぉ…テムジンじゃなくって、ライデンでもなくって…」
もう一息で正解にたどり着きそうなのに、それが出てこなくてもどかしい。
「ひょっとして、サイファーって言いたいんですか?」
由維が突っ込む。
「…っ! そう、サイファー・ディンだ! アルトゥル王国の!」
ようやく思い出した。
サイファー・ディン・セイルガート。
年齢は二十代半ばくらいだが、アルトゥル王国の赤旗将軍とやらの肩書きを持っていて、なかなかの凄腕だ。
サイファーと出会ったのは…そう、奈子が初めて聖跡を訪れた頃だった。
聖跡の発掘を目論むアルトゥル王国は、聖跡からの生還者であるフェイリアを追っていたのだ。
奈子はその時たまたまフェイリアの側についていたので、この男と刃を交えることになった。あの時はひどい傷を負わされたが、レイナの剣のおかげで奈子の優勢勝ち、といったところだろうか。
その後、聖跡でクレインに半死半生の重傷を負わされいたところを助けてやったりもした。
会ったのは、その二度きりだ。
それにしても、どうしてこの男がこの街にいるのだろう。
第一、この傭兵まがいの服装は…。
「どしたの、その格好。まさか、騎士を首になった?」
「そんなわけあるかぁっ! これは任務で、ちょっと変装を…あ!」
サイファーが慌てて口を押さえる。つまり、言ってはいけないことを口走ってしまった、というわけだ。
「変装…?」
奈子の目が嶮しくなる。
そういえば、フェイリアを追っていた時も、部下に野盗の変装をさせていた。
「また、何か悪巧みでもしてるの? アルトゥル王国の騎士が、変装してハシュハルドに潜入しているなんて、穏やかじゃないよね?」
アルトゥル王国は六〜七年前に一度、ハシュハルドに攻め込もうとしたことがある。ハシュハルドは自治都市だが、交易で栄える豊かなこの地を狙う国は多い。
その時、この街を護ったのは…。
「なんですって? アルトゥルの騎士っ?」
不意に、背後からそんな声が聞こえた。
奈子とサイファーの間に、一人の少女が飛び込んでくる。
「ハシュハルドに何の用? あなたたち、またこの街を狙っているの?」
長い金髪をなびかせて、凛とした口調で少女が問う。手に持った長剣を、サイファーに突きつけて。
「リューリィ…」
彼女は、鋭い瞳でサイファーを睨んでいた。リューリィは奈子よりも小柄だが、なまじ綺麗な顔をしているだけに迫力がある。
全身から、怒りのオーラを発していた。
(そういえば…)
ふと、奈子は思い出した。
リューリィは、幼い頃に故郷の村を戦争で失っている。そして、アルトゥル王国の前回のハシュハルド侵攻は、彼女がこの街に来てまだ間もない頃のことだった。
その時リューリィは、泣きながらエイシスに懇願したのだ。
この街を護ってくれ、と。
もう、戦争で大切な人が死ぬのは嫌だから、と。
そんな彼女が、街中でアルトゥル王国の騎士を見かけて冷静でいられるわけがない。
「いったい何が目的? 返答次第では、ただでは済まないわよ!」
剣を突きつけて、リューリィは叫んだ。
サイファーの口元には、微かな笑みが浮かんでいた。まるで、この状況を面白がっているかのように。
「綺麗な顔して、威勢のいいお嬢さんだ。だが、騎士に喧嘩を売るにはちと力不足ではないかな?」
「そんなの、やってみなきゃわからないでしょう!」
「やめなさい、リューリィ!」
思わず、奈子は叫んでいた。
このままでは、リューリィが危ない。
リューリィが一応剣を使えることは、フェイリアやエイシスに聞いて知っている。若い頃は名の知られた傭兵だったという、養父の手ほどきらしい。
そして、フェイリア直伝の精霊魔法の使い手でもある。その実力は十六、七歳の少女としては大したものだろう。
そう、それはあくまでも「女の子としては大したもの」というレベルでしかない。
奈子やダルジィとは違う。
並の剣士相手ならともかく、一流の騎士相手に通じるとは思えない。
そしてサイファーは、間違いなく、戦闘技術に関しては超一流だった。
クレインやファージのような規格外は別としても、エイシスやマイカラスのケイウェリ・ライを相手に、互角の闘いができそうだ。
しかしリューリィでは、そこまでの相手の力量を読みとることはできない。あるいは、わかっているのかもしれないが、頭に血の上った今のリューリィでは冷静な判断は下せない。
サイファーは、確かに一流の騎士だった。
任務となれば、決して私情は挟まない。相手が女の子であろうと、必要があれば容赦なく斬るだろう。
その右手が、剣の柄にかかる。居合いは彼の得意技のひとつだ。
リューリィにかわせるとは思えない。
「ちょっと、止めなさいよ」
奈子は仕方なく、リューリィを背中に庇うようにして二人の間に割り込んだ。リューリィが傷つけられるのを、みすみす見逃すわけにはいくまい。
「邪魔するんじゃないわよ!」
「いいから、あんたは下がってなさい」
前に出ようとするリューリィを、無理やり押しとどめる。
片手は、腰の短剣をいつでも抜けるようにしておく。
「…本当に、あんたたちはハシュハルドを狙っているの?」
油断なくサイファーの動きを注視しながら、奈子は問う。
「近隣で、この街を狙っていない国などないだろう」
サイファーは当たり前のように言った。
「やっぱり…」
リューリィがつぶやく。
「もっとも、今すぐどうこうしようというわけじゃない。私たちは…な」
「どういう意味よ?」
今度は奈子が訊く。
「…お前にもまったく関係のない話でもないな、教えてやろう。トカイ・ラーナ教会が、ハシュハルドに手を出そうとしている」
「トカイ・ラーナ教会がっ?」
思わず大声を上げた。
ハシュハルドよりももう少し東の、中原と呼ばれる地方を支配するトカイ・ラーナ教会。それは奈子にとって宿敵といってもいい。
殺しても収まらないほどに憎い、あの赤毛の姉弟の顔が浮かぶ。
「これ以上、あの連中に勢力を伸ばされては困る。そこで、様子を探りに来たわけだ」
「本当に、あの連中が…?」
「まだはっきりしたところはわからん。この街で教会の下っ端は何人か見かけたが、その程度ならいつものことだ。アルワライェ・ヌィはまだアルンシルにいるというし、今すぐ動くつもりはないのかも知れん」
「…どうして、そう簡単に教えてくれるの? 何か企んでいるんじゃないの?」
そう訊いたのはリューリィだ。
「その様子からして、貴様ら、教会の動きも妨害してくれるんだろう?」
サイファーが笑って応える。
確かにその通りだ。
リューリィも、彼女の養父のウェイズも、この街ではかなり顔が利く。このことが知れ渡れってハシュハルドが守りを固めれば、教会も簡単には動けなくなるだろう。
そこまでは納得できたが、奈子にはもう一つ疑問があった。
「先刻、アタシにもまったく関係のない話ではないって言ったよね? どうして?」
まさか奈子と、アルワライェやアィアリスとの間にあったことを知っているとは思えないが。
「今さらなに言ってる。貴様、マイカラスの騎士だろう?」
くだらないことを訊くな、とでも言いたげな口調だった。
「教会がマイカラスに食指を動かしていることなど、周知の事実だぞ」
なるほど。数ヶ月前の、サラート王国のマイカラス侵攻も、背後で手を引いていたのはトカイ・ラーナ教会だ。そのことを言っているのだろう。
奈子のこと、墓守のことを知られているわけではないとわかって少しほっとする。
「まあ、油断はしないことだ。ハシュハルドが教会の手に渡ると、こちらとしてもひどく困ったことになる」
「勝手な都合だね」
「お互い様だ。情報を教えてやったのだから、感謝して欲しいものだな」
剣の柄にかけていた手を外すと、サイファーは奈子たちに背を向けて歩き出した。一瞬、リューリィが追おうとしたが、奈子はそれを制する。
「あ、そういえば…」
ふと、思いついたことがある。奈子はサイファーの背中に向かって呼びかけた。
「あんた、エリシュエルって女のこと知らない?」
ぴくりと、サイファーが立ち止まる。ゆっくりと振り返った。
「何故、その名を?」
やっぱり知っていたのか、と奈子はうなずく。
同じ国の騎士で、どちらも一流の腕を持つ者同士。知っていて当然だろう。
それに…。
「この間、会ったよ。アルトゥルの闘技場で」
そう言うと、サイファーは何故か顔をしかめて小さく舌打ちした。
「あいつめ…私が国を離れているのをいいことに、またそんなことやっていたのか。まったく、セイルガート家の娘としての自覚が足りん!」
「…え? まさか…」
自分から訊いたことなのに、奈子も驚いた。予想以上の答えだった。
「エリシュエルは、私の妹だ」
「…なんと、まあ…」
ひょっとして部下とか、親戚とかの近い関係ではと思ったが、まさか兄妹とは。
道理で、どこかで見たような闘い方だと思った。スピードを生かして多彩な攻撃をしかけるエリシュエルの戦法は、以前闘ったサイファーにそっくりなのだ。
「あんたさぁ…、妹にアタシのこと、話したことある?」
「そういえば、そんな話もしたかな」
「それでか…」
それで納得がいく。
いくら奈子が騎士とはいえ、ただ試合を見物していただけの見ず知らずの相手に勝負を挑むなんて、何かおかしいと思っていた。
向こうは、奈子のことを知っていたのだ。
そういえば彼女がちょうど横を通り過ぎた時、由維が奈子の名を呼んでいた。「ナコ」という固有名詞の発音は、日本語でもアルトゥル語でも変わらない。
あの大会役員が妙に奈子のことに詳しかったのも、エリシュエルが自分の知っていることを伝えたからだろう。観客を盛り上げるためのでまかせではなかったのだ。
「闘技場で会ったということは、まさか、あいつと闘ったのか? どっちが勝った?」
サイファーが訊く。
妹が闘技場で闘っていることを快く思っていなくても、やはり興味があるらしい。好奇心に満ちた笑みを浮かべている。
「時間切れ引き分け。強いよ、あいつ」
「そりゃあそうだ。エルは小さな頃から私が鍛えたんだからな」
そう言うサイファーの顔は、なんだか得意そうだった。
(意外とこいつ…シスコン?)
なんとなく、そんな気がした。
「…妹に会ったら、よろしく。今度は勝つ、って言っといて」
「エルもきっと、同じことを思ってるさ」
片手を軽く上げて、サイファーは去っていく。
その背中を見ながら、奈子は考えていた。
(トカイ・ラーナ教会が、ハシュハルドに…? 今すぐ攻め込んでくるわけじゃないにしても、気を付けた方がいいな…。今度ファージやソレアさんに会ったら、忘れずに伝えないと。いや、フェイリアの方がいいかな?)
「…奈子先輩、奈子先輩」
シリアスに考え込んでいる奈子の服を、由維が引っ張る。
「何よ、人がシリアスに決めてるのに」
「大事なこと、忘れてますよ?」
指差す方向に、恐い顔をした美少女が立っていた。奈子を睨んでいる。
そういえば、この問題が残っていた。
そもそも、どうしてリューリィがこの場に現れたのか。それは考えるまでもない。
会うのは初めてでも、向こうも奈子の存在を知っているのだ。
食堂での不審な行動。左手に填めた騎士の腕輪。「もしかしたら…」と思わせる材料には事欠かない。
奈子のことを追ってきたのだろう。
「あ…え〜と…」
どう見ても友好的とはいえない表情だ。無言でこちらを睨めつけている。
怒っている顔さえ魅力的なあたりは、さすがハシュハルド一の美姫というべきだろうか。
「じゃ、ま、そゆことで…」
奈子は笑って誤魔化すと、由維の手を引いて立ち去ろうとした。
その背中に、
「ちょっと待ちなさいよ」
エゾムラサキウニよりも棘だらけの言葉が投げつけられる。
奈子はびくりと止まった。
「なにも、こそこそ逃げることないんじゃない。ナコ・ウェル・マツミヤ?」
ゆっくりと、奈子のフルネームを発音する。美しい声なのに、なんだか異様に怖い。
「は…はひ…」
ぎこちない動作で振り返る。仕方ない。これでは逃げるわけにもいかない。
リューリィは、頭のてっぺんから足の先まで、じろじろと奈子を観察する。
「別に、逃げなくたっていいでしょう? いろいろと話したいこともあるし、お茶でも飲んでいきなさいよ。…ひょっとしたら、毒入りかもしれないけどね」
最後の一言、あながち冗談に聞こえない。
なにしろ奈子を追ってくるのに、わざわざ剣を持ってくるような性格なのだ。
「いや、でも…あの…」
奈子は、かなり本気で怯えていた。喧嘩で負けるとは思わないが、まさかリューリィと闘うわけにはいかない。
とにかく、嫉妬に燃える女性は怖いものだ。いまだに剣ではダルジィに勝てないのも、きっとそれが理由だろう。ハルティに密かな想いを寄せているダルジィは、ことあるごとに奈子を目の敵にする。
怒っている時のリューリィは、どことなくフェイリアに似ていた。怒らせた時の怖さでは、彼女の右に出るものはほとんどいない。ファージやクレインのような残酷さとは、また違った怖さがある。
どうやら、逃げるわけにはいかないらしい。
ちらりと由維を見る。
「いいじゃないですか、ついていきましょうよ」
由維はどこまでもお気楽だ。
「…いいよ、じゃ、少しだけ」
奈子は仕方なく、リューリィの後に続いて宿へ戻っていった。
リューリィは無言だが、背中から怒りのオーラを発している。
「いよいよシュラバですね〜」
「…で、あんたはどうしてそんなに楽しそうなの?」
「見てる分には楽しいじゃないですか、まるで恋愛ドラマみたい。『この泥棒猫!』なんて台詞が生で聞けるなんて」
「…冗談じゃない」
男を巡る争いの当事者になるなど、奈子の本意ではない。しかも、それがよりによってエイシスとは。
(美形のハルティ様ならともかく、なんであんな男のためにアタシがこんな目に…)
絶望的な気分で天を仰ぐと、空はどこまでも晴れ渡っている。澄みきった、深い青だ。
(今日のハシュハルドの天候は晴れ。ただし夕方から一時、血の雨が降るでしょう…か)
奈子は小さく肩をすくめた。
しかし、そんな奈子の予想は当たらなかった。宿に戻ると、意外な人物がそこにいたからだ。
「お帰り、リューリィ。どこ行ってたの…あら?」
腰まで届く長い金髪の女性がリューリィを出迎えた。奈子を見て不思議そうな声を上げる。
「どうして、ナコがここにいるの?」
「フェア姉!」
「フェイリア!」
二人の声が重なった。
「珍しい組み合わせだわね。リューのその様子からすると…第一ラウンドはもう終わったのかな?」
この台詞を聞いて、奈子はがっくりと肩を落とした。
一瞬、フェイリアに取りなしてもらえるかも…と期待したのに、由維と同じく、この状況を面白がっているようにしか見えない。
「…あのね、フェイリア」
「で、この子は誰?」
疲れ切った表情の奈子を無視して、フェイリアは由維を指した。
「あ、えっと、この子は由維っていって…」
「ああ、例の、ナコの恋人?」
納得顔でうなずく。
確かにその通りなのだが、まだ、他人から「恋人」と言われることには多少抵抗がある。
だから、曖昧にうなずいた。
「ええと、まあ…ね」
「恋人?」
そこで首を傾げたのはリューリィだ。
腕組みをして、不思議そうに奈子と由維の顔を交互に見る。
「この子が? あなたの?」
それから、物言いたげな表情でフェイリアに向き直った。
「…つまり…そういうこと?」
「そうよ、言ってなかったっけ?」
「…女騎士には、そういう趣味の人が多いっていうけど…。ナコ・ウェルもそうなの?」
「どうやら、そうらしいわね」
奈子を無視して会話が進んでいる。
とたんに、リューリィの顔がぱぁっと明るくなった。満面の笑顔で、親しげに奈子の肩を叩く。
「なぁんだ、そうだったの。あたしの早とちりってわけね。あいつのことだから、きっと強引に迫ったんでしょ。ゴメンね、今度とっちめておくから」
なんだか、自己完結していようである。少々勘違いがあるような気がしないでもないが、とりあえず修羅場が避けられたのだから良しとしよう。
その時…。
「それにしても、なんて間の悪い奴…」
額を押さえて、フェイリアがつぶやく。
「よぉ、リュー。久しぶりだな」
一瞬遅れて、そんな声が四人のいる食堂に入ってきた。
四人は一斉に声のした方を見る。
赤い髪が特徴的な大男が、そこに立っていた。
陽気な笑いを浮かべて入ってきた男は、それぞれ異なった表情を見せる四対の視線に気付いて、笑顔を引きつらせたまま立ち止まった。
「あ…え〜と…、じゃあ…そゆことで」
ぎこちなく片手を上げると、関節の錆びた人形のような動作で、ギギギ…と回れ右して宿から出ていく。
「ちょっと! 傭兵っ! 待ちなさいよ!」
リューリィが叫んで剣を掴むのと同時に、エイシスはだっと走り出した。それを追ってリューリィが駆けだしていく。
奈子と由維は、ぽかんとした表情でそれを見送っていた。
しばらくたってから、
「…いつも、こう?」
呆れ顔でフェイリアを見る。
「まあ、こんな感じね」
フェイリアも苦笑している。本当に、いつものことらしい。
「ところで、ナコはどうしてここにいるの?」
「またいつもの…さ、転移に失敗した」
「相変らずね」
「で、悪いんだけどさ…。ソレアさんの家まで送ってくれないかなぁ?」
渡りに船、とばかりに奈子は頼み込んだ。
フェイリアは、強力な転移魔法が使える数少ない魔術師の一人だ。奈子と由維をタルコプまで転移させることくらい、造作もないだろう。
不安定な奈子の転移でもう一度出直してくるよりも、手っ取り早くて確実だった。
「いいわよ。どうせあの二人はしばらく戻ってこないでしょうし。ところであなた、どこから来たの?」
フェイリアの台詞の後半は、由維に向かって言ったものだった。言葉のわからない由維は、当然、きょとんと首を傾げている。
「…なんて言ったんですか?」
奈子に訊いてくる。
「ん? ただ、どこから来たのかって…あ!」
(しまった…)
奈子の顔に汗が吹き出す。
今、フェイリアはもっとも標準的なアイクル語で訊いた。普段の彼女は、いくらか大陸北東部の訛りがあるのだが。
アイクル語は、方言も含めれば現在の大陸の七割ほどの地域で使われている。フェイリアが口にした程度の簡単なアイクル語が聞き取れない人間など、この大陸にほとんどいないといってもいい。
奈子の正体に興味を持っているフェイリアに、思わぬところでヒントを与えてしまった。
油断のならない相手だということは熟知していたはずなのに。
「…ふぅん、そういうこと」
奈子が何も言えずにいると、フェイリアは意味深な笑みを浮かべてうなずいた。
「いや…あの…えっと…」
言い訳など、思いつきもしない。
ここは笑って誤魔化すしかない…と思ったが、
「まあ、いいわ。行きましょうか」
フェイリアはそれ以上追求してこなかった。オルディカの樹でできた魔術師の杖を手に取り、転移魔法の魔法陣を描きだす。
「話の続きは、またの機会にゆっくり…ね」
魔法陣が完成する瞬間、フェイリアは奈子の耳元でささやいた。
<< | 前章に戻る | |
次章に進む | >> | |
目次に戻る |
(C)Copyright 2000 Kitsune Kitahara All Rights Reserved.