一章 松宮 奈子


 玄関を出たところで――。
 奈子は、扉の前に立っていた小柄な女の子とぶつかりそうになった。
「あ、……由維?」
「こんばんは、奈子先輩」
 大きなバスケットを抱えた、今年中学生になったばかりの小柄な少女がにこにこと笑っている。
「これからランニングですか? 夜食作ってきたんですけど」
「ありがと。……多分、一時間半くらいで戻るから」
「じゃあ、お茶の支度をしてますね」
 奈子と入れ替わりに、由維と呼ばれた少女は家の中に入る。
 それを見届けた奈子は、家の前で数回屈伸をしてから走り出した。



 ここは札幌市の郊外。南区のはずれにある奏珠別(そうしゅべつ)という街。
 アイヌ語で「滝のある川」を意味する地名の通り、中心には街を南から北へと縦断する清流が流れており、その川を少し上流へさかのぼれば、いくつかの美しい滝を見ることができた。
 街の南側には、奏珠別川の水源となっている山々が連なっている。奏珠別の街はこの十五年ほどの間に急速に拓かれて住宅地となったが、その山々は自然公園として、まだ充分すぎる自然を残していた。
 山を覆う原生林には、散策路や街を見下ろす展望台が作られ、休日には登山やハイキングに訪れる者も多い。
 しかし今は夜。もう午後八時を回っている。こんな時間に山を登っていく人間はいない。駐車場のある麓の公園ならば、夜中でも時折アベックの姿などを見ることができるが、今から山道に入ろうなどという酔狂な人間はそう多くない。
 それなのに、その少女――奈子は、一人で展望台への道を走っていた。
 タンクトップにジャージ、ジョギングシューズに首のタオル。完璧なジョギングスタイルで、かなり急な上り坂をものともせずに駆け上がっていく。
 身長は百六十センチ強。中学三年生という年齢の割には比較的発育のよい胸を除けば、彼女はかなり痩せて見える。
 しかしよく観察すれば、その身体はよく鍛えられた、無駄のないしなやかな筋肉に覆われていることがわかる。
 髪が短く、目つきの鋭い精悍な顔立ちをしていることもあって、奈子は、見る者に猫科の肉食獣のような印象を与えることが多い。そしてまた、その印象に相応しい運動能力も備えていた。
 一キロ近い坂道を一気に駆け上がって、展望台に着いた。展望台といってもけっこう広く、ちょっとした公園のようになっている。実際、日中ならば遊んでいる子供の姿も多い。もちろん今は無人で、公園の中にいくつか立つ水銀灯が、冷たい光で周囲を照らしていた。
 さほど息も乱さずに展望台に着いた奈子は、軽く深呼吸しながら、首にかけていたタオルを手近な樹の枝にかける。それから、一本の大きな樹の前に立った。
 その幹には、ちょうど奈子の膝から頭くらいの高さまで、荒縄が隙間なくと巻かれていた。その前で軽く膝を曲げて腰を落とし、静かに息を吸い込みながら拳を構える。
 次の瞬間、気合いとともに右の拳を打ち込んだ。
 ズゥン!
 重い音が響く。大人の胴ほどの太さのある樹がざわざわと揺れる。
 七月という季節柄、枝から小さな甲虫がぽとぽとと落ちてくる。しかし奈子は気にもとめず、続けて左右の拳を規則正しいリズムで打ち込んでいった。


 松宮奈子――それが、彼女の名前である。
 奏珠別の街にある私立白岩学園中等部の三年生。そして、同じくこの街にある北原極闘流空手、札幌南道場の門下生だ。
 空手だけではない。月に二、三度は古流柔術と剣術の道場にも足を運んでいる。要するに格闘技マニアというか、武道オタクというか、そんなちょっと変わった女子中学生なのだ。
 学校が終わると道場へ行って稽古。家に帰ると、夕食の後はこの展望台までランニングして、軽く突きや蹴りの稽古をする。それが奈子の日課だ。
 もうじき大会があるということで、最近は特に稽古に熱が入っている。
 奈子の空手の実力は、中学女子としては相当なものだった。しかし昨年の大会では、同じ道場の先輩に予選で破れている。なにしろその先輩は全国大会でも優勝候補の筆頭で、中学女子では無敵といわれている選手なのだ。奈子にとっては不幸というしかない。
 しかしその先輩もこの春から高校生。中学の部に、奈子を脅かすほどの相手はいないはずだ。だから奈子は今年こそ全道大会優勝、そしてあわよくば全国制覇を、と意気込んでいる。
 突きや蹴りといった基本動作を一時間近く繰り返して稽古を終えた奈子は、汗を拭こうと、枝にかけたタオルに手を伸ばした。
 その時になって、タオルの傍の枝に、紅いリボンが結んであることに気付いた。ちょうど陰になる位置にあったため、タオルをかけたときには気付かなかったらしい。
 よく見ると、リボンにはなにやら文字のようなものが書いてある。結び目をほどき、手に取ってみた。
『Fight!』
 紅いリボンに光沢のある白い糸で、そう刺繍してあった。
 思わず、口元に笑みが浮かぶ。
 奈子は、不自然なほど同性に人気があった。
 理由は簡単だ。
 背は高めでスタイルがよくて。
 美人…というよりも、どちらかといえば美少年顔で。
 後輩の面倒見がよくて。
 空手の腕前は男勝り。
 つまり「同性の後輩にもてる女の子」の条件をほぼ完璧に満たしているのだ。
 空手道場の後輩はもちろん、学校の一年、二年の女子からも「奈子お姉さま」と慕われている。
 今年のバレンタインなど、もらったチョコレートとプレゼントの数は男子を差し置いて、学年でトップだったくらいだ。もっともそれには、誕生日が二日後の二月十六日ということも手伝ってはいるのだが。
 もっとも、奈子自身は別に同性が好きなわけではない。片想いではあるが、ちゃんと好きな男性だっている。
 しかしだからといって、取り巻きの女の子たちに対して邪険にすることもない。人当たりのいい奈子は、やや倒錯した趣味の女の子たちからのプレゼントだって、にっこりと微笑んで嬉しそうに受け取ることにしている。
 相手が誰であれ、人から好かれることには悪い気はしない。そんな「来る者は拒まず」の姿勢が、さらなる人気上昇に一役買って、周囲から「松宮奈子は百合だ」と認識される原因にもなっているのだが。
 奈子は、紅いリボンを自分の髪に結んだ。
(こんなことするのは……)
 誰の仕業かは、すぐにわかった。
 彼女を慕う女の子は数多いが、奈子が毎日ここで稽古していることを知っているのはそう多くない。それに、この見事な刺繍の腕前。
(こんなことをするのは、由維……かな)
 家の前でぶつかりそうになった、小柄な少女のことを思い出す。
 宮本由維、二歳年下の中学一年生。
 家が近所で、奈子とは物心つく以前からの付き合いだった。同じ道場に通う後輩でもある。
 後輩で、幼なじみで、親友。由維本人は恋人と思っているのではないかというフシもある。
 そんな倒錯した趣味はともかくとして、一番仲のいい、大切な友人であることは確かだ。
 由維は手芸の他に料理も得意で、よく、奈子に食事やお菓子を作ってくれる。奈子は性格的に家事全般が不得手だから、由維の存在はありがたかった。
 俳優をしている奈子の両親は、仕事が忙しくて家にいないことが多い。月の大半は東京都内のマンション住まいなのだ。
(あの子ってば、口で言えばすむことなのに。こんな、わざわざプレッシャーかけるような真似をして……。これじゃ、負けるわけにいかないじゃない)
 しかしそのプレッシャーは、はむしろ心地よかった。稽古でさんざん汗を流して疲労した身体に、新たな活力が湧いてくるような気がする。
「さて、そろそろ帰ろうか。由維のお菓子が待ってるし」
 そういえば今日は、パウンドケーキを焼いてくると言っていたはず。無意識のうちに顔がにやけてしまう。
 家に帰れば美味しいケーキと紅茶が待っている、そう思っただけで、帰りの足どりが軽くなる。
 汗を拭いたタオルをまた首にかけて、奈子が走り出した瞬間。
 まったくの突然に――。
 奈子の周囲で、目もくらむばかりの眩い光が弾けた。



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