光の王国9 黒剣の王 序章 黒剣の王  彼女の周囲には、生命の気配のない荒涼とした大地が広がっていた。  これまで通ってきた砂漠とは明らかに違う、えもいわれぬ不気味な雰囲気が漂っている。  灰色の土は乾ききっているのに、地面に届く陽光は驚くほど弱々しい。  大気が澱んでいる。雲がかかっているわけではないが、見上げる空は大地の色を映しているかのように灰色がかっていて、太陽までもがぼんやりと歪んで見える。  腐臭が漂っている。  どこからというわけではない。この一帯すべてが、死んだ空間だった。  普通の人間が入り込めば即死してしまうであろう、瘴気に覆われた世界。  その中をただ一人、若い女性が歩いていた。トカイ・ラーナ教会の紋章が刺繍された、騎士の礼服を身にまとっている。  アィアリス・ヌィ・クロミネル。それが、彼女の名だ。  肩のあたりで切り揃えた朱い髪が、歩くのに合わせて微かに揺れる。 「あまり、居心地のいい場所とは言えないわね」  そんな独り言以外、物音はしない。足音は砂に吸収され、澱んだ大気はそよとも動かない。  まるで夢の中を歩いているような、現実感の喪失を味わっていた。  物事に動じないアィアリスには珍しく、顔にははっきりと不快な表情が浮かんでいる。  こんな土地を何日も歩かされるというのは不本意だった。  しかし、歪んだ魔力の影響が濃いこの地では、転移魔法による移動もできない。  進むに従って、瘴気はその密度をいや増していく。  こんなところで平然と生きていられるのは、王国時代の竜騎士並みの力を持つ彼女のような人間か、あるいは……。 「――っ!」  アィアリスは振り向きざま、右手を大きく振った。真白い閃光が大気を切り裂く。  一瞬の絶叫の後、小さな地響きが起こった。大きな――最も大きくなる種類の鰐くらいの大きさがある――蜥蜴に似た魔物が地面に転がる。  胴体を真っ二つに両断されながら、それでもなお大きな口を開き、短剣のような歯をガチガチと鳴らしてアィアリスを威嚇していた。 「……だんだんと大きくなる。道は間違っていないというわけね」  アィアリスの手の中に、杏ほどの大きさの赤い光球が生まれる。それは宙を漂って横たわる魔物の上まで行くと、爆発してとどめを刺した。  同時に、アィアリスの左右の地面から土が噴き上がった。何物かが地中から飛び出してきたのだ。  アィアリスの両手に、瞬時に赤い光の剣が現れる。腕を左右に大きく広げるように振り、彼女に襲いかかろうとしていた敵を一刀で斬り伏せた。 「……ふん」  小さく鼻を鳴らす。  体長の割に妙に胴回りの太い蛇が二匹、まったく同じ角度で斬り殺されていた。 「まったく……」  進むに従って、魔物の数が増えてくる。  この地を覆う魔力に惹き寄せられてきた連中だ。  何が目的というわけではない。明かりに群がる蛾のように、本能の衝動に突き動かされているだけの存在。 「……まあ、それは私も似たようなものか」  小さく呟いて、珍しく自嘲めいた笑みを浮かべる。  それからふと気付いた。独り言が増えるのはいい傾向ではないな、と。  こんな異様な地に何日もいたのでは、精神の平衡を保つのも難しい。あるいは、この地を覆う魔力が、なんらかの影響を及ぼしているのかもしれない。 「……先を急ぎましょう」  溜息混じりに小さく肩をすくめて、また歩き出そうとする。しかしその脚はすぐに止まった。  顔を上げる。  いつの間に現れたのだろう。大きな……仰ぎ見るほどに大きな生物がそこにいた。  全身、墨で塗りつぶしたような漆黒の鱗に覆われ、目だけが金色に輝いている。  牛を一呑みにできそうな口が開かれると、そこに並んだ牙は短めの剣ほどの長さがあった。先が二つに割れた真っ赤な舌が、ちろちろと覗いている。 「亜竜……」  アィアリスの手に、再び剣が現れた。少しだけ表情が真剣になる。  千年以上も昔、人間が造り出した魔物。地上最強の存在である竜に最も近い、人造の生物。竜が滅びた現在でも、亜竜の末裔は大陸の一部に僅かながら生き長らえている。  その力は竜には及ばないとはいえ、並みの兵士が千人いても倒すことは困難だろう。 「これでは、さっぱり道が進まないわ」  剣を持っていない方の手の中に、青白い光が生まれる。  亜竜の口の周りにも、光が集まってきた。  アィアリスは全身の毛が逆立つような、ぴりぴりとした刺激を感じていた。  大気を満たす静電気、それが前兆だった。 「……っ!」  次の瞬間、亜竜の口から灼熱の光が放たれた。  アィアリスが地面を蹴る。光は、一瞬前まで彼女がいた場所の地面を貫き、土を蒸発させて深い穴を穿った。 「キル・アィ・ライアル!」  亜竜の攻撃をかわして間合いを詰めたアィアリスの手から、青白い光線が放たれる。それはまるで長大な槍のように、魔物の巨体を貫いた。  一瞬、亜竜の動きが止まる。アィアリスはさらに前進して剣の間合いまで踏み込んだ。  右手の、紅い光の剣にすべての魔力を注ぎ込んで突き出す。  並の剣では傷をつけるのも難しい亜竜の鱗を、剣は易々と貫き、魔物の断末魔の咆哮が、澱んだ空気を震わせた。      * * *  いつの間にか、周囲は霧に覆われていた。  それでもアィアリスは、進むべき方向を迷うことはなかった。  頭で考える必要はない。  はっきりと感じることができる。  魂が惹き寄せられるような、この感覚。  何も考えず、それに従って進めばいい。  亜竜を倒した後、どのくらい歩いただろう。ここでは時間の感覚もあやふやだった。  いつの頃からか、魔物の襲撃はなくなっていた。もう、生きた魔物の姿はない。  代わりに、周囲には魔物の死体が点在していた。  その大半が白骨化している。  この地を覆う魔力に惹き寄せられてきたものの、濃すぎる瘴気に中てられて死んでしまったのだ。まるで、自ら炎に飛び込む羽虫のように。  中にはいくつか、人間の骨もあった。単に「強い魔力を持っている」だけの人間には、この辺りが限界だろう。  この先には、もう、誰もいない。これより先には死体すら存在しない。  そう思った。  だから目的地に辿り着いて、そこに座っている人影を見た時。  顔には出さなかったものの、アィアリスは内心かなり驚いていた。  ほとんど起伏のない荒野の中に一つ、小さな丘がある。  その麓に、一人の女性が座っていた。  滑らかな褐色の肌と、その肌よりも明るい亜麻色の髪は、大陸南端に近い地方の出身であることを示していた。  黒に近い濃い茶の瞳が、真っ直ぐにアィアリスを見つめている。  顔には、なんの表情も浮かんでいない。生きた人間がこの地を訪れることなど極めて稀な出来事のはず。少しくらいは驚いた素振りを見せてもよさそうなものなのだが。  その女性は、少なくとも外見はまだ若い。アィアリスよりも二、三歳は若く見える。しかし、実際の年齢はわからない。一体、何年ここでこうして座っているのだろう。  手には剣を持っているが、まだ鞘から抜かれてはいない。アィアリスの姿は見えているはずだが、なんのリアクションも起こさない。  アィアリスは一定の歩調で進みながら、相手を観察した。  額には、細い金の鎖でできたサークレットが掛かっている。衣服は肩や腕、そして腹部が大きく露出したもの。  どちらもやはり、南方系の特徴だ。しかし左腕に填めた騎士の腕輪に彫られた紋章は、ティルディア王国のものだった。  ティルディアは、コルシア平原ではやや南に位置する国とはいえ、大陸南端まではさらに数千テクトの隔たりがある。アィアリスの知識では、ティルディアはどちらかといえば閉鎖的な軍事国家であり、余所者の騎士など珍しい存在のはずだ。  アィアリスは、その女性の前で足を止めた。相手は微かに顔を上げて、真っ直ぐにこちらを見る。 「あなたが……、黒剣の王?」  そう訊いたとき、口の中がからからに渇いていることに気付いた。  ひどく緊張している。こんなことは初めてだ。  座った女性はこの台詞を聞いて、ゆっくりと口を開いた。微かに笑ったようにも見えたが、気のせいかもしれない。 「王……私が? いいえ、違う。私はただの番人。王は……もういない」 「……でしょうね」  前の丘を見上げる。  頂に、もう一つの人影が見えた。  小さくうなずくと、アィアリスは丘を登り始めた。この女性が行く手を遮るかとも思ったのだが、そんな様子はなさそうだ。  丘の上の女性は、漆黒の長い髪と、対照的な白い肌の持ち主だった。  瞳も黒い。しかし、その瞳には丘を登るアィアリスの姿は映っていまい。  最初から気付いていた。  この女性は、ずっと以前に息絶えている。  おそらく、十数年も前のことだろう。なのに、その姿は生きているときと何も変わらないように見える。ただ、生命の気配を感じるか否かだけの違いでしかない。  美しい女性だった。  外見は二十代の半ばくらいだろうか。鋭い瞳は、意志の強さを感じさせる。口元には何故か、静かな笑みを浮かべていた。  一番大きな特徴として、その女性には右腕がなかった。肘の少し上で、切り落とされたように。  しかし、それが致命傷というわけではなさそうだ。地面には褐色がかった血の痕が残っているが、それは主に腹部の傷からの出血らしい。右腕からの出血の痕がないところを見ると、腕を失ったのは致命傷を受けた闘いよりももっと前のことなのだろう。  そして左腕は、一振りの剣を抱きかかえていた。  外見は何の変哲もない、ただの剣。しかしこれこそが、この地に漂う魔力と瘴気の源であり、無数の魔物を惹き寄せた原因であり、そしてアィアリスの目的でもあった。 「黒剣の王も、不死身ではあり得ないということね。王国時代の竜騎士ならいざ知らず、まさか今の時代に黒剣の王を殺せる者がいるとは思えなかったけれど」  アィアリスは、丘の下を振り返った。  麓に座っていた若い女性が身体の向きを変え、こちらを見上げている。 「黒剣の王は死んだ。では、私が新しい王ということになるわ。剣を渡してもらえる?」  別に、あの女性の許可を得る必要などないはずだった。しかし何故か、口からそんな言葉が飛び出していた。  それに対して何の反応も返ってこないので、アィアリスは剣に手を伸ばした。  鞘が手に触れる。しかし何も起こらない。  そっと、剣を取り上げた。重さは、意外なほど軽い。  いや、軽いどころではない。まるで、そこには何も存在しないかのように。  しかし紛れもなく、これこそが『黒の剣』であるはずだった。  アィアリスは剣を抜こうとした。その時になって、背後から静かな声が聞こえてきた。 「それを抜くのはあなたの勝手です。しかし、それが意味するところをわかっているのでしょうか。この、呪われた剣を手にする覚悟はあるのですか?」  再び振り返ったアィアリスは、口の端を上げて笑った。 「青竜の騎士を凌駕し、無銘の剣を超える、この世界で最強の力。私にはその事実だけで充分よ」  どんな由来の剣であろうと、どんな代償を必要とするものであっても、関係なかった。  アィアリスはただ、力を求めていた。  それこそが、彼女の存在意義だった。 「でしたら、剣をお取りなさい。それで何が起ころうとも、すべてあなた自身の責任です」  褐色の肌の女性は、相変わらず無表情に言った。  その言葉にうなずいて、アィアリスは剣を抜こうとした。しかし、ふと気付いたように手を止める。  もう一度、剣を持っていた女性の死体を見下ろした。 「これが黒剣の王、ヴェスティア・ディ・バーグなのでしょう? あなたは何者? 何故ここにいるの? ここにいるのに何故、剣を取らないの?」  立て続けに質問を口に乗せる。それが一区切りついたところで、相手はゆっくりと口を開いた。 「私は、セルタ・ルフ・エヴァン。以前は、ヴェスティア様の……副官、でした」 「副官……? 愛人ではなくて?」  からかうように言った。セルタ・ルフの名は、ヴェスティアのことを調べている途中で目にしたことがある。  アィアリスの台詞を聞いて、相手も微かに苦笑したように見えた。 「……それも間違いではありません」 「で、残りの質問の答えは?」 「私も一度、黒の剣を手にしました。だから、ここにいます。黒の剣に魅入られた者は、二度と離れることはできません。それに、ヴェスティア様の遺骸を護る者が必要です」  アィアリスは小さくうなずいた。頭の中で、その女性――セルタ・ルフの言葉を反芻する。 「あなたは、私が剣を取ろうとするのを止めなかったわね。何故? 私が剣を取れば、あなたがここにいる理由もなくなるのでしょう? それでもいいのかしら? この後、どうするつもり?」 「言った通り、私は剣から離れられません。かといって私自身は、剣の主となるには力不足です。あなたにそれだけの力があり、その覚悟があるのなら、止める理由はありませんし、止めることもできません」  答えながら、セルタは立ち上がって丘を登ってきた。  アィアリスの前に立つセルタは、やや小柄ではあるが、確かに剣を持つ者の身体をしていた。  そもそも、並の人間ではこの地で一瞬たりとも生きてはいられないし、黒剣に手を触れることすら叶わない。  セルタはすぐ前に立って、真っ直ぐにアィアリスの目を見つめている。  アィアリスは眉をひそめた。  黒に近い濃い茶の瞳が、ある人物を思い起こさせた。そういえば、全体的な雰囲気もどことなく似ている。  不愉快だ――と、そう思った。なのに、どこか惹かれるものがある。相手から目を逸らすこともできない。 「私は、あなたと一緒に行きます。私の願いを聞いてくれるのなら、あなたのために力を貸しましょう。アィアリス・ヌィ・クロミネル」  名を呼ばれて、アィアリスは片眉をわずかに上げた。 「私の名前を?」 「もちろん。ここはある意味『世界の中心』です」 「……成程」  黒の剣の力を持ってすれば、遠く離れた地の事を知るのも難しくないということか。聖跡の番人クレイン・ファ・トームだって、聖跡の強大な魔力によって、大陸中の出来事を把握しているというではないか。 「あなたの願いとは?」 「復讐、です」  その単語に、アィアリスの口元が綻ぶ。 「復讐……誰に?」 「フェイリア・ルゥ・ティーナ、ファーリッジ・ルゥ・レイシャ」 「面白い。気に入ったわ!」  力強く言うと、アィアリスは一気に剣を鞘から引き抜いた。  黒剣を抜いた瞬間、アィアリスの身体は闇に包まれていた。  目の前にいたセルタの姿も、足元に座っていたヴェスティアの姿もない。  灰色の荒野も、くすんだ空も、何もない。  ただ一様に広がる暗闇。  自分がどこにいるのか分からず、自我を保つことも難しい。  意識が、稀薄になってゆく。  この闇の中に溶けこむように。  何もない、闇。  一筋の光も射さず、微かな音もせず。  絶対的な『無』。  黒の剣は、ランドゥ神の力を封じたもの――そんな言い伝えがある。  ランドゥは、虚無から生まれた暗黒神。すべての闇を司るもの。  アィアリスはこれまで、そんな古い言い伝えを信じてはいなかった。  黒の剣がどれほどのものであれ、それは無銘の剣と同様、人間が鍛えたものだ、と。  ただ、少しばかり強い力を秘めている魔剣でしかない、と。  神々の存在など、信じたことはない。  この星の誕生にも、生命の進化にも、神などという人智を超えた存在が関与した形跡はない、と。  しかし、そうだとしたら。  これは、一体なんなのだろう。  この剣の存在を、どう説明すればよいのだろう。  この剣……? いいや、違う。  これは剣ではない。  人間の目には、剣の形に映るというだけのこと。  剣は、力の象徴だから――。  そう。これは『力』だった。  限りなく純粋な。そして、限りなく汚れた力。  想像を絶するほどの。どこまでも届く、力。  アィアリスの周囲には闇が広がっている。  しかしそれは、何もない虚無の空間ではなかった。  それは『無』ではなく。 (無限――?)  その言葉が頭に浮かんだ瞬間、アィアリスの周囲で光が弾けた。      * * * 「ヴェスティア・ディ・バーグ?」  一度大きく深呼吸して息を整えた後、フェイリア・ルゥ・ティーナは語尾を微かに上げて訊ねた。  しかしそれは質問ではなく、確認の台詞だ。  名を呼ばれた女性が振り向く。長い艶やかな髪が揺れた。  わずかに怪訝そうな表情を浮かべて、こちらを見ている。 「初めまして、ヴェスティア・ディ」  フェイリアは静かに言った。声音は穏やかだが、表情は硬い。  左手には長い剣を持っている。まだ鞘から抜かれてはいない。  ヴェスティアと呼ばれた女性は、騎士の身なりをしていた。剣は身体の右側に差している。左利きの騎士とは珍しいが、それは彼女の右腕が義手であるためだった。 「……誰だ?」  ヴェスティアが問う。  漆黒の瞳がフェイリアを見据えている。 「フェイリア・ルゥ。あなたに両親を殺された者よ。そう言っても心当たりがありすぎて、わからないでしょうね」 「敵討ちか。だったらひとつ忠告してやる。チャンスがあったら、名乗りなんか上げずに背後から仕掛けるべきだ。自分より強い相手を倒したいなら、な」 「ありがとう。次からはそうするわ」  二人は今、剣の届く間合いよりもわずかに離れて向き合っていた。  フェイリアの方から、じり、じり…と間合いを詰めていく。  緊張感が高まってゆく。周囲の空気が、まるで帯電しているかのようにぴりぴりと肌を刺す。  フェイリアは、声に出さずに魔法の準備をしていた。魔力の源となる精霊を召喚する。  右手を、剣の柄にかける。  あと、半歩――。  そう思った瞬間、ヴェスティアの方からすうっと間合いに踏み込んできた。フェイリアは反射的に剣を抜く。  同時に、準備していた魔法を発動させた。ヴェスティアの足下の固い土が、瞬時に柔らかな砂へと姿を変え、その足を捕らえる。  キンッ!  硬い、金属音が響いた。  ぱっと紅い飛沫が散る。  二人の動きが止まった。 「面白い……四大精霊の魔法とかいう奴か」  地面に滴った血が、たちまち砂に吸い込まれていく。  ぐらり……。  フェイリアの身体が傾いた。よろめきながらも、剣を杖代わりにして辛うじてバランスを取り戻す。  彼女の白い服に、紅い筋が走っていた。腹から胸にかけて、ざっくりと肋骨が剔られ、肺が切り裂かれている。  心臓は辛うじて傷ついていない。いや、わざと外したのだろうか。  いつの間に抜いたのか、ヴェスティアの手に剣が握られていた。  黒い、剣。  黒錆ではなく、塗ったものでもなく。  それでいて漆黒の刃だった。  黒い刃の上に、深紅の血糊が不気味なコントラストを描いている。  フェイリアの顔には、驚愕の表情が張り付いていた。  彼女の剣は空を切った。どうやってかわしたというのだろう。ヴェスティアの足は、柔らかな砂にくるぶしまで埋まっているというのに。 「精霊魔法なんて、今どき戦闘には使えないと思っていたが……こんな使い方もあるのか」  ヴェスティアは愉快そうに言うと、砂から足を抜いて土の上に移動する。  その時、一瞬の隙が生まれた。  深手を負ったフェイリアに何ができる……と、たかをくくっていたのかもしれない。  しかしフェイリアは、切り札を残していた。  手にした剣。  ヴェスティアの剣とは対称的な、真白い刃。  青白い閃光が走った。周囲が一瞬、皮膚が灼けるような熱気に包まれる。  一条の光が、天を貫いた。  そして、力尽きたフェイリアがゆっくりと倒れる。 「……少しばかり油断したか」  足下のフェイリアを見下ろしながら、さほど悔しそうでもない口調でヴェスティアは言った。むしろ、感心したような口振りだ。 「まさか、竜の剣がこの時代に伝えられているとはな」  剣を鞘に戻し、手で腹を押さえる。  指の隙間から、紅い血が流れ出していた。それも、多少の量ではない。  もう一度、意識を失っているフェイリアを見る。微かに目を細めて。 「……なるほど、ティーナ家の血を継ぐ娘か。ならば、そういうこともあるか」  小さく呟くと、フェイリアに向かって掌をかざした。手の中に紅い光が生まれる。  しかしその光がフェイリアにとどめを刺すよりも一瞬早く、目の前で小さな爆発が起こった。  ヴェスティアは大きく後ろに飛び退いたため、爆発には巻き込まれていない。しかし二度、三度と、ヴェスティアを追うように爆発は続く。  その意図は明白だった。倒れているフェイリアから、引き離そうとしている。彼女の仲間だろう。  予想通り、全力でこちらに走ってくる者がいる。  若い男が二人。  前を走るのは、フェイリアよりやや年長の長身の男。  もう一人はもっと年下で、まだ少年と呼ぶべき年齢だろう。 「……ディケイド・フォア、アークス・フォア……? ……、ハイダー家の者か。さては、竜の剣はもともとあいつらの物だな」  少年の方の表層意識を魔法で読み取り、二人の素性を知る。兄のディケイドはガードが堅いが、弟のアークスはまだまだ隙だらけだった。  この兄弟は、フェイリアの従兄弟なのだ。さらに言うとディケイドは、フェイリアの婚約者でもある。 「……ここで、始末しておいた方がいいかな?」  暫し考える。  決して無益な殺生が好きなわけではないが、自分に刃を向ける者を見逃すほど寛容でもない。  トリニア王国時代の名門、ティーナ家やハイダー家の末裔となれば、ここで見逃せば後々うるさいことになるかもしれない。  ヴェスティアは前に出た。 「アークス! お前はフェアを連れて逃げろ!」  剣を抜いたディケイドが立ち塞がり、少し遅れてきた弟に命じている。  ヴェスティアの手から、数条の光線が放たれた。それは目の前のディケイドではなく、その後ろのフェイリアを狙った。 「――っ!」  アークスが声にならない悲鳴を上げる。フェイリアに覆いかぶさるようにして、自分の身体でヴェスティアの魔法を受け止めていた。  一瞬、ディケイドの注意が背後に向けられる。その隙を見逃さず、ヴェスティアは剣を抜いた。  ギィンッ!  火花が散る。  不意を衝かれたにも関わらず、ディケイドの剣はヴェスティアの打ち込みを受け止めていた。  なかなかのものだ。魔力に関してはともかく、剣の腕はフェイリアよりも上だった。どこの国へ行っても一流の騎士として通用するだろう。 「少しは楽しませてくれそうだ。せいぜい頑張って時間稼ぎしないと、恋人が死ぬことになるぞ」  ディケイドは、命を捨てる覚悟でヴェスティアの前に立っていた。  それは間違いない。  相手が黒剣の主と知りながら闘いを挑むなど、生命を惜しむ人間にはできることではない。  自分が犠牲となって、フェイリアを助けようとしている――それがわかったからこそ、ヴェスティアは本気でディケイドの相手をすることにした。      * * * 「今日は、厄日か?」  ヴェスティアは苦笑した。  本音を言えば、落ち着ける場所でゆっくりと休んで、先ほどの闘いで受けた傷を癒したいところだった。  フェイリアの竜の剣に世って傷を負わされていたとはいえ、ディケイドは予想以上に健闘した。  彼を倒した時には既に、フェイリアを連れて逃げたアークスの姿は近くに見あたらず、致命傷ではないとはいえかなりの傷を負ったヴェスティアは、それ以上追跡を続けられない状態だった。  いずれ、また向こうからやってくるだろう――そう考えて、近くの街で休もうとしたのだが、そんな彼女の前に、別な人物が立ちはだかった。 「久しぶり?」  皮肉っぽい笑みを浮かべて、その人物は言った。 「こ〜ゆ〜チャンスを狙っていたんだ」  外見は、まだ十代の少女でしかない。  しかしその正体が見た目とはかけ離れたものであることを、ヴェスティアは知っていた。  初対面ではない。前にも一度、闘ったことがある。もう、遠い昔のことだが。  濃い金髪が、風になびいている。  大きな金色の瞳が、真っ直ぐにヴェスティアを見据えていた。 「ファーリッジ・ルゥ……生きていたのか、貴様もしぶといな」 「別に、好きで生きてたわけじゃない。私は、死ねないんだ。たとえ黒剣を用いてもね」 「ならば、もう一度試してみよう」  ヴェスティアの左手が、剣の柄にかかる。  ファージは、両手を身体の後ろに隠した。 「その傷で闘える? いくらあんたでも、竜の剣の相手はきつかったみたいじゃない」 「このくらいのハンデがなくては、貴様とは勝負にならんからな」 「さあ、どうかな?」  ファージの身体の後ろで、白い閃光が弾けた。  同時に、二人の周囲の空中に、青白い光の球が現れる。その数はちょっと数えきれない。十や二十などという数ではない。少なくとも桁がひとつ違う。  ヴェスティアが動くのと、光球から青白い光線が放たれたのは同時だった。  何十、あるいは何百条という光線が、瞬きよりも短い間隔で次々とヴェスティアを襲う。  瞬時に、その場は眩い光に包まれていた。  熱せられた空気が爆発的に膨張し、周囲を焼き尽くす。疎らに生えていた樹々が一斉に炎を上げる。  やがて光は、生まれたときと同じくらい唐突に消滅した。  視界が戻ったとき、二人は触れ合うほどの近さで立っていた。  ファージが手にした紅い光の剣が、ヴェスティアの腹部を貫いていた。  しかしヴェスティアの顔には、微かな笑みすら浮かんでいる。  漆黒の刃が、ファージの顔を貫いていた。 「死ねない、たとえ黒剣を用いても――そう言ったな? ならば、その言葉を証明して見せろ!」  バッ!  鈍い破裂音とともに、ファージの頭部が消滅した。  血と脳漿の混じった紅い飛沫が飛び散り、ヴェスティアの顔を汚す。  遅れて、頭を失った身体が倒れた。 「……死ぬじゃないか」  ヴェスティアは無表情に呟くと、血で汚れた刃を拭って鞘に収めた。  そのまま歩き出そうとして、バランスを崩して地面に膝を着く。  ぼたぼたと血が滴る。  竜の剣や、ファージの剣に貫かれた腹の傷だけではない。身体中に、無数の傷があった。  先刻の、ファージの魔法に依るものだ。  ふらつきながらも立ち上がる。  力の入らない足取りで、ゆっくりと歩き出した。  無意識のうちに、口元が綻ぶ。  可笑しくて仕方がない。  まさか、こんなことがあるなんて。 「新しい発見だな。この私でも、死ぬことができるとは……」  不思議なものだ。  もう、飽きるほどに生きてきたはずなのに、いざ死ぬとなると色々と未練が生まれる。 「セルタ……」  声に出さずに、その名を呟いた。 「……さっさと来い。急がないと、二度と会えなくなるぞ……」      * * * 「これは……記憶? ヴェスティアの……」  いつの間にか、視界は元に戻っていた。  剣は、鞘に収められている。  無限に広がる闇も、ヴェスティア・ディ・バーグの傷ついた姿もない。  アィアリスが剣を抜く前と同じ、瘴気に覆われた灰色の大地が広がっている。  目の前には、セルタが立っていた。 「戻ってきましたか。剣に喰われずに済んだようですね」 「当然でしょう」  アィアリスは平静を装って応えた。実際のところ、それほど余裕があったわけではない。  全身から冷たい汗が噴き出していた。  過去、黒剣の所有者となった人間が、片手で数えるほどしかいない理由がわかった。  普通の人間ならば、あの闇の中に意識を飲み込まれてしまうだろう。アィアリスでさえ、何度も意識が融けて消えそうになった。  あまりにも、恐ろしい存在だ。  しかし、だからこそ黒剣の王は、コルシアの支配者となることも可能なのだ。 「あなたは、黒剣を支配するだけの力を持っている。新たな黒剣の王の誕生です」  そう言うと、セルタは地面に膝をついて頭を下げた。  アィアリスに対してではない。これまで剣の所有者であった、ヴェスティアに向かって。  死後十数年の間、剣の魔力でその姿を保っていたヴェスティアの身体に、変化が現れていた。  さらさらと崩れてゆく。  砂で造った像のように。  黒剣の力は、新たな主の元へと移っていた。 「お別れです、ヴェスティア様。あなたの魂は永遠に黒剣と共にあります。だから私は、黒剣と共に行きます」  やがて、ヴェスティアの姿が完全に消え去ると、セルタは立ち上がった。 「私と一緒に来るの?」  アィアリスが問う。 「迷惑ですか?」 「いいえ、行きましょう」  ヴェスティアがいた場所に背を向けて、アィアリスは歩き始めた。  剣は手に持ったまま。 「ところであなたは、どこへ行こうとしているのです?」  後ろから、セルタの声がついてくる。 「未来へ、よ」  アィアリスは振り返らずに応えた。 一章 竜の娘  一筋の光も射さない、闇の中。  何もない空間。  無限に広がる、闇。  その中に、由維は一人でうずくまっていた。  外界のすべてを拒否するかのように、両手でしっかりと耳を押さえて。  しかし、それでも先刻からずっと悲鳴が響いている。  それは鼓膜を通すことなく、頭の中に直接響く声。 『痛い』 『痛い』 『痛い』 『痛い』  甲高い声。  多分、女の子だ。  まだ小さな、小さな子供の声。 『痛いよ』 『痛いよ』 『痛いよ』 『痛いよ』 『痛いよ』  その声は無数の刃と化して、由維の身体をずたずたに切り刻んでいく。  声が響くたびに、皮膚が裂けて血が噴きだす。 (ごめんなさい!)  由維は心の中で、何度も謝った。 (ごめんなさい!) (ごめんなさい!) (ごめんなさい!) (ごめんなさい!)  それでも、声が止むことはない。 『お前のせいだ』 『お前のせいだ』 『お前のせいだ』 『お前のせいだ』 『お前のせいだ』 『お前のせいだ』 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」  血塗れになった由維は、必死に叫ぶ。  自分の声で、頭に響く声をかき消そうとするかのように。 「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」  いっそ、死んでしまえばいい。  身体中切り刻まれて。  身体中の血を流して。  しかし、どんなに傷が増えて、どんなに血を流しても、由維は相変わらず生きている。  生きていて、頭の中に響く声に苛まれ続ける。 「ごめんなさい! ごめんなさい! お願い、許して! もう許して!」 『由維! ちょっと、由維!』 「ごめんなさい! ごめんなさい!」 『由維! 由維ってば、起きなさい!』  由維を救ったのは、別な声だった。  生まれた時から傍にある、一番懐かしい声。  一番暖かい声。  彼女の名を呼ぶその声と同時に、頭に響く子供の声は聞こえなくなった。  目を開けると、ぼんやりと奈子の顔が見える。  部屋の中は暗い。小さなオレンジ色の室内灯と、カーテンの隙間から射し込む街の灯りだけが光源だった。  部屋の様子がいつもと違うので、時計を見つけるのに少し手間取る。それで思い出した。ここは奈子の部屋ではない。旅行先のホテルの一室だ。  ベッドの横のディジタル時計は、午前二時十三分を表示している。  まだ、夜中だった。 「奈子……先輩……」 「どうしたの。怖い夢でも、見た?」 「…………」  返事をする代わりに、無言で奈子にしがみついた。  大きな奈子の胸に顔を埋めるようにして、無言で泣いた。  本当は、ここにいる資格はないのかもしれない。  奈子の胸の中で泣く資格なんて、ないのかもしれない。  だけど、どうしようもない。  どんなに堪えても、涙が溢れだしてくる。 「…………ごめんなさい」  微かな、本当に微かな声で、それだけを言った。  奈子は、何も言わずに由維の身体に腕を回した。  何を言えばいいか、わからなかった。  一体、どう慰めればいいというのだろう。  あれからもう半年になるというのに、由維は今でも頻繁にうなされている。  しかし無理もないのかもしれない。  奈子だって、時々夢に見る。  たった半年で忘れてしまうには、あまりにも重すぎる出来事だった。  きっと、忘れることはできない。  一生、心に残る傷。  だけど、どうしようもない。  失ったものは戻らない。  生きていれば、取り返しのつかないこともある。  それは仕方のないことだ。  忘れることのできないこと。忘れてはいけないこと。  だけど、いつまでもそれを引きずっていてもいけない。  奈子はただ黙って、由維の身体を抱きしめていた。 (ごめん……、由維)  由維の心に、傷を残してしまった。  自分のことよりも、子供のことよりも。それが一番辛いことだった。  一番、傷つけたくない相手を巻き込んでしまった。  元はといえば、奈子の不注意が原因なのに。 (ごめん……、由維)  そっと、由維の頭を撫でる。  由維は変わらず、奈子の胸に顔を埋めて啜り泣いていた。  慰めの言葉はかけない。  そういえば、昔からそうだった気がする。由維が泣いている時は、ただ、傍についていてやるだけだった。  どちらかといえば口下手な奈子は、こんな時になんて言えばいいのかわからない。  泣いている原因が他にあるならともかく、今回は奈子自身が当事者なのだから。  だから、言葉は必要ない。  どんなに悲しい時でも、お互いの鼓動を、息遣いを、体温を感じていれば心が安らぐ。  小さい頃から、そうだった。  だから、今回の旅行にも連れてきた。一人で残しておくのは不安だったし、奈子も、一緒にいたかった。  由維はあまりいい顔をしないかもしれない、と思ったのだが。  なにしろ今回の旅行は、道場の先輩である高品雄二の招待がきっかけだった。高品が出場する大きな格闘技の大会があって、そのチケットをもらったのだ。  ちょうど学校は春休みなので、由維も誘った。一泊追加して、東京観光をするつもりだった。  ちらりと、窓の方へと目をやる。  外は、街の灯りで明るかった。  この時刻になっても、東京はまだ眠ってはいなかった。      * * *  翌日の夜、奈子と由維は日本武道館にいた。  観客席は満員である。ものすごい大歓声だ。  今夜ここで開催されているのは、最近増えている、打撃・投げ技・寝技なんでもありの、ノールール系の大会。相手を掴むことのできる薄いオープンフィンガーのグローブを着け、勝敗はKOかギブアップのみで決まる。  この種の大会は、出場者のレベルも試合内容もその時によってピンキリだが、今日の試合は質が高かった。  これまでの六試合、いずれも一流の格闘家同士の白熱した試合が繰り広げられていた。そしていよいよメインエベント。観客のボルテージは最高潮に達している。  なにしろ、メインエベントに登場するのは『世界最強の格闘家』と名高いルーシャ・チェルネンコなのだ。  今夜、武道館に集まった観客の多くは、ルーシャの試合が目当てといってもいい。  ルーシャ――ルスラーン・チェルネンコは、現在二十九歳。ロシア出身で、子供の頃からサンボと空手を学んでいたという。  やがて軍人となってコマンドサンボを身に付け、サンボのロシア選手権で優勝したこともある。  二十三歳で軍を除隊。アメリカに渡ってフリーファイト系のトーナメントに出場し、まったくの無名ながら圧倒的な強さで優勝をさらっていった。  ところがその後すぐに、何処へともなく行方をくらましてしまった。噂では、賞金で南米と中国を数年間放浪し、ブラジリアン柔術と中国拳法を学んでいたという。  三年前に格闘技の表舞台に復帰してからは、以前以上の圧倒的な強さで、世界の一流の格闘家相手に勝利し続け『世界最強』の称号を恣にしている。  百九十五センチ百二十キロの体格と、ロシア人特有の強靱な筋肉。そして生まれついての格闘センスに、世界を旅して身に付けた格闘の技。  ルーシャはその名から『ロシアの獅子王』と呼ばれているが、まさしくその異名に相応しい男だった。  そして今夜、この男に挑戦するのが、総合空手・北原極闘流の高品雄二だ。  昨年、総合空手協会の日本選手権で準優勝。現在の北原極闘流で最強、日本でも三指に入る空手家との評判だ。特に、空手ルールよりも、こうした総合格闘技ルールで強さを発揮するといわれている。  二十四歳とまだ若いが、ここ一年は他団体の試合にも積極的に参戦し、トップクラスのレスラーや柔術家とも対戦して、四戦全勝という成績を上げていた。  百八十六センチ百三キロと、ロシア人であるルーシャに比べれば一回り小さい。それでも十分、ヘビー級プロレスラーとも互角に渡り合える体格だ。  極闘流が総合格闘技とはいえ、グラウンド技術ではサンボ出身のルーシャには敵わないだろうが、圧倒的な破壊力を誇る極闘流の打撃は、たとえ相手が二メートル級の選手だろうと通用する。それに北原極闘流の技術体系は、他の多くの空手と違い、組技を使う相手と闘うことを前提としている。  世界最強の男と、今もっとも勢いに乗っている日本人格闘家の真剣勝負。  日本中の格闘技ファンが、この試合に注目していた。  間もなく試合開始だ。 「高品先輩、頑張れー!」  奈子の右隣の席で、大声を上げている女の子がいる。同じ道場の一年先輩、め〜めこと安藤美夢だ。彼女も奈子同様、高品の愛弟子だった。  左隣に座っている由維は、困ったように首を傾げている。 「うぅん、どっちを応援しようかなぁ」 「あんた、高品先輩の応援しないの?」  奈子は責めるような口調で言った。  年下の由維は、高品に直接指導してもらう機会はほとんどなかったはずだが、それでも極闘流の門下生なのだ。先輩を応援するのが当然だろう。 「だって、ルーシャ・チェルネンコっていい男ですよ?」  由維はまったく悪びれずにそう応えて、にっこりと笑った。確かに、均整のとれたルーシャの身体は、ギリシャ彫刻にも似た美しさがある。 「それに……」 「それに?」  美夢が身体を乗り出して訊いてくる。 「恋敵だもの」  ぼそっとつぶやいた由維の台詞に、奈子は飲みかけのジュースを吹き出しそうになって咳き込んだ。 「恋敵……?」  事情を知らない美夢は一瞬首を傾げたが、すぐに「ああ」と手を叩いた。  「あ、そーゆーこと?」  からかうように奈子を見る。奈子はさりげなく視線を逸らした。  実は高品は、奈子の初恋の相手なのだ。  そして『初体験』の相手でもある。  もう、二年以上も前のことだ。恋人のいる高品に、半ば強引に「一夜だけの恋人」になってもらったのは。  冷静になって思い出すと、やっぱり恥ずかしい。 「昔のこと蒸し返さないでよ!」  奈子は怒ったように言ったが、顔が真っ赤になっているのが自分でもわかった。  本当に「昔のこと」かと言われると、ちょっと困ってしまう。 (やっぱり、格好いいな……)  つい、リング上の高品に見とれてしまう自分がいる。  もちろん由維のことが一番好きで、一番大切な相手なのは間違いない。それでもやっぱり、女の子にとって「初めての相手」というのは、どれだけ時間が経っても特別な存在だった。 (頑張って、先輩)  あからさまに口に出すと由維がやきもちを妬くかもしれないので、心の中で声援を送る。両手は、知らず知らずのうちにぎゅっと拳を握っていた。  いよいよ、ゴングが鳴る。  両選手は、どちらからともなくリング中央に歩み寄って、片手を差し出した。握手するかのように。  しかしその手が触れた瞬間、高品のもう一方の手は拳を握って、ルーシャの顔面に襲いかかっていた。  ルーシャはルーシャで、高品の手首を握ってそのまま飛びつき腕十字固めを仕掛ける。  二人の身体がリング上に転がるが、お互い不十分な体勢だったために、そこで離れて立ち上がった。  驚きの入り混じった歓声が上がる。  高品とルーシャは、どちらも苦笑していた。お互いに、握手と見せかけて先制攻撃を狙っていたのだ。  一見、卑怯な攻撃である。しかしそれが闘いというものだ。試合が始まっているのに無防備に相手に手を預けるようでは、何をされても文句は言えない。  それが、スポーツと格闘技を画する一線だった。  高品もルーシャも、その点をよく心得ていた。「心は常に実戦」は極闘流の教えの基本だし、軍人上がりで世界中を旅して武者修行をしてきたルーシャも、簡単に敵を信用したりはしないだろう。  一度相手と距離を空けた高品は、構えも取らずに無造作に近寄っていった。ルーシャが手を上げて迎え撃つ姿勢をとる。  手の届く距離に入る直前、高品の右足が跳ね上がった。前蹴りがルーシャの鳩尾を狙う。  傍目には蹴りをまともに喰らったように見えたが、ルーシャは僅かに身体を下げてダメージを軽減し、その蹴り足を掴まえた。 「危ないっ!」  奈子は思わず悲鳴を上げる。  真っ向から組み合った体勢ならともかく、サンボのチャンピオンを相手に、蹴り脚を取られた状態で寝技に引き込まれては為す術がない。  高品の身体が、ふわりと浮いたように見えた。だが、ルーシャに持ち上げられたのではない。その証拠に、自由な方の足が顔面を狙った膝蹴りを繰り出す。  しかしルーシャは常人離れした反射神経で、腕で顔面をガードする。結果的に持ち上げられているような体勢になった高品は、そのまま脳天に肘打ちを落とした。  これはさすがに効いたのか、ルーシャは高品の足を放す。着地すると同時に高品が放った後ろ回し蹴りはガードされたが、それでもルーシャの体はバランスを崩して大きくよろめいた。  それで間合いが離れ、一度動きが止まる。  会場中から拍手が沸き起こった。  奈子は、ふぅっと大きく息を吐き出した。今の一連の攻防の間、呼吸をするのも忘れていたのだ。  自分で闘うよりもよっぽど緊張する。 「頑張ってるね、高品先輩」  美夢が嬉しそうに言う。 「当然ですよ!」  奈子も頬を紅潮させて応えた。  試合はその後も、白熱した展開が続いていた。  高品の正拳がルーシャの顔面を捉える。  血飛沫が舞う。  それでもルーシャは倒れずに、立ったまま高品の肘関節を極め、鳩尾に膝を叩き込む。  その膝を捕まえた高品が反り投げを打ち、グラウンドの攻防へともつれ込む。  倒れ込みながら、高品は顔面へ拳を打ち込む。しかし寝技の技術で勝るルーシャは、転がるように器用に体を入れ替えると、高品の上に乗った。  高品はルーシャの腹の下に足をこじ入れて、巴投げの要領で蹴り上げる。  そのままマットの上を転がり、距離を空けてから立ち上がった。  ほぼ一進一退。全体として見れば、打撃で高品有利、グラウンドでルーシャ有利という、試合前の予想通りの展開ではある。それでもお互い、相手の土俵でも予想以上に健闘していた。  この試合のルールは、一ラウンド五分でラウンド間のインターバルが一分。ラウンド数は決着がつくまで無制限となっている。  それでもこうしたノールール系の試合は、グラウンドでの膠着が続かない限り、比較的短い時間で終わることが多い。しかしこの試合は、もう既に第四ラウンドも終盤に差し掛かろうとしていた。  両者とも汗にまみれ、額や口から出血もしている。  息はかなり荒くなっているが、それでもまだ動きに疲れは見えない。  どちらが勝つかわからないまま、闘いはまだまだ続きそうに思えた。  しかし――。  第四ラウンド終了間際。  捕まえに来たルーシャの手をうまく押さえて、逆に立ち関節を極めた高品は、そのまま顔面に肘を打ち込もうとした。  それが入れば、決定的なダメージとなるはずだった。  運命の悪戯とでもいうのだろうか。  汗で、手が滑った。その隙を逃すルーシャではなかった。  高品の手首をがっちりと掴んだルーシャが、一瞬、体重が消えたかのような動きを見せる。身体がふわりと浮いたかに見えた次の瞬間、脚が、高品の腕に絡みついていた。  手品でも見ているようだった。流れるような動作で相手を寝技へ引き込む技術に関しては、サンボの右に出るものはない。  まるで、前もって打ち合わせてあったかと思うくらい自然な動きで、二人の身体はマットに転がった。  ルーシャは、スポーツマンではなく格闘技者だった。体格と技術だけではなく、その精神も『獅子王』の称号に相応しいものだった。  勝てるチャンスは、決して逃しはしない。チャンスがあれば、決して躊躇しない。  高品の肘が発した鈍い音を、奈子は聞いた。大歓声の中だというのに、その音は確かに耳に届いた。  一瞬遅れて、白いタオルがリング上に舞った。      * * * 「高品先輩、負けちゃったね……」  まだ場内の興奮が醒めやらぬ中、美夢は肩を落としてつぶやいた。  奈子はただ黙って、唇を噛んでいる。  肘靱帯を痛めた高品は、それでも担架を断り、セコンドに支えられながらも自分の足で退場していった。  リングの上では、通訳を介してルーシャへのインタビューが行われているが、奈子はほとんど聞いていなかった。  ただ一つだけ、耳に残った台詞がある。 『タカシナはいいファイターだったが、私が世界中を旅して身に付けた技の方が、キョクトウリュウをわずかに上回っていた』  その台詞と同時に、リングに飛び込む人影があった。  まだほとんどの観客が残っていた客席から、ざわめきが起こる。 「えぇっ?」 「あっ!」  奈子と美夢は、ほとんど同時に声を上げた。  胸を張ってルーシャの前に立っていたのは、一人の女性だった。  二人の知り合い。それもこれ以上はないというくらい、よく知っている顔だ。  なにしろ、同じ道場の先輩である。  その闖入者は、他ならぬ北原美樹その人だった。 「何やってんのよ! あ、あの人はぁぁっ!」  奈子は叫んだ。  美樹が会場に来ていたなんて、知らなかった。美夢も驚いている。  美樹は高校卒業後、白岩学園の大学に進学したが、今は休学して海外を放浪しているはずだ。  何処にいるのかはよくわからない。  外人部隊に入隊したとか、傭兵になってアフリカで戦争しているとか、そんな噂がまことしやかに聞こえてくる。  それなのに、どうしてここにいるのだろう。  しかし、そこにいるのは紛れもない北原美樹本人だった。  以前よりも少し日焼けして。髪が短くなって。  相変わらずの不適な笑みを浮かべて、自分よりも三十センチ以上大きいルーシャを見上げている。  ルーシャになにやら話しかけているようだ。どうやら英語らしい。  ゆっくり話してくれれば奈子でもなんとか聞き取れるだろうが、早口で、しかもスラング混じりとあってはさっぱり理解できない。美樹はもともとアメリカ生まれ。英語がネイティブなのだ。  困った奈子は、隣にいる美夢を見る。海外にホームスティした経験もあり、英語は得意なはずだ。 「なんて言ってるんです?」 「……通訳しなくてもわかるんじゃない? あの人の言いそうなこと」  美夢は苦笑している。 「なんとなくは」 「『極闘流に勝ったと言いたければ、私を倒してからにしろ』だって」 「やっぱり……」  驚くよりも先に、呆れてしまった。  とはいえ、美樹の気持ちも分からなくはない。  彼女は、北原極闘流の創始者であり総帥でもある、北原道元の孫娘だ。父親は何年も前に亡くなっているから、今は美樹が極闘流の看板を背負っているようなものだ。 「普段は自分勝手なことばかりしてるけど、やっぱり極闘流を大切に思っているんですね」 「いや、単にルーシャと闘う口実が欲しかっただけだと思う。ホント、強い相手には見境ないんだから」  素直に感動した奈子に対して、美夢は辛辣な台詞を吐いた。彼女は極闘流の門下生の中でも、もっとも美樹と親しく、その性格をよく把握しているのだ。  二人の隣で、由維は目を丸くしている。まだ中学生の由維は、奈子や美夢に比べれば美樹に直に接した機会は少ない。  リング上では、ルーシャが笑っている。美樹の台詞を本気にはしていない。  しかしそれが当然だろう。性差に加えて、身長で三十数センチ、体重は倍以上の差があるのだ。冗談と思わない方がおかしい。  笑われた美樹は、しかし怒った素振りを見せなかった。代わりに危険な笑みを浮かべている。 (まずい……。やる気だよ、あのヒト)  奈子のこめかみに一筋の汗が流れる。顔には出さない美樹の殺気が、ここまで伝わってくるようだ。  回し蹴り、だった。  まったく予備動作のない俊速の蹴りだ。  ルーシャの脇腹に突き刺さるような。  音は、ほとんど聞こえなかった。足の甲や脛で蹴るのではなく、つま先での蹴り。  いくら体格差があろうと、美樹の渾身の蹴りの威力が一点に集中するのだ。たかが女の子の蹴り…と侮ることはできない。  ルーシャの表情が強張る。額に脂汗が浮く。  にやりと、美樹が笑った。  ルーシャはゆっくりと、その場に膝を着いた。おそらく、肋骨を折られたのではないだろうか。 「ま、今日はあんたも疲れてるし、先刻の試合のダメージもあるだろうから、このくらいにしておこうか。勝負は二ヶ月後、だ。逃げるんじゃないよ」   英語で早口にまくし立てた後で、ゆっくりとした日本語で同じことを繰り返した。  まだ席を埋め尽くしている観客や、マスコミ関係者に聞こえるように。  万単位の観客を証人とすることで、ルーシャの逃げ道を塞いだのだ。  本気で、世界最強の男と闘うつもりらしい。 「あの人ってば……」 「……まさか、ここまでやるとはね」  奈子と美夢は、揃って肩をすくめた。  他に、リアクションのしようはなかった。      * * * 「松宮ちゃん?」  手洗いに行っている由維を待って、まだ大勢の人でごった返しているロビーにぽつんと立っていた奈子の耳に、聞き覚えのある声が届いた。  きょろきょろとその声の主を捜す。ちょうど戻ってきた由維の後ろに、二十代半ばの、すらりと背の高い女性の姿があった。 「……沙紀さん」  顔見知りの雑誌記者だった。女だてらに格闘技雑誌の記者をしているという進藤沙紀、自称二十四歳だ。もっとも、去年もやっぱり二十四歳だったが。 (アタシの周りって、こーゆー人が多いよなぁ)  自分の母親や、いつも行く喫茶店のマスターの顔が浮かぶ。  それに比べれば沙紀のサバ読みなどせいぜい一、二歳。可愛いものだ。 「アタシになにか用ですか?」 「ちょっと取材させて」  北原美樹が日本の格闘技界で活躍するようになって以来、女子格闘技の人気が急速に高まっている。美樹や美夢など、実力と容姿を兼ね備えたキャラクターが続けて現れたことが大きな要因だろう。  その結果、沙紀のような女性記者の出番も増えることになる。相手が女の子であれば、女同士の方が話も聞きやすい。  それに、この進藤沙紀は同門出身だ。大学卒業まで、極闘流女子ではトップクラスの選手だったらしい。現役を退いてからは、こうして雑誌記者をしているというわけだ。 「誰ですか、このおねーさん?」  由維が訊いてくる。 「ほら、『月刊格闘王』の記者の進藤沙紀さん」  奈子の部屋に積んである雑誌を思い出して、由維はうなずいた。 「初めましてー」 「この子は?」 「宮本由維、アタシの後輩で……」 「奈子先輩の恋人でぇす!」  奈子と腕を組んで大声で宣言する由維の口を、慌てて押さえる。 「こら! なに言ってンの、こんなトコで……」  狼狽しているを見て、沙紀は声を上げて笑った。 「心配しなくても大丈夫。低俗な芸能マスコミじゃあるまいし、そんなプライベートまで記事にしないわよ」 「別に、記事にしてもらっても構いませんけど?」 「アタシが構うの!」  最近、美樹や美夢の人気は格闘技マニア以外にも広まり始めている。  女子格闘技の人気が上がればそこにアイドルが生まれるのも当然のこと。人気と知名度ナンバーワンの美樹や、とびっきりの美少女である美夢などは、写真集まで発売されている。もちろん、格闘技シーンよりも水着写真の方が多い。  どちらかといえばミーハーな美夢は喜んでいたが、当然、美樹はいい顔をしていない。  しかし極闘流総帥の北原道元は、実力のある優れた格闘家としては珍しく、商売上手な人物だった。  孫の人気を利用して極闘流を宣伝しようとする意図が見え見えだ。美樹は写真集はもちろん、男性向け雑誌の取材まで受けさせられている。あの北原美樹も、祖父にだけは口でも実力でも敵わないのだ。  そして最近は、奈子の知名度も上がってきていた。  美樹が海外逃亡してしまったので、全国大会で連覇している奈子をその代わりにしようという目論見らしい。  時には何か勘違いしたような取材を受けることもあったが、その点では沙紀は信用してもいい相手だった。『月刊格闘王』はその誌名の割に、どちらかといえば硬派の雑誌だ。 「先刻のアレについて、ちょっと話を聞かせてよ。晩ごはんくらいご馳走するからさ」  沙紀が顔の前で手を合わせる。 「それなら私、焼き肉がいいな!」 「直接、美樹さんに訊けばいいじゃん」  ずうずうしい由維の後頭部を掌底でどつきながら、奈子は応えた。 「それができればねぇ。とっくに雲隠れしちゃったのよ、あの子。だからさ、代わりに誰か北原ちゃんに近い人のコメントをもらわないと、格好つかないの。その場にいながらコメントが取れなかったなんて、編集長に怒られちゃう」 「まあ、そういうことなら少しくらいは……」  協力してやってもいい。どうせこの後は、由維と食事をしてホテルに戻るだけの予定だった。 「じゃあ、行きましょうか」  三人は並んで歩き出す。美夢は、こちらの友達に会う約束があるとかで、先に帰っていた。 「いくら北原ちゃんでも、ルーシャ・チェルネンコ相手に勝負になると思う?」 「常識で考えれば、無謀だと思いますけどね…」  奈子は正直な意見を口にした。      * * * 「無謀? そんなことはないさ」  美樹は、腕立て伏せを続けながら言った。  掌は床に着いていない。五本の指で身体を支えている。 「じゃあ、勝てるって言うんですか? あのルーシャ・チェルネンコに」  奈子は隣で柔軟体操をしている。  あの試合から二週間ほどが過ぎたある日のこと。  稽古はないはずの日に、いきなり美樹から電話がかかってきて、道場に呼び出されたのだ。  練習に付き合え、と。  突然のことに戸惑いはしたが、美樹に直接稽古を付けてもらうのも久しぶりのこと。奈子は急いでやって来た。せっかくだからと由維も連れてくる。 「勝てるさ。ルール次第でいくらでも勝算はある」  美樹は、本気でルーシャと試合をするつもりらしかった。この二週間で、ルーシャとの交渉はもちろん、スポンサー探しやテレビ局との打ち合わせまで済ませてきたそうだ。  奈子にはやっぱり無謀な行動に思えるのだが、しかし、美樹にとっては違うらしい。涼しい顔で腕立てを続けている。  五本指で三十回の腕立てを終えた美樹は、今度は小指を床から離した。  四本指で同じく三十回。  次は薬指も離して……と、一本ずつ指を減らしていって、最後は親指と人差し指だけで身体を支えるのだ。 「ルール次第って……、目潰しはどんなルールでも禁止でしょう?」  喧嘩での美樹の得意技。さすがに試合では使わないが、実戦となれば容赦はない。  しかしまさか、テレビ中継もある公式試合でそれはないだろう。 「いくらなんでも、そこまでしないさ。肘打ち、頭突きあり、グローブなし。それで十分」 「まさか?」  美樹とルーシャでは身長で三十五センチ強、体重は倍以上も違う。しかも相手の技術は超一流だ。  素手で、いったいどう闘うというのだろう。 「いくらでも闘いようはある。楽勝とは言わないけど、勝ち目がないわけじゃない」  美樹は平然と言った。 (この人って……)  昔からちっとも変わらないな、と奈子は思う。  いつも、燃えさかる炎のようだ。  もう、四年も前になるだろうか。父親が亡くなって、美樹が祖父のいる日本へやってきたのは。  その頃奈子は、中学生になったばかりだった。  新学期が始まって最初に道場へ顔を出した時、妙に先輩たちがざわついていて。  その話題の主が美樹だった。  彼女が最初に騒ぎを起こしたのは東京の本部道場だから、奈子は後で先輩から聞いた話だ。  本部の師範代に連れられて道場に来た美樹は、ちょうどそこで稽古していた女子を見て「子供のままごと遊びだ」と言い放ったのだそうだ。  その場には極闘流の女子チャンピオンもいたのだから、只で済むはずがない。当然のように、限りなく喧嘩に近い試合を行うことになり、美樹は無傷でその場の全員を倒したという。  最初からそんな調子の美樹には敵も多かったが、しかし、確かに強かった。  初めて美樹を見たときに、奈子は思ったものだ。この人は人間の形をした肉食獣だ、と。  強さを求めるためには一切の妥協を許さないその姿に、心惹かれた。  この人のようになりたい、この人と闘えるくらい強くなりたい、と。そう思って今日まで空手を続けてきた。  腕立て伏せを続けている美樹を見おろす。  いったい自分は、この人にどれだけ近づくことができたのだろうか。  と、突然。  美樹が跳び上がった。  直前まで床に伏せた姿勢だったのに、全身のバネを利用して、奈子の身長よりも高く跳んでいる。  反射的に、腕で顔面をガードした。  間一髪の差で、蹴りを受け止める。  続けてもう一発。  美樹はあの崩れた体勢から、空中二段蹴りを放ってきた。  腕を貫くような痛みが走る。衝撃は骨まで響く。  考えるより先に、身体が動いていた。  着地する瞬間を狙って前蹴りを繰り出す。  美樹は大きく後ろに跳んでそれをかわした。 「い、いきなり何するんですかっ?」  奈子は叫んだ。  予告もなしにいきなり襲いかかってくるなんて、何を考えているのだろう。 「ちゃんと反応できてるじゃん」  美樹は小さく笑って構えを取った。 「おかげで失望せずに済んだ」 「美樹さん……?」  訝しみながら、奈子も構えた。相手の意図は読めないが、こんな状態の美樹の前で無防備でいては、冗談抜きで命に関わる。 「ルーシャとやる前に、スパーリングの相手をしてくれよ。もちろん時間無制限、ノールールでな」 「そんな無茶な!」 「お前も得意だろう? そーゆーの」  奈子の返答を待たずに美樹が飛び込んできた。  中段の回し蹴りと見せかけて、いきなり左右の突きに変化する。  奈子は蹴りをブロックするために上げかけた足をそのまま足刀気味に蹴り上げ、美樹の突きを払い除けた。  軸足を狙って、今度こそ下段の回し蹴りが飛んでくる。  奈子は軸足でそのまま床を蹴った。顔面を狙った跳び蹴りで反撃する。  右腕を回すようにして蹴りを流した美樹は、無防備になった脇腹にフック気味の突きを打ってくる。その拳には肘を叩きつけてかわした。 「やめてくださいよ、美樹さん!」 「口ではやめてと言っても、身体はちゃんと反応してんじゃん?」 「そーゆー下品な表現もやめてくださいっ!」  奈子は真っ赤になった。一見ストイックな美樹だが、実は意外と下ネタが得意だ。  ほとんど間を置かず、また美樹が襲いかかってくる。  こうなっては奈子としても、覚悟を決める必要がありそうだった。  美樹の攻撃はまったく手加減していない。本気で、やるつもりなのだ。 (だったら……、こっちも本気でやってやる!)  やるしかない。もう逃げ道はない。  それならば、今の自分がどこまで美樹に通用するのか、それを試す絶好の機会だった。 (病院送りにするくらいのつもりでやらないと……)  そうしなければ、自分が殺される。 「怪我してルーシャとやれなくなっても知りませんよ! 昔のアタシとは違いますからね」 「よく言った。そうなったらお前が代わりにルーシャとやれよ」  身にまとう殺気のためだろうか、奈子よりも小柄なはずの美樹の身体が、ひどく大きく感じた。  由維は、ただ呆然と二人の闘いを見つめていた。  なにしろ、口を挟む間もなく闘いを始めてしまったのだから。  美樹は当然として、結局のところ奈子も闘うことが好きなのだ。  それにしても、なんてレベルの高い攻防だろう。  端で見ている由維が突きや蹴りを目で追いきれないのに、間近で闘っている二人は、相手の動きにほぼ完璧に対応している。  二人とも、本気だった。  顔面への正拳や一本拳。  関節や、肋骨の隙間を狙った貫手。  相手の襟を掴んだ状態からの肘打ち。  つま先での蹴り。  昇竜脚や飛鷹脚といった、ブロックの上からでもダメージを与えうる大技。  そして、衝。  公式試合では禁止されている技も含めて、なんの遠慮もなしに一撃必倒の攻撃を繰り出している。  それは、相手がかわせると信じているからだろうか。それとも、本当に殺してもかまわないと思っているのだろうか。  フェイント混じりに矢継ぎ早の攻撃を続けているというのに、お互い、致命的なダメージは受けていない。  ほとんどの攻撃をかわし、ブロックし、それが不可能であれば身体の位置をわずかに変えることでダメージを軽減している。  もちろん、相手の動きを見てから考えて対応しているのではない。かといって反射神経だけでできる単純な攻防ではない。  以前、奈子が説明してくれたことがあった。  これは一種の『先行入力』なのだ。  相手の構えや動きから、次に来るであろう攻撃の候補をすべて抽出し、それぞれへの対応法を考えて神経と筋肉にインプットしておく。そうすることで、反射とほとんど同じ速度で「考えた動き」をすることが可能なのだ、と。  それは、口で言うほど簡単なことではない。将棋やチェスの対戦のように、何手も先まで相手の行動を読み、あり得るすべての可能性を洗い出さなければならないのだから。  相手がひとつ行動を起こしたら、外れた予測はすべて破棄し、その行動を元にまた次の未来を予測する。最新のコンピュータの先行処理にも似て、脳と神経は実際の動きよりも先の行動を起こしているのだ。  二人とも、予知能力と言ってもいいほどの精度で相手の動きを読んでいた。攻撃がクリーンヒットするのは、相手の予想を大きく外すか、対応が追いつかないほどの速度で連撃を繰り出した時だけだ。  由維は驚いていた。  まさか奈子が、これほどまでに強いとは。  奈子の強さはよく知っているが、極闘流の女子にとって北原美樹は雲の上の存在だ。彼女と互角に闘える女子がいるなど考えられない。  しかしどうだろう。いま目の前で繰り広げられている光景は。  ほとんど互角の攻防である。  いや、互角どころではない。  時間が経つにしたがって、徐々に奈子が優勢となりつつある。  もともと体格的には奈子の方が恵まれているのだ。そして今、動きの速さでも正確さでも、美樹と肩を並べている。  闘いが長引けば、パワーとスタミナで勝る奈子に分があった。  美樹の動きが、少しずつ遅れ始めていた。  ガードの上からでも容赦なく叩きつけられる攻撃によって、わずかずつとはいえダメージが蓄積しているのだ。耐久力の点でも、身体の大きい奈子の方が有利だった。  打撃では分がないと見たのか、美樹は前に出ると奈子の道着を掴んだ。 (組技?)  体格で劣る美樹が、自分から組みに来るとは意外だった。胴のガードが甘いのを見て、奈子は密着した体勢から膝蹴りを放つ。  それが決まった……と思った瞬間、美樹の右腕が蹴り脚を抱え込んでいた。同時に、左腕は奈子の首に回される。 「キャプチュード!」  由維は思わず叫んだ。  相手の膝と首を抱え込んでの反り投げ。その昔、プロレスラー時代の前田日明が得意にしていたという大技だ。受け身が難しく、まともに決まれば一気に形勢は逆転する。  しかし、以前にも美樹のキャプチュードを喰らったことのある奈子は、その破り方を学んでいた。  首を抱え込まれた瞬間、相手の顔面に額を叩きつける。  頭突きは多くの格闘競技で反則とされているが、しかしこれが正統なキャプチュード破りの手段だった。  美樹の身体がバランスを崩す。  そのわずかな隙が命取りだった。  美樹の突きをかいくぐるように、奈子が懐に飛び込む。脇腹はがら空きだ。 (――衝っ?)  由維は、奈子の勝利を確信した。  全身の運動エネルギーを一点に集中して打ち込む必殺の突き『衝』。これがまともに入れば勝敗はほぼ決する。  奈子は右脚を大きく前に踏み出した。足が床に触れた瞬間、鋭い腰の回転と共に右拳が打ち出される。  ドォン!  バスドラムを力いっぱい叩いたような音が響く。  美樹の身体がその場でくの時に曲がった。  衝がまともに入ったとき、相手の身体は後ろに吹き飛ばされることはない。そのエネルギーは全て体内に打ち込まれ、最大限のダメージを与える。  奈子の動きはそれで終わらなかった。木偶のようにただ立っているだけの美樹を攻撃し続ける。  これ以上やったら、美樹は本当に危ないかもしれない。  しかし「相手が立っている限り、攻める手を休めるな」「優勢に立ったら、相手が倒れるまで一気に畳み掛けろ」日頃から奈子にそう教えてきたのは、美樹その人なのだ。  左右の突き。  そして前蹴り。  すべてヒットする。衝が入った直後は痛みと神経へのダメージのために、身体はほとんど動かないはずだ。  顔面をガードしていた腕が下がる。顔面に正拳が入る。  美樹の足はまだ床を踏みしめているものの、そうしていられるのもあと二、三秒のことだろう。 (奈子先輩! それは……っ!)  奈子の腰がわずかに低くなるのを見て、由維は心の中で悲鳴を上げた。  衝でとどめを刺そうというのだ。  美樹はもう、意識も定かではないだろう。まともに防御もできない相手に本気で衝を打てば、ひとつ間違えば病院送りでは済まされない。  ガードするつもりなのか、美樹が腕を上げる。しかしその腕には、もう力がこもっていない。奈子の身体に触れたものの、押し返すだけの力はなかった。 「――っ!」  道場にまた、重い音が響いた。  美樹が咳き込むように血を吐き出す。  ほとんど密着した状態で、二人の動きが止まった。  一秒、二秒、三秒。  突然、奈子の身体がびくんと痙攣した。  表情が歪む。  自分の身体を抱きしめるような格好で、奈子はその場に崩れ落ちた。  ごぼっという音とともに、口から多量の血が溢れ出す。 「奈子先輩!」  血が気管に入ったのだろうか。それとも呼吸器からの出血なのだろうか。奈子は激しく咳き込みながら喀血し続けている。 「奈子先輩っ!」  由維はもう一度叫ぶ。  美樹がこちらを振り返った。  彼女も満身創痍だ。今にも倒れそうな様子で、自嘲めいた笑みを浮かべている。 「何をぼんやりしてる? さっさと救急車を呼んでこい」 「え……?」 「急がないと、死ぬぞ」  その言葉で我に返った。更衣室に携帯電話が置いてある。由維は慌てて駆けだした。  背後から、美樹の声が聞こえてくる。 「ああ、私の分も呼んでくれ」  由維が振り返ると、ちょうど美樹の身体が力尽きたように倒れるところだった。 二章 魔凱史  白岩学園大学、医学部付属病院の外科病棟。  そこに、奈子は入院していた。  まだ、腕には点滴と痛み止めの管が刺さっている。  動くこともままならない。だから奈子は一日中寝て過ごしていた。  具合の悪い時は、いくらでも眠ることができた。  余分な体力を使わず、ただ回復のためにすべてのエネルギーを費やす。  怪我をした野生動物がそうするように、奈子はただじっと傷を癒していた。  今日、由維は来ていない。あるいは、ちょうど眠っているときに来たのかもしれないが。まあ、もう命に別状はないのだから、毎日来る必要もないだろう。  両親には詳しく話していない。稽古中に怪我をしてちょっと入院する、とだけ。  仕事が忙しい両親に、余計な心配をかけたくなかった。  奈子が軽い怪我で病院に通うのは日常茶飯事だから、見舞いにも来ていない。まさか集中治療室に運び込まれたとは夢にも思わないだろう。  それでも奈子は、担当の医者が驚くほどの回復力を見せていた。  もちろん人に言うことはできないが、これも魔法の賜物だ。こちらにいる時に使える魔力は微々たるものとはいえ、自分の身体に働きかけて回復を早めるくらいのことはできる。それに見舞いに来ているときは、由維も協力してくれている。  おかげで、当初の見込みよりもずっと早く退院できそうだった。  そうでないと困る。ベッドでじっとしている毎日というのは、奈子にとっては拷問に等しいのだ。 (あーあ、今回こそは勝てると思ったんだけどなぁ……)  ベッドの中で考える。  あの最期の一瞬、いったい何が起こったのだろう。  奈子が憶えているのは、内臓を引き裂かれるような痛みが走り、急に全身から力が抜けていったことだけだ。確かに美樹の手は身体に触れていたが、こんな重傷を負うほどの打撃を受けた記憶はない。 (……底の見えない人だな、あの人も)  美樹は、まだまだ奈子の知らない技を隠し持っているのだろうか。ならば、ルーシャ・チェルネンコと闘おうなどと考えても不思議はない。 (ほんとに勝っちゃうかもな、美樹さんなら)  美樹とルーシャの試合、できればセコンドに立って一番近くで見たいものだと思った。 (それにしても……)  退屈だ。  入院してまだ四日目なのだが、そろそろ忍耐力が限界に近づいている。  身体を動かしたい。  動き回りたい。  その気になれば少しくらいは歩けそうだったが、医者や看護婦に見つかったら怒られるだろう。それは昨日実験済みだ。顔なじみの看護婦に「また無理に動こうとするなら、ベッドに縛り付けるわよ。それとも奈子ちゃん、緊縛プレイって好き?」などと、いかにも本気でやりそうな笑みを浮かべて言われては、大人しくしているしかない。 (しゃあないな……)  もうしばらく、寝ているしかなさそうだ。  しかし、たまにはいいのかもしれない。こんな時でもないと、落ちついて考え事をする機会もない。  たまに、ゆっくりと考えてみる必要もあるだろう。  向こうの世界のことについて。  あの世界の成り立ち、歴史。  エモン・レーナやクレイン、あるいはレイナ。  ソレアやファージ。  それに……、アィアリス。  過去のこと。そしてこれから先……未来のこと。  記憶を整理し、ゆっくりと考える機会も大切にするべきかもしれない。      * * *  その星は、ノーシルと呼ばれていた。  大いなる大地――古い言葉で、確かそんな意味だ。  別に、神様が創った世界というわけではない。四十数億年前、奈子が住む地球と同じように、物理の法則に従って誕生した。  そして四十数億年間、地球と同じような……そして少しだけ違う進化の歴史を歩んできた。  海で最初の生命が生まれ、多様に進化し、やがて地上へ進出した。  両生類から爬虫類へ、さらに鳥類や哺乳類へと進化していく。  そして、霊長類が出現した。  他の生物に比べて極端に大きな脳と器用な手を持った動物、人の誕生だ。  最初、小さな集落を作って暮らしていた人間は、やがて大きな都市を築くようになる。今では『前文明』と呼ばれている、最初の古代文明である。  それが、およそ十万年前のこと。  しかしその文明は、大災害――おそらくは巨大隕石の衝突――によってすべて失われた。  地表は荒廃し、多くの生物は死に絶え、四十億年間積み上げてきたものの大半が失われれてしまったのだ。  それでも、すべての生命が滅びたわけではない。  地上が再び緑に覆われ、多くの動物たちが闊歩するようになるまでには数万年を要したが、この星は甦った。  わずかに生き残った人間たちも、また原始時代から新たな歴史を刻み始めた。  技術は進歩して、再び大きな都市が築かれるようになり、無数の国家が誕生した。  乱立する国々が争った戦国時代。  その中から、ゾーンやデイシアといった大国が精力を伸ばして大陸の覇権を握った前王国時代。  そして、ストレイン帝国とトリニア王国連合が大陸を支配していた王国時代……。  今から千五百年くらい前、デイシア帝国を滅ぼして大陸最大の帝国となったストレイン帝国が、大陸南部へその勢力を広げ始めた頃。  ストレイン侵攻の危機に晒されていたある小国の片隅で、一つの出会いがあった。  強大な帝国に対して無謀とも思える抵抗を続けていた小国モアの王子エストーラ・ファ・ティルザーと、黄金竜を駆る最初の竜騎士エモン・レーナ。  エモン・レーナが何者なのか、どういう意図でエストーラに力を貸したのか。それは誰にも分からない。  しかしエモン・レーナと彼女の竜は、モアへ侵攻したストレインの軍を蹴散らし、そしてエストーラやその従妹のクレイン・ファ・トームをはじめとする数人の仲間に、竜騎士の力を授けた。その者たちを中心として、やがてストレイン帝国に対抗する勢力となるトリニア王国連合が結成された。  古い歴史書には「エモン・レーナより竜騎士の血を授かった」と書かれている。その『竜騎士の血』が何を意味しているのかはわからない。しかし竜騎士の出現によって、大陸の歴史が大きく動き始めたことは間違いない。  それまで、竜が人間に干渉することはほとんどなかった。  竜は人間社会に干渉せず、そして人間から干渉されることを嫌っていた。  しかしこの時代から、一部の竜は人間と心を通わせ、共に闘うようになった。  王国時代とは、いわば竜騎士の時代である。  竜騎士の血筋は婚姻によって広まってゆき、人間たちの魔法技術は飛躍的に向上した。  その力によって文明はさらに進歩し、かつてない高みにまで達していった。  それが、王国時代だ。  この時代について、もっとも大きな疑問は二つあった。  一つはいうまでもなく、エモン・レーナの正体。  エストーラと出会う以前のエモン・レーナの経歴は、一切が謎である。  何処で生まれ育ったのか。  どうやって竜を従えるほどの力を身に付けたのか。  そして、どんな意図でエストーラたちの戦いに加わったのか。  何もわかっていない。  まことしやかに語り伝えられているのは「エモン・レーナは女神アール・ファーラーナの化身だ」という説だ。  アール・ファーラーナは、主として大陸南部で信仰されていたファレイアと呼ばれる神々の一員で、太陽神トゥチュと大地の女神シリュフの間に生まれた娘、戦いと勝利の女神とされている。  ファレイアを信仰する人々の間では古くから、彼らの国が危機に陥った時、アール・ファーラーナが人間の姿で降臨するという伝説があった。だからエモン・レーナが女神の化身と考えられたのも、自然なことといえる。 (エモン・レーナの正体か……)  それは、今の奈子にも分からない。ソレアやファージだって知らない。  真相を知っている者がいるとしたらおそらく、聖跡の番人で生前はエモン・レーナの親友だったクレインだけだろう。しかし彼女が口を割るとは考えにくい。 (クレイン……。彼女もなぁ)  聖跡――エモン・レーナの墓所を永遠に護り続ける不死の番人。  トリニア王国の公式な歴史において、クレイン・ファ・トームは最大の反逆者である。  青竜の騎士を指揮する将軍の身でありながら、ストレイン帝国と内通し、エモン・レーナを殺害した、と。  その罪によりクレインは処刑され、彼女の魂は罪を償うために番人として聖跡に封じられた、というのが一般に知られている歴史だった。  しかし、真相はかなり違う。  奈子は知っていた。  エモン・レーナは、自ら死を選んだのだ。  クレインは、唯一の家族である弟を敵に捕らえられ、引き替えにエモン・レーナの生命を奪うことを要求されていた。  トリニアとストレインのすべての竜騎士の中で、唯一クレインだけがエモン・レーナを凌駕する力を持っていた。エモン・レーナの力に手を焼いたストレイン帝国は、同じトリニアの竜騎士の手で彼女を葬ろうと考えたのだ。  当然クレインは、そんな要求を呑む気はなかった。彼女にとって弟は自分の生命よりも大切な存在だったが、それと同じくらい、エモン・レーナとトリニア王国も大切だった。  だから敵の要求を無視し、弟を救うために単身敵地に乗り込もうとしたのだ。  それを引き留めたのがクレインだ。自分の生命と引き替えにして、弟を助けるように、と。  その代わりクレインは、永遠に聖跡を護り続けるように、と。  そう言って、エモン・レーナは自ら命を絶ったのだ。 『この国で、私がやるべきことはもうない。これからのトリニアには、私の力は必要ない。私が、クレインやエストーラのためにしてあげられることは、もうないの』  それが、エモン・レーナの最後の言葉だった。 (いったい……?)  確かにエモン・レーナは、普通の人間ではなかった。  誰よりも高いところから人間たちを見下ろしているような。そんな雰囲気があった。 (だからって、女神の化身ってことはないだろ?)  たとえ向こうが『剣と魔法の世界』であったとしても、神などというものの存在を、奈子は信じていなかった。  エモン・レーナだって、人間の筈だ。  ただ、その意図が読めないだけだ。  エモン・レーナの墓所である聖跡は、今も大陸の歴史を見守り続けている。生きている人間たちが紡ぐ歴史に干渉することなく、ただ見守っているだけの存在。 (そう。エモン・レーナは最初から、観察者だったんだ。エストーラたちの戦いに手を貸したことこそが、気まぐれだったとしたら……)  見守る者。  いったい何のために?  いったい何を見届けようというのだろう。 (近いうちにもう一度、聖跡に行ってみるか……)  他に、答えの見つかりそうな場所はない。 (これからのトリニア王国には、私の力は必要ない――エモン・レーナはそう言ったんだ。そして、その言葉は正しかった……)  エモン・レーナとクレインの死後もトリニアの勢力は衰えることはなかった。  それから五年。多くの犠牲を払ったものの、トリニアはストレイン帝国を攻め滅ぼした。  以後四百数十年の間、トリニアこそが大陸の覇者だった。  ストレイン帝国の残党の一部は遙かな北の地へと逃れ、そこで後ストレイン帝国を興すのだが、その勢力が再びトリニアと肩を並べるようになるには、四百年以上の時間が必要だった。  トリニア王国の衰退。その原因の一つに、ファージの存在が挙げられる。  ファーリッジ・ルゥ・レイシャ。  たった一人で、トリニアの青竜の騎士十一人を殺した『金色の瞳の悪魔』。  彼女は……。彼女こそ、人間ではなかった。  人の姿をした、しかし人とは異なる遺伝子を持つ存在。  一人の狂った魔術師が生み出した魔法生物、ドール。  その当時、トリニアの青竜の騎士は定数三十二名のところ二十九名しかおらず、そのうち十一人がファージによって殺された。そして結局、ストレイン帝国との戦争が始まるまで、青竜の騎士が定数を回復することはなかった。  その間にも、後ストレイン帝国は着々と勢力を増しつつあった。  そして千年前……王国時代最後の大戦が始まった。  トリニア王侯連合と後ストレイン帝国の、総力を賭けた戦い。  王国時代に飛躍的に発達した魔法技術のすべてを注ぎ込んで。  大陸全域を焦土と化すほどの激しさで。  屍の山を築いていった。  王国時代の竜騎士の力。それは、奈子の世界の核兵器にも匹敵するほどのものだった。  一撃で砦を破壊し、都市を焼き尽くす力。  世界を滅ぼすことのできる力。  そして実際にその時代、世界は滅びに瀕していた。  その、王国時代末期に活躍した竜騎士として、トリニアのユウナ・ヴィ・ラーナ・モリトと、ストレインのレイナ・ディ・デューンの名が挙げられる。  血を分けた実の姉妹でありながら、生命を賭して戦った二人。  エモン・レーナやクレイン・ファ・トームに次いで強い力を持ち、そして謎の多い二人。  二人は幾度も戦場で刃を交わし、そして、レイナだけが生き残った。 (彼女たちはどのくらい、知っていたんだろう。あの世界の、秘められた歴史について……)  ユウナは若い頃の数年間、友人の魔術師フェイシア・ルゥと共に大陸を旅して、様々な遺跡を探索していたという。そして、その知識はレイナが受け継いでいる。  そしてレイナは……。  何かを、知っていたはずだ。  だから、大戦を生き延びた竜騎士たちに生命を狙われた。 (……だめだ、思い出せないや)  レイナは、大戦を生き残った数少ない竜騎士の一人だ。  あの大戦を生き延びた竜騎士は本当にわずかしかいない。いや、そもそも大戦とそれに続く冬の時代を生き延びた人間は、王国時代全盛期の何分の一かでしかない。  惑星の気候すら変えてしまった大戦。  数百年も続いた暗黒の時代。  人類が滅亡するかもしれなかった時代。  その中で生まれた『墓守』という存在。  竜騎士の力を否定し、それを封印しようとした者たち。  その末裔がソレアであり、ファージは半ば強制的に墓守に協力させられている。 (墓守……『力』と『知識』を封印する者。だけど……『力』を捨て去ることは良しとしなかった)  だから、レイナを殺そうとした。 (あれ……? そういえば、何故だ?)  何故、レイナと墓守たちは対立していたのだろう。  レイナは、いったい何をしようとしていたのだろう。 (……思い出せない。まだ、記憶が曖昧な部分があるな……)  思い出そうとすると、頭が痛くなってくる。  ずきずきと、頭の芯から響いてくるような痛み。 (ちょっと待て……思い出すって、いったい何の話だ? いったい何を忘れているっていうんだ? いったい何を……知っていたんだ?)  わからない。  わからない。  思い出せない。  頭が痛い。  これ以上考えられない。 (ダメだ……。寝ちゃお)  奈子は、また眠りに落ちていった。  そして久しぶりに、レイナの夢を見た。      * * * 「どう、具合は?」 「ん、もう元気」  奈子は笑って応えた。  外科病棟の顔なじみの看護婦、広瀬真由美が体温と血圧を測っている。 「だからさ、ちょっとくらい散歩してきてもいいでしょ?」 「なに言ってるの」  奈子の額を人差し指で弾く。 「一昨日まで集中治療室に入っていた人間が」 「今はもう元気だもの」 「だからって」 「もう、じっとしてるの飽きたんだよー」  奈子は手足をばたばたと動かす。  真由美はため息をついた。 「もう少し、自分を大切にしなさいよね。一応女の子なんだから」 「一応、ってのが引っかかるけど」 「一応って言われたくなかったら、少しは女の子らしく、大人しくしたらどう? それともホントにベッドに縛り付けられたい? 私はそういうの、けっこう好きよ」 「真由ちゃんが言うと、冗談に聞こえないね」  真由美は、小柄なくせに豊満な肉体の持ち主である。それで白衣を着ているのだから、いつも必要以上の色気を振りまいていた。 「もちろん、冗談じゃないもの」 「……って、真由ちゃん?」  真由美の身体が覆いかぶさってくる。大きくて柔らかな乳房が、二人の間でぐにゃりと形を変える。 「……マジ?」  奈子の額に冷や汗が浮かぶ。 「奈子ちゃんみたいな気の強い女の子をネコにするのが、いちばん興奮するのよねぇ」  目が本気だった。  以前から、身体に触れてくることが多いとは思っていた。しかしそれは単なるスキンシップだと思っていたのに。  まさか、彼女までが「そっちの趣味」の人間だったとは。  こういうことがあると、奈子は悩んでしまう。  どうして自分の周りには、そんな女性が多いのかと。 (類友……?)  できればそれは考えたくないが。 「……え〜とぉ……、病室でこーゆーことするのって、マズイんじゃないかなぁ? 真由ちゃん、まだ勤務中でしょ?」 「いいわよ、少しくらい。ここは個室なんだし」  真由美の顔が近付いてくる。 「あ、アタシの意志は?」 「そんなもの無視。陵辱ってのはそういうものでしょう?」 「ちょっ……」  ちょっと待って――そう叫ぶ間すら与えられなかった。  唇が重ねられる。  同時に、手がパジャマの中に侵入してくる。 「ちょっと、それ、マジでシャレになんないって!」 「だからシャレじゃないと言ってるでしょ? 私、前からこういうチャンスを狙ってたのよね」  人差し指が、奈子の下着の上を滑っている。一、二回往復して、一番敏感な突起の上で止まった。  そこで小刻みに、振動するような動きを始める。 「ん……っ、ちょ……ヤダ……。お風呂入ってないし……」 「先刻、身体拭いてあげたでしょう? それに、奈子ちゃんの匂いなら大好きよ」 「そんな……っ」  かなり、マズイ状況だった。  意志に反して、身体が反応し始めている。  真由美は、かなり同性との経験が豊富なのだろうか。攻めのポイントが的確だ。  しかも、今の奈子は正直に言って、かなり「溜まっている」状態だった。  入院していては、ファージはもちろん由維や亜依ともエッチなことはできないし、個室とはいえ病院でひとりエッチをするのもはばかられる。その上、運動することもできないとあっては、欲求不満になって当然だ。 「や……ぁ……、ダメ……だって」 「とか言って、感じてるくせに。入院のせいで欲求不満なんでしょ?」  見透かされている。さすがは看護婦、というべきなのだろうか。 「や……ん……くっ、ん……」  声が漏れそうになるのを必死に堪える。  本音を言えば、奈子はエッチなことが大好きだ。真由美のことも嫌いではない。  だからといって、真っ昼間の病院で、しかも看護婦さん相手にというのはさすがに抵抗がある。 (マズイよ……これ)  このシチュエーション、あまりにも問題が多すぎる。 「ね、今は止めよ? 由維が見舞いに来たら大変だし……」 「奈子ちゃんの彼女? 寝てる間に来てたわよ。だから今日はもう安全。今やらないでいつやるっていうの」 「そんなぁ……」  ああもう、いったいどうすればいいのだろう。  このまま、真由美と最後までしてしまうのだろうか。 (それも、ちょっといいかも……。なんて考えるから、アタシはダメなんだよ!)  自分のいいかげんさに腹が立つ。  なのに、身体は反応してしまうのだから困ったものだ。自分の意志とは無関係に湧き上がるこの衝動、なんとかならないのだろうか。 (誰か、助けてー)  そんな心の叫びが通じたのかどうか。  奈子でも真由美でもないもう一つの声が、病室に入ってきた。 「見ぃちゃった」  それは、聞き覚えのありすぎる声だった。  由維の声の次くらいに。 「あ、亜依ぃぃっ?」  病室の入口に、亜依が立っている。小さな花束を持っているところを見ると、お見舞いに来てくれたのだろう。 「奈子ってば、まぁた浮気してるんだからぁ」  自分もその「浮気相手」の一人のくせに、皮肉めいた口調で言う。  しかし、助かったのは事実だ。  さすがの真由美も人前で行為に及ぶ気はないようで、乱れた白衣を整えると、ばつが悪そうな笑みを浮かべて病室から出ていった。  もっとも、奈子から離れる前に「また後でね」なんて言っていたから油断はできない。  亜依と二人きりになって、今度は奈子が気まずい思いをする番だった。  やや呆れた表情で、亜依がこちらを見ている。 「いくら何でもまずいんじゃない? これ以上浮気相手を増やすのは」 「わかってるよ! あれは真由ちゃんが無理やり……」 「そうかなぁ? 奈子ってば感じてたみたいだったけど」 「そ、それは……」  奈子の反応を確かめるように、亜依の手が下腹部に触れてくる。  そんなことをされては、真由美の指で点火された炎がさらに燃え上がってしまう。 「ちょ……、止めてよ!」 「やっぱり濡れてる。由維ちゃんに言っちゃおうかなぁ?」 「お願いだからそれだけは」  入院中に看護婦さんと浮気していたなんて知られたら、どんな仕打ちが待っているやら。  考えるのも怖い。 「口止め料は?」 「って、まさか……」 「その、まさか。途中で止められたら奈子も辛いでしょ?」  亜依の唇が、触れる寸前まで近付く。 「浮気の口止め料で、どうしてまた浮気しなきゃなんないの!」 「いいじゃない。私とのことは由維ちゃんも知ってるんだし」 「知ってるのと承諾してるのとは違うって!」 「いいからいいから」  否応なしに唇が重ねられる。  舌が、唇を割って侵入してくる。  さすがに今度は、どこからも救いの手は差しのべられなかった。      * * *  奈子が入院してしまったので、その間は由維も向こうに行けずにいた。  昨年のあの事件以来、決して一人では行かないことにしている。あの後ファージが転移魔法に改良を施して、同じような罠を張ることはできないという話だったが、万が一ということもある。  奈子を傷つけたことには由維にも責任があるのだから、同じ過ちは繰り返せなかった。  本音を言えば、向こうへ行きたい。  まだ、調べたいことはいくらでもあるのだ。  しかしそれは、奈子の退院まで待たなければならないだろう。  だからその夜は仕方なく、向こうから持ち帰った書物を研究していた。  あの時、アルンシルから持ち帰ったたくさんの書物。  ソレアやファージには内緒で、ずっと一人で調べていた。  内容は、ドール――人造の魔法生物――に関するものが多いようだ。あそこはドールの研究施設だったらしいから当然だろう。王国時代の歴史などに関する書物はほとんどなかった。  書物の他にも、持ち帰ったものがある。  数枚の、透明な鉱石でできた小さな薄い板。  顕微鏡のスライドグラスにも似ているが、ガラス製ではなくもっと硬い鉱物らしい。  何に使うものかわからないが、大切に金属製の箱にしまってあったところを見ると、かなり大切な物なのだろう。  光に透かして見ても、何の模様もない。長辺が五センチちょっとの、ただの透明な長方形の板だ。 「わかんないなぁ。いったい何だろう? きっと、何か秘密があるんだろうけど」  ベッドに仰向けになって、蛍光灯に透かして見る。そうすると、光の屈折率がガラスとは幾分違うのがわかる。  その時、突然に。 「あ?」  明かりが消えた。  室内が真っ暗になる。 「もぉ、こんな時にブレーカー?」  蛍光灯だけではなく、テレビのスタンバイ電源もビデオの時計表示も消えている。  だから、家のブレーカーが落ちたのかと思ったのだが、どうも様子が違う。  部屋の中が、不自然に暗かった。  たとえ部屋の明かりを消したとしても、街灯や近所の家の灯りで窓の外は幾分明るいのが普通だ。  立ち上がって、カーテンの隙間から外を覗いてみる。  外も真っ暗だった。どうやら停電らしい。 「珍しいな、今時」  事前の連絡がなかったのだから、突発的な事故に因るものだろう。外は嵐でもないのに珍しいことだ。  すぐに復旧するか、と思ってしばらくじっとしていたが、明かりがつく様子はない。  由維は肩をすくめると、小さな声で呪文を唱えた。  手の中に、小さな魔法の明かりが生まれる。  あまり明るいと家族に見つかるかもしれないので、ごくごく小さなものだ。そもそも、こちらにいる時はロウソク程度の明かりを生み出すのが精一杯なのだ。 「こんなものでも、ないよりはマシだよね」  それでも、この程度の明るさで向こうの文字を読むのは骨だ。由維はまた、ベッドにごろりと横になる。  顔の上に、オレンジ色をした魔法の明かりがふわふわと浮かんでいる。  その明かりに、先刻と同じように鉱石版を透かしてみた。  すると……。 「え? なにこれ?」  由維は慌てて飛び起きた。  もう一度、手の中の鉱石版をまじまじと見つめる。 「これは……」  大変な発見をしたかもしれない。  心臓が激しく脈打っている。  鉱石版を壁に向けて、その手前に魔法の明かりを置いた。  スライドを投影するかのように。  すると思った通り。  白い壁には、細かな記号らしきものがびっしりと映し出されていた。      * * *  月の女神ホル・チュは、一人で寂しく夜空を照らしていた。  人間たちはそれを不憫に思い、そのことを太陽神トゥ・チュに訴えた。  トゥ・チュはその願いを聞き入れ、ホル・チュに三人の妹を与えてやった。  しかし、人間たちも神々も、見落としていたことがあった。  一人きりということは、逆に言えば誰とも争わずに済むということだと。  やがて、女神たちの間で争いが起こり、末の妹が大地を滅ぼした。  それは、向こうの世界の古い神謡の一節だ。  ふと、奈子の頭に浮かんだ。  以前、何かの本で目にしたものだろう。 (そうだな。そのうちに……)  こうした神謡や神話、古い民間伝承について調べてみるのも面白いかもしれない。  これまでは、学者が編纂した歴史書ばかりを読んでいたから。  そんなことをぼんやりと考えていると、病室のドアがノックされた。 「元気そうだな」  奈子の返事も待たずに入ってきた人物は、開口一番そう言った。  むしろ、そう言う彼女の方が怪我人に見えるかもしれない。いや、事実怪我人なのだ。北原美樹は。  まだ、身体のあちこちが包帯や絆創膏で覆われ、顔や腕には痣が残っている。  ダメージは主に内臓に受けている奈子に対して、美樹の方が外傷は多い。それに第一、美樹の方が受けた打撃は多いのだ。 「もう、退院したんですか?」  奈子が訊く。美樹のダメージだってかなりのものなのに、大した回復力だ。 「退院してきた。退屈だから」  美樹は笑って言うと、ベッドの縁に腰を下ろす。奈子も上体を起こした。 「アタシも退院したいなぁ。もう元気なのに、なかなか許しが出なくって」  奈子の方が重傷には違いないが、その分、魔法による治療も施している。  しかし医者はそんなことを知る由もないから、どうしても対応が慎重になってしまうのだ。 「ま、しっかり治すことだな。一つ間違えば死ぬとこだったんだから」 「てゆーか、そんな危険な技使わないでくださいよ」 「仕方ないだろ。ギリギリまで手加減してもああなんだから」 「手加減してアレ? いったい、なんなんですか?」  奈子はいまだに、どんな技で倒されたのかわかっていなかった。そんな強力な打撃を受けた覚えはないのだ。 「水冥掌。名前くらいは聞いたことあるだろ?」 「水冥掌?」  奈子は驚いて、目を見開いた。 「あれが、水冥掌なんですか?」  確かに、聞いたことはある。  極闘流にはいくつか、表に出ない危険な技があるという。門下生の間では公然の秘密だ。  水冥掌はその中でも、最高機密に属するものだ。それを身に付けている者は、総帥の北原道元や美樹を含めても、片手で数えられる程度だという。  何故、水冥掌を門外不出の技とするのか。  それは、極闘流が常に実戦を想定しているからだ。  だから、水冥掌は文字通りの『必殺技』でなければならない。  この世には、絶対無敵の技など存在しない。それがどんなものであれ、一度見せてしまえば相手は対策を練ることができる。  そうさせないためには、殺すしかない。その技を使う以上、相手を生かして帰してはならない。  それが、水冥掌なのだ。  その技を知らない相手であれば、確実に倒すことができる技。  奈子も、名前だけは聞いたことがある。もちろん、どんな技かは一切知らない。  しかしあれが水冥掌だとしたら、精一杯手加減しても奈子を病院送りにできるというのも納得だ。 「でも、何故それをアタシに?」  危ないところではあったが、奈子はまだ生きている。手加減したということは、奈子を殺す気はなかったということだ。  まさか今日、とどめを刺しに来たわけではあるまい。 「もう、他に教えられることもないからな。退院したら練習しておけよ。どういう技かは、喰らってみてわかっただろ」 「いや、よくわかんなかったですけど」  何をされたか理解する前に、意識を失っていた。 「想像はできるだろ?」 「掌……ですか?」 「ああ」  美樹はうなずくと、奈子の胸と脇腹に掌を当てた。 「狙うのは、肺、心臓、肝臓。あるいは……脳。意味が分かるか?」 「血管が集中する器官、ですね」 「そうだ」 「二ヶ所同時に?」 「その通り」  それだけ聞けば見当はつく。水冥掌が、どんな原理で内臓にダメージを与えるのか。  しかし「練習しておけ」と簡単に言われても、修得は難しそうだった。本当に人間技だろうか。  血を吐くような稽古をしても、果たしてものにできるのだろうか。  そもそも、そうまでして身に付ける必要があるのだろうか。  それは、人を殺すための技なのだ。 「どんな凶悪な技だって、憶えてはおくべきだ。どこで役に立つかわからないからね」  奈子の心を見透かしたように、美樹は言った。 「それを実際に使うかどうかは本人次第だけれど、自分が死ぬよりはいいだろ?」  その表情は、驚くほどに穏やかだった。 三章 レーナ遺跡 「行けども行けども、見えるのは灰色の土ばかり。こんな変化のない風景、もう飽きちゃったよぉ」  馬の背に揺られながら、由維は唇を尖らせた。  しかし前を行く奈子は無言で、振り返りもしない。  二人は今、マイカラス王国の南部に広がる砂漠の中にいた。      * * * 「ゴールデンウィークはさ、久しぶりにちょっと長く向こうへ行こうと思うんだけど、いい?」  退院してきた奈子にゴールデンウィークの話題を持ちかけたところ、そんな返事が返ってきた。  もちろん、由維に異存のあるはずがない。 「だったら私、行きたいところがあるんですけど」 「どこ?」 「マイカラス」  由維はまだ、マイカラス王国へ行ったことがなかった。奈子から話は聞いて、ずっと行ってみたいと思っていたのに、なかなか機会がなかったのだ。  あれ以来、向こうへ行く回数がめっきり少なくなったことも一因ではある。  だけどやっぱり、一度くらいは行ってみたい。  マイカラスの国土そのものにはさほど興味はないが、会ってみたい人物は多い。  奈子に気があるという美形の王ハルティ・ウェルや、その妹でやっぱり奈子のファンのアイミィ。それに奈子のライバルともいうべきダルジィなど、興味は尽きない。 「ちょうどいいや。アタシもそのつもりだったんだ。もうじきアイミィの誕生日のはずだし、その前にちょっと行きたいところもあったし……」  奈子の家でそんなやりとりが行われたのが、数日前のこと。      * * *  そして今、二人は砂漠の中にいる。  マイカラスの王都へ転移した奈子は、そのまま王宮へ行くと思っていた由維の予想を裏切って、王都に住む知り合いの魔術師に、馬の調達を頼んだのだ。  そして、王都から南に向かった。  それも街や街道から外れて、砂漠のまっただ中に。  家を出る前、キャンプ道具や携帯食を準備していた理由がようやくわかった。  行く先について、奈子は何も言わない。  考えてみれば、こちらに転移する前から奈子の様子は少しおかしかった。  口数が少なくて、何か考えているというか、思い詰めているような様子で。  由維にはただ、ついてくるようにとしか言わなかった。  なんとなく質問をするのがはばかられるような雰囲気があって、由維は大人しくその言葉に従っていた。  由維も一応、馬には乗れる。  奈子の母親が乗馬を趣味にしていて、よく、奈子と一緒に由維も乗馬クラブへ連れていってもらっていたからだ。  とはいえ、まる一日中馬の背に揺られているというのはけっこう疲れるものだ。普段使わない部分の筋肉が疲労して、夕方には身体が固まってしまっていた。  王都を出発して一日が過ぎると、もう周囲には灰色の地平線だけが広がっていた。日本で生まれ育った由維には初めての光景だ。  人家はもちろん見当たらないし、街道から外れているから旅人や隊商の姿もない。  大型の獣の姿もない。  あるのはただ灰色の土と岩、そして所々に生える灌木だけ。  砂漠と聞いて日本人が普通に思い浮かべるのは、サハラ砂漠に見られるような灼熱の大砂丘だろうか。しかし、そのイメージとはずいぶん違う。  空気は乾燥しきっているが、気温はそれほど高くはない。  地面は砂よりも土や岩の部分が多い。  そして、疎らに生える植物はどれもサボテンに似ているか、そうでなくとも枝に鋭い棘を生やしていた。  砂漠といってもアフリカではなく、南米のそれに近い光景だろうか、と由維は考える。テレビで見たことのある風景は、ペルーだったかアルゼンチンだったか。砂漠でありながら、どこか寒々とした印象を受けた。  マイカラスの緯度はかなり低いはずだが、ここは標高の高い台地の上になるので、気温はあまり高くならないのかもしれない。奈子がぽつりぽつりと話してくれたことによると、この辺りは一年中このくらいの気温で安定した気候らしい。  緯度の割に気温が低いのは、標高が高いことと、東の山脈から乾いた涼しい風が吹いているためだそうだ。  それにしても、奈子はいったいどこへ行こうとしているのだろう。  特に目印もない荒野の中だというのに、地図も磁石も見ることなしに迷う様子もない。  ただ黙って、どこかを目指している。  由維は黙ってついて行くだけだ。  夜は、当然野宿になる。持ってきたテントを張り、キャンプ用のガソリンストーブで夕食を作った。  こんな砂漠の真ん中で出会う人間はいないから、向こうの道具を使っていても問題ない。  本来ならば調理の熱源も魔法で済ませられるはずだが、こちらの生まれではない由維では、まだ細かな火力の調整ができなかった。かといって奈子に任せたら、鍋ごと消滅してしまう危険がある。  青天井といってもいい奈子の魔力だが、その分、下限も並の人間よりずっと上にある。しかも、細やかな制御に関しては由維よりも下手だ。  使用頻度の高い照明の魔法などであれば、奈子も由維もかなり上手に扱える。しかし調理となると普段はソレアに任せっきりだし、そもそも奈子にはその才能がない。 「ヒマをみて、魔法での調理も練習した方がいいかなぁ」  ベーコンとレンズ豆を煮込んでいる鍋をかき混ぜながら、由維はつぶやいた。  ソレアの手並みを見ている限り、慣れれば電子レンジ並のことは魔法でできそうだ。自分でもできれば便利だろう。 「でも、考えてみればこっちでキャンプってのも楽しいですね。夏休みとか、うんと時間のある時に二人でこっちの世界を旅するって、どうです?」 「そうだなぁ。そういうのもいいかもね」  応える奈子は、由維の方を見ていない。時計とにらめっこしながら、スパゲティを茹でる鍋を見張っている。  茹で上がったスパゲティをオリーブオイルとニンニクで軽く炒め、それにベーコンと豆を煮込んだソースをかける。それが今夜のメインディッシュだった。  夜はテントの中で寝る。  人を襲う肉食獣がいる世界だが、魔法で結界を張れる分、むしろ北海道の山中よりも安全かもしれない。いくら奈子でも、生身で羆とは闘えない。  二つの寝袋を一つにつなげて、二人は寄り添って寝た。  家にいる時も、いつも一つのベッドで寝ているのだから、そうするのが自然だった。  夜の砂漠は、本当に静かだ。植物が少ないから、虫の音も聞こえない。  獣の声もしない。  耳に届くのは、微かに、風がテントの表面を撫でる音だけだ。  静かすぎて、由維はかえって寝付けなかった。 「奈子先輩……」 「ん?」  眠っているかとも思ったが、名前を呼ぶとすぐに返事があった。奈子は本来「静かすぎて眠れない」なんて繊細さとは無関係なはずだが。 「これから、どこへ行くんですか?」 「いいから、ついておいで」  何度もした質問。  そのたびに同じ答え。  こちらに来てから、何度同じやりとりを繰り返しただろう。 「怖いの?」 「べ、別に……」  その言葉は、完全に真実とは言えなかった。  別に、行き先がわからないことが怖いわけではない。  ただ、こちらに来る前から奈子の様子がいつもと違うことが気になるのだ。  口数が少なくて。  あまり笑顔を見せない。 「ん……」  不意に、腕が肩に回された。  そのまま、奈子の方へと抱き寄せられる。  身体がピッタリと密着すると、奈子の体温が、匂いが、より強く感じられた。  生まれた時から傍にあった温もり。  一番好きな匂い。  不安な時も悲しい時も、それに包まれていると安心できる。 (やっぱり、奈子先輩だよね……)  そうしてようやく、由維は眠りにつくことができた。  周囲の様子が変わってきているのに由維が気付いたのは、三日目の夕方近くだった。  何が、と訊かれてもうまく説明できない。  土の色は、初めの頃と少し違っている。王都近くの灰色がかった土から、もっと赤茶けた色に。  とはいえ、それが違和感の原因ではない。  土の色以外、周囲の風景に大きな違いはない。  しかし、なにか気配が違う。空気そのものが持つ色、とでもいうのだろうか。  周囲に、なんらかの魔法が働いている。  結界とは違うようだが、しかし、何かを封印しているような。  太陽は、遠い山の稜線の陰に隠れようとしている。  二人の影がどこまでも長く伸びている。  奈子は馬を止めると、手綱を近くの岩に結んだ。由維もそれに倣う。  しかし、荷物を下ろそうとはしない。ということは、ここで野営するために止まったのではないということだ。 「少し前まで、ここには王国時代の大きな遺跡があった」  ゆっくりと歩きながら、奈子はぽつりと言った。  独り言のような話し方だったが、由維に向けられた言葉であることは間違いない。 「少し前って……」  いったい、どのくらい昔のことを指しているのだろう。  いま見る限り、そんな遺跡の痕跡などどこにもない。  だとすると、少なくとも数百年くらいは昔なのだろうか。それでも地質学的な時間の尺度から見れば、充分に「少し」の範疇に入る。  しかし、由維の考えはまったく的を外していた。 「まだ、二年も経っていない」  そう言った。だとすると、奈子が初めてこちらに来た頃、まだ遺跡はあったということだ。  今はただ、赤茶けた地面が広がるだけのこの土地に。 「ファレイアの神々を祀る神殿。その地下には、もっと古い神殿の遺跡があった。ストレイン帝国……あるいはデイシア帝国の時代の、ランドゥの神殿。ファレイアの神殿は、古い神殿を封印する意味で建設された」 「え……?」  どこかで、聞いたことのある話だった。それがどこでだったかを思い出すよりも先に、奈子が言葉を続けた。 「ここで、生まれて初めて、この手で人を殺した」 「――っ!」  由維は息を呑んだ。  奈子はどこか悲しそうな表情で、自分の手を見ていた。  聞いたことがあるはずだ。ここは奈子が二度目にこちらへ来た時に、エイクサム・ハルがファージを殺そうとした場所なのだ。  ファージの仇を討とうとしていた奈子は、エイクサムの仲間のリューイという男とここで闘い、そして殺している。  その頃ここにはオアシスがあって、森に覆われていた。  しかし最終的にはファージが神殿を完全に破壊して封印し、今はただ荒野が広がっているだけだった。 「ここで……」  ここから、始まったのだ。  最初のファージとの出会いは、まったくの偶然。一度きりの、いわば不測の事故といってもいい。  しかし二度目からは違う。明確な意志が働いていた。  ここでファージを殺され、その仇を討つことを決心して、自分の意志で三度この世界を訪れた。  そして、人を殺した。  そうして奈子は、この世界と深い関わりを持ってしまった。  一つの生命をその手で奪ったことを、忘れてはいけない。  しっかりと受け止めなければならない。  例えば、もしもあの後こちらへ来なければ、やがて記憶は風化してしまっただろう。  しかし奈子は、自分がしたことに正面から向き合うことを選んだ。  昨年十月のあの忌まわしい、そして取り返しのつかない事件も、奈子が自分で選んだ結果なのだ。 「……だから、ここに?」 「由維に、見て欲しかった」 「奈子先輩……」  他に、何も言えなかった。  由維はただ黙って、赤茶けた荒野を見つめていた。  二年前、生命のやりとりが行われた場所を。 「それともう一つ、目的はあるんだけどね」 「え?」  奈子は目の前の地面を指差す。 「ここには、古いランドゥの神殿があった。トリニア王国はそれを封印するために、上にファレイアの神殿を建設した。だけど、デイシア帝国の時代からこの辺りはほとんど住む者もいない辺境だったんだ。なぜ、そんな土地にそんな大きな神殿を築いたりしたんだろう?」 「えっと……」  奈子がちらりとこちらを見た。その目を見てわかった。  今の言葉は問いかけではない。答えを知っているのだ。 「ランドゥの神殿も、封印するためのものだったんだ。もっともっと古い遺跡を……ね」 「もっと……古い遺跡? デイシア帝国の時代の?」  奈子は首を横に振る。 「もっと昔」 「じゃあ、王国時代以前の戦国時代?」 「もっと……さ」  奈子が右手を高く挙げた。その手の中に、一振りの剣が現れる。  剣を逆手に握って、腕を真っ直ぐ前に突き出す。  鋭い目で、眼前に広がる荒野を見つめていた。 「目、瞑って」 「え?」  奈子の忠告は間に合わなかった。不意に、視界が真っ白になる。  反射的に目を閉じたが、そんなことくらいではこの光を遮ることはできなかった。由維は両腕で目を覆った。  光は一瞬で消えた。  音は、何も聞こえなかった。  しかし瞼を開いた時、目の前の光景は大きく様変わりしていた。  直径二、三百メートル、深さ数十メートはあるだろうか。深いすり鉢状のクレーターが穿たれていた。  今の奈子の魔法が、それだけの土を消滅させたのだろうか。凄まじい力だ。  奈子が強力な魔法を使うところを見るのは、トゥラシを消滅させた時以来だった。 「奈子先輩……?」  いったい何のために、こんなことをしたのだろう?  訝しげに隣りを見ると、奈子はクレーターの中央を指差していた。  そこにはまた、別な穴があった。深い井戸にも似た、垂直な縦穴のようだ。 「さ、行こう」  奈子は剣をしまうと、クレーターの斜面を下り始めた。由維もわけが分からないまま、その後に続く。かなり急な斜面だ。これでは昇る時に苦労するだろう。  底にある縦穴は、縁に立ってみると遠目に見るよりも大きな、そして異質なものだった。  直径はおよそ三十メートル強。完全な円形で、壁は滑らかだ。  明らかに、人工のものだった。  穴の壁には螺旋階段が刻まれている。どこまで続いているのか、この薄暮の下では底は見えない。 「……まさか、降りるんですか?」 「降りるよ。そのために来たんだから。一緒に来るでしょ?」  奈子の手の中に、魔法の明かりが生まれる。本当に、降りるつもりらしい。 「何ですか、ここ?」 「……レーナ遺跡」 「レ……何?」  しかし奈子は答えずに、階段を下り始める。 「……、待って」  やや躊躇いはしたが、由維はついていくことにした。  何故か、奈子一人で行かせるのは不安だった。  そのまま二度と帰ってこないのではないか……そんな気がして。  地底へと続く深い穴には、人をそんな不安に陥れる何かがある。  壁に刻まれた螺旋階段は、二人が並んで歩けるほどの幅はない。由維はできるだけ壁側に寄って、奈子の後ろをついていった。  別に高所恐怖症というわけではないが、底が見えない垂直な穴の縁ぎりぎりを歩く趣味もない。  階段はしっかりとしたものだった。古い遺跡、と奈子は言っていたが、とてもそんな風には見えない。  白っぽい滑らかな壁は、金属でも石でもなくて、陶器――セラミックのような手触りだった。壁にも、壁と階段の間にも、継ぎ目はまったく見あたらない。  焼き物であるセラミックは、窯よりも大きく作ることはできないはずだから、実際にはコンクリートに似た材質なのかもしれない。  このことから、これが普通の王国時代の遺跡ではないことがわかる。王国時代の建造物も、千年以上も前に造られていながらほとんど風化の痕は見られないが、それは魔法で処理した石を組み合わせて造るのが普通だ。王国時代の遺跡でこんな材質は見たことがない。  二人の足音以外、何も物音はしない。  一言も口をきかずに、無限に続くかと思われるような階段をただ降りていく。今は下りだからまだいいが、これを登る時のことは考えたくない。  上を見上げると、丸く切り取られたような空が小さく見えていた。もう、気の早い星が瞬き始めている。  どのくらい降りただろう。由維は千段を越えるあたりまで数えていたが、それでも底に着く気配がなかったので止めてしまった。一段二十センチとしても二百メートルだ。  これだけ下ったのに、気温は地上とほとんど変わっていないように思えた。もっとも、運動して体温が上がっているから、体感温度はあまり当てにならない。  ようやく底に着いたのは、それからまたかなり歩いた頃だった。多分、五百メートルくらいは下ったのではないだろうか。  登山ならば別に大騒ぎするような高さではないが、奈落に通じているような穴の縁を歩き続けるというのは、体力以上に精神の消耗が激しい。  ようやく着いた穴の底で、由維は座り込んでしまった。  底の部分は平らで、壁と同じ材質だった。ただし、磨いたように滑らかな壁と異なり、床には一面に複雑な模様が刻まれている。  それはまるで、大きな魔法陣のようだ。実際、なんらかの魔法の力を感じる。そもそも、この世界でこれだけのものを築き、維持するには、魔法の助けが不可欠だろう。  床にはうっすらと埃が積もっているが、この場所の古さを考えれば「掃除は行き届いている」と言ってもいいような状態だった。ただし、ここには生命の気配はない。  周囲を見回すと、ちょうど正三角形を描くような位置に三カ所、横穴があった。ごく普通の、廊下くらいの大きさの通路だ。どこへ通じているのだろうか。 (三……みっつの……三角形を描くような……)  何か、引っかかる。  それを考えながら立ち上がって、お尻についた埃を払い落として。 「奈子先輩、ここって……」  そう言いかけたところで、続く言葉が出なくなった。  奈子が見ているものに気付いたから。  この穴の底いるのは、奈子と由維の二人だけではなかった。  奈子の視線の先、三つある通路の一つの近くに、人影があった。  いつからいたのだろう。まったく気配を感じなかったが。いや、それを言ったら、こうしてその姿を見ていても、不思議なくらい存在感が感じられない。  髪の長い、美しい女性だった。装飾のない、シンプルな白いドレスをまとっている。  年齢はよくわからない。奈子よりも年上なのは確かだが、二十歳から四十歳までのいくつであってもいいように思われた。  真っ直ぐに、奈子と由維を見ている。  由維は、誰かに似ているように思ったが、それが誰であったかは思い出せなかった。  奈子の様子を窺うと、特に驚いた様子もなく、その女性をじっと見つめている。相変わらず、何を考えているのかよくわからない。  やがて女性は静かに回れ右すると、通路へと入っていった。奈子が後を追うように歩き出したので、由維もそれに従った。  しかし、奈子と由維が通路の入口に辿り着くと、女性の姿は忽然と消えていた。通路は明かりが届く数十メートル先まで、横道もなく真っ直ぐに続いているというのに。  通路に入るなりあの女性が全力で走ったとすれば、その先まで行けたかもしれない。しかしそれならば、足音くらいは聞こえたはずだ。  あれは、本当に生きている人間だったろうか。由維は訝しんだ。  まるで気配がない。幽霊か、あるいはもう少し現実的に考えれば、魔法で生み出された幻影ではないだろうか。  由維は、全身に鳥肌が立つのを感じた。心霊現象と思ったわけではないが、単なる魔法による幻影とも違うようだ。  言いようのない寒気がする。  しかし奈子は別段気にしてもいないようだ。歩調を変えずにそのまま通路を進んでいく。  その時、由維は気付いた。  通路にうっすらと積もった埃の上に、人の足跡がある。  それも二種類。  一つはかなり大きい。おそらく、身体の大きな男性のものだろう。  そしてもう一つは、いま新たに付けられたばかりの奈子の足跡とほとんど同じ大きさだった。やや細身で、きっと女性のものなのだろう。だとすると、先刻の女性のものかもしれない。  だが、あの女性はどんな靴を履いていただろうか。必死に記憶を呼び起こす。確か、着ているドレスに似合った、踵の細い靴ではなかったか。  この足跡はもっと踵が低い、動きやすさを重視した靴のものだ。ちょうど奈子のものと同じような、この世界の女性騎士が好んで履く短いブーツの跡に似ている。  二つの足跡は真っ直ぐに、通路を進んでいったようだ。以前にも誰か、ここを訪れた者がいる。  それはいったい誰で、いつ頃のことだったのだろう。  由維は、数歩先を歩いている奈子の背中を見た。  そして、その場に立ち止まる。  歩き続ける奈子との距離が、少しずつ開いていく。 「奈……」  奈子先輩、いつものようにそう呼びかけようとして、しかし何故か声が出せなかった。  一度、口をつぐんで。  それからもう一度。 「――――」  別な言葉で呼びかけた。  半ば、予想していたことだった。  そして、怖れていたことでもあった。  奈子は立ち止まると、微かな笑みを浮かべて振り返った。  自分の名を呼ばれた時と同じように、ごく自然に。 「何?」  そう、訊き返してくる。  しかしその表情は、いつも見慣れている優しい笑みとは何かが違っていた。 四章 告白  マイカラス王国の戦姫と謳われる騎士、ダルジィ・フォア・ハイダーは、至福の時を過ごしていた。  なにしろ今、彼女が想い慕うマイカラスの若き王、ハルティ・ウェルと二人きりなのだ。  といっても、別に艶っぽい話ではない。王国南部に広がる砂漠の視察に来ているのだ。  砂漠とはいえ、その地形は不変ではない。雨期に大雨が降れば一気にその様相を変えるし、一度の砂嵐で新たな砂丘が出現することも珍しくない。  だからこの砂漠の地形の調査は、毎年欠かすことはできなかった。  サラート王国など、南方の国がマイカラスへ侵攻しようとした場合、必然的にここを通ることになる。兵数で劣るマイカラスが敵を有利に迎え撃つためには、地の利を得る必要があるのだ。  オアシスなどの、水源の位置。。  兵を隠すのに適した地形。  砦を築くべき場所。  それらをすべて把握し、いつ敵が攻めてきても対処できるように作戦を立てておくこと。  マイカラスを護るためには、この砂漠で敵軍を撃破しなければならない。砂漠を越えれば王都まで大きな街も砦もなく、そこで敵を迎撃するのは困難だ。  敵は、一般に砂漠での戦闘に慣れていない。この砂漠こそが、マイカラスの生命線だった。  だからこそ、今回の視察にはハルティが自ら乗り出したのだ。昨年のサラート王国の侵攻は、まだ記憶に新しい。  しかし、そんな事情はダルジィにとってはどうでもいいことだ。ハルティの側にいられる――それだけが重要だった。  実力、忠誠心共に騎士団の中でも五指に入るといわれるダルジィだが、実はその忠誠心がマイカラス王国でも国王でもなく、王冠を戴いている個人に向けられていることを知る者は少なかった。  実際のところ、今回の視察は二人だけで来ているわけではない。ケイウェリなど、騎士団の主だった若手が何人も同行している。  しかし広い砂漠である。手分けして調査するために、二、三人ずつの小グループに分かれて行動しているのだ。  ダルジィをハルティに同行させたのはケイウェリだった。彼は気付いているのかもしれない。その外見に似合わず、細かいところに気の回る性格だから。  それなのに、ハルティは彼女の気持ちなどまるで気付いていないのだが、ダルジィは別に不満とも思わなかった。  ハルティに愛されたいなどというのは、ダルジィにとっては身の程知らずの大それた思いだった。自分のことはよくわかっているつもりだ。同世代の他の娘たちのように、美しく着飾って男性の気を惹くことなど自分にはできない、と。  彼女にできるのは、より優れた騎士となって、ハルティの役に立つことだけだった。  それだけが、彼女の望みだった。  だからこそ、今が至福の時なのだ。  危険があるかもしれない砂漠で、ダルジィと二人で行動している。それは、彼女に対する全幅の信頼の証だ。  そう思えば、この灰色の荒野の中にあっても、美しい花園にでもいるような気分になれた。  しかし。  ダルジィの表情が、不意に強張った。  たとえ幸せに浸っている時であっても、決して警戒心は緩めない。だからこそ彼女は、ハルティの信頼を得られるのだ。 「誰か、来ます」  簡潔に伝え、微かに目を細める。  遠くに、人の気配がした。  南西の方角、まだかなり遠い。  今は、その方角に仲間はいないはずだ。街道からも外れているから、普通の旅人ではあるまい。  砂嵐等で道を見失った旅人か、あるいは……。  すぐに、魔法による探知をその方角に集中する。向こうは特に結界も張っていないようで、簡単に姿を捉えることができた。  馬が二頭。それぞれに一人ずつ、人が乗っている。  成人男性にしては小柄だ。おそらくは子供か女性だろう。  こちらに向かってきている。距離が詰まるに従い、その姿が鮮明になる。  遠くにある低い丘の頂に、肉眼でも見える二つの点が現れたところで、ハルティの表情が緩んだ。対照的に、ダルジィの顔が不快そうに歪む。  彼女にとっては最悪の人物だった。  天敵と言ってもいい。  いっそ敵国の大軍の方がましだったと、本気で思った。  二人のうち一人はまったく見覚えがない少女だが、もう一人はいやというほど知っている人物だ。 「ナコ・ウェル……」  まるで親の仇であるかのような口調で、その名をつぶやいた。  それは奈子にとっても、予想もしていない邂逅だった。  遺跡を後にして真っ直ぐ王都へと向かう途中、近くで人の気配がしたので少し寄り道してみたのだ。  まさか、こんなところで知り合いに会うとは。 「ナコさん」 「ハルティ様……」  知らず知らずのうちに、口元が綻ぶ。  ダルジィや由維が見ている前で不謹慎とは思うが、なにしろハルティはうっとりするような美形なのだ。  ややくせっ毛の金髪の下の、優しさと猛々しさのバランスが取れた顔立ち。  すらりとした長身で一見痩せて見えるが、実際にはその身体は無駄なく鍛えられ、騎士としても一流だった。  そんな男性が自分のことを憎からず想っているというのだから、つい顔が緩んでしまうのも無理のないことだ。 (ああもう、ハルティ様ってばやっぱり素敵。それに比べたらエイシスなんてぜんぜん見劣りするよなぁ)  ついつい、頭の中で無駄な比較をしてしまう。 「奇遇ですね、こんなところでお会いするなんて」 「本当に」  ハルティも、嬉しそうに微笑んでいる。しかしその後ろでは、ダルジィが般若のような顔をしていた。 (ごめん、ダルジィ)  奈子は、心の中で手を合わせる。  ダルジィの想いは知っているから、できれば邪魔はしたくはない。  しかし奈子はどちらかといえば惚れっぽい上に「強い美形」には無条件で弱い性格だった。久しぶりの再会なのだから、今だけは見逃してもらおう。 「ところで、後ろの女の子は?」  ハルティが由維を見て訊く。 「あ、この子は由維っていって……アタシの、幼なじみというか……」 「恋人でーす!」  いきなり、由維が笑いながら会話に割り込んでくる。 (バカ! いきなりそれはマズイでしょっ?)  思わず、心の中で突っ込む。ハルティとダルジィは、奈子の性癖を知らないのだ。  振り返って由維を睨みつけてから、恐る恐る、ハルティの顔を見る。  この時のハルティとダルジィの表情は、当分忘れることはできないと思った。      * * *  奈子と由維は、辛うじてショックから立ち直ったらしいハルティたちと共に王都へと戻った。  当初の予定では、ハルティに会うのは王都に戻ってからのはずだったのだが。  王都には、ファージとソレア、そしてソレアの弟子のユクフェも来ていた。  ちょうどその日はハルティの妹アイミィ・ウェルの誕生日で、以前から奈子たちはパーティに招かれていたのだ。  久しぶりに、騎士の礼服で正装しての登城である。奈子の礼服姿を初めて見る由維が、うっとりと見とれていた。  ところで、アイミィも熱烈な奈子のファンである。由維を連れてきたことでどんな反応をするか……と少し不安だったが、どうやらそれは杞憂だったらしい。  ハルティか、あるいはダルジィから先に事情を聞いていたらしいアイミィは「やっぱりナコ様も『こちら側』の人でしたのね」なんて嬉しそうに言うものだから、奈子としては苦笑する以外に応えようもない。  由維とアイミィはなんだか気が合うようで、二人で楽しそうに談笑していた。由維とファージが喧嘩ばかりしているのとは対照的だ。  その点では、由維は亜依やエイシスとも仲がいいのだから、恋敵の中では何故かファージだけが例外ということらしい。  そして。  この件とは別に、今回初めて知ったことがある。  ユクフェは、美形と金持ちに弱い、と。  ハルティを一目見るなり「あと六、七年待ってくれれば、あたし、ナコおねーちゃんよりもずっといい女になるよ。どぉ?」などと言い出して、ハルティを困らせる始末である。  そんな、まだ十歳の女の子の戯言に対してダルジィがかなり本気で睨んでいるものだから、奈子は呆れてしまった。  とまあ、いろいろとあったが、今夜の宴は全体としてはかなり楽しいものだった。  そして、深夜。  城の中で、奈子とハルティが二人きりで会うというのは、実は至難の技である。  ダルジィはともかく、アイミィの目を誤魔化すのが大変なのだ。しかも今回は、ハルティに「夜這いに来てもいいよ」なんてませたことを言っていたユクフェもいる。  だから、奈子がハルティの私室を訪れたのは、もう夜半過ぎのことだった。  逢い引き、という言い方は語弊があるが、しかし以前にもここで口づけを交わしたことがあるのは事実だ。そのことを思い出すと、今でも頬が赤らんでしまう。 「こうして、ゆっくり話すのは久しぶりですね」 「ナコさんが、最近あまり来てくれませんからね」  軽い皮肉混じりにハルティが笑う。 「ごめんなさい」  奈子は素直に謝った。  正直なところ、マイカラスに来にくかった……というよりも、ダルジィの気持ちを知って以来、ハルティと顔を合わせにくかったのだ。  ハルティのことは好きだ。それは間違いない。  エイシスに対する感情と違い、素直に認めることができる。  だけど奈子には、ハルティよりももっと大切な相手がいる。  だから、ひどく後ろめたい気持ちになってしまう。ダルジィの、真っ直ぐで純粋な想いを知っているから。  それでも今夜、こうしてここにいるのだから、自分はやっぱりだらしない人間なのかもしれない、と。そんなことを考えてしまう。  ただハルティに会いに来ただけではない。本音を言えば少しだけ、それ以上のことを期待している。 「ところで……」  ハルティが、躊躇いがちに訊いた。 「あの子が、ナコさんの恋人というのは……本当ですか?」 「…………」  奈子は、無言でうなずいた。嘘をつくことはできない。  さすがに今度は、ハルティも驚かなかった。 「ナコさんも、やっぱりそういう趣味の……?」  身近にアイミィがいるから、免疫ができているのだろうか。比較的あっさりと、その事実を受け入れたようだ。 「誤解のないように言っておきますけど、アタシは別に、女の子しか愛せないわけじゃないですよ」  冷静に自分を振り返ってみれば、奈子にとって相手の性別はあまり意味を持たないようだ。高品も、ハルティも、ファージも亜依も、みんな大切で、男か女かというのは問題ではない。 「ただ、いちばん大切なのが由維だったっていうだけなんです」  そう、由維は特別。  あの子だけは、すべてを超越して大切な存在。 「……今度会ったら、あなたに結婚を申し込もうと思っていた」  微苦笑を浮かべて、ハルティは言った。奈子は、それを聞いても驚かなかった。 「実は……、そんな気がしてました」  騎士団のケイウェリから聞いていたから。 「だからですか? しばらくマイカラスに来なかったのは」 「そういうわけではないですけど」  だけど無意識のうちに、それを避けていたのかもしれない。  はっきりと言われれば、断らなければならなくなるから。 「もう一度、考えてみてはもらえませんか?」 「本音を言えば、すごく嬉しいんです」  それが、奈子の本音。  しかし……。 「だけど……ごめんなさい。アタシ、ハルティ様と結婚することは……というか、この国の王妃になることはできないんです」 「何故?」 「まず第一に、身分が違うじゃないですか」 「そんなこと、問題ではないでしょう? 生まれがどうであれ、あなたはこの国の正騎士です」  確かに、ハルティの言うとおりだ。それは致命的な問題ではない。  奈子にとっても、これは言い訳に過ぎなかった。 「私は、ナコさんを愛しています」  そう言って、ハルティは奈子を抱きしめる。  優しく。しかし、しっかりと。 「……ハルティ様ってば、卑怯」 「え?」  奈子は、ハルティに軽く体重を預けた。 「こんな体勢でそんな風に囁かれたら、つい、うなずきそうになるじゃないですか」 「もちろん、それを狙ってのことです」  二人揃って、小さく笑う。  奈子も、ハルティの身体に腕を回した。  間近から、お互いの目を見つめる。  そして、奈子の方から唇を重ねた。  ゆっくりと、時間をかけたキス。 「……だけど……アタシ、ハルティ様とは結婚できないんです。アタシ、子供の産めない身体なんですよ」 「えっ?」 「以前、怪我が元で……。だから……」  だから、王妃にはなれない。  たとえハルティがなんと言おうと、世継ぎを産めない王妃を誰が認めるだろう。  一昨年のクーデターのため、アイサール王家の直系の血筋はハルティとアイミィしか残っていない。臣下の者たちがハルティを結婚させようと躍起になっているのはそのためだ。  一日でも早く、世継ぎが生まれて欲しい、と。そう願っているのだ。  子供を産めない女性を妃と認めるはずがない。 「だから……ごめんなさい……。ハルティ様には、もっと相応しい人がいるはずです。この国の王妃に相応しい人が……」  例えば、ダルジィのような。  彼女の家はマイカラス建国以来の名家で、本人は優れた騎士で、心身共に健康だ。  誰もが納得する相手だろう。それになにより、奈子よりもずっと真摯にハルティを想っている。  だけど、奈子の口からその名は言わない。  ちょっとした意地悪だ。色恋沙汰に関しては奈子よりもずっとうぶなダルジィが、勇気を出して自分から行動するまでは、奈子もケイウェリも何も言わない。 「だから……、ごめんなさい」  涙が、溢れてきた。  それを見られたくなくて、ハルティの胸に顔を押しつける。  初めてだった。自分の身体のことを、人に話すのは。  吹っ切れたつもりでいたのに、やっぱりまだ傷は癒えていなかった。 「ナコさん……」  ハルティの腕に力が込められる。  それが心地良かった。 「でも、遊び相手でよければお付き合いしてあげますよ?」  涙を拭って、奈子はわざと軽い調子で言った。 「なにしろ、マイカラスで一番の一の『抱かれたい男』ハルティ様ですもんね」 「また、そんな……心にもないことを」  ハルティが苦笑する。 「……抱かれたい、ってのは本音ですよ」 「ユイさんに怒られますよ?」 「あの子は、知ってるもの。アタシがこんな性格だって。相手が男だろうと女だろうと、恋人であろうとなかろうと、節操なく身体を許す女だって。だからハルティ様も、アタシなんかに本気になっちゃダメですよ。本気の恋愛より、遊びのセックスが好きな女なんですから」 「……相変わらず、嘘が下手ですね。ナコさんは」 「――っ」  ハルティに哀れむような瞳で見つめられて、奈子はそれ以上、何も言えなくなってしまった。      * * * 「ずいぶん、遅かったですね」  そんな声と同時に部屋が明るくなったので、奈子は小さく驚きの声を上げた。  自分の寝室へ戻ったのは、草木も眠る丑三つ時だ。当然、由維も夢の中にいると思ったのに。 「……由維、起きてたの?」  微かな魔法の残滓が感じ取れる。どうやら、侵入者探知の結界でも張っていたらしい。  つまり、奈子が夜中に寝室を抜け出していたことも知っているわけだ。 「も少し早く帰ってくると思ったのに。これだけ時間がかかったということは、ハルティ様といーいコトしてたんですか?」 「え? いや、あの、えっと……」  いきなり核心をつかれて、奈子は狼狽えた。しどろもどろに応える。 「ど、どうしてハルティ様と会っていたなんて思うの?」 「他に行くトコないでしょ? まさか、アイミィのところじゃないだろうし」 「う……」  どうやら、完全にお見通しらしい。  由維はベッドから降りると、奈子の胸に顔を押しつけた。 「男の人の、匂いがするよ」 「……ごめん」  本気で怒っているわけではなさそうだが、由維はぷぅっと頬を膨らませている。 「もぉ、ホント浮気っぽいんだから」  由維が抱きついてくる。  身体を擦り付けるようにして。  まるで、動物が自分の縄張りにマーキングをしているようだ、と奈子は思った。  身長差の関係で、奈子はちょうど胸が擦られるような形になる。 「ちょっと由維、そんなコトされたら、アタシ……」 「感じちゃう?」  悪戯な瞳で奈子の顔を見上げる。  由維の言うとおりなのだが、さすがにそれを素直に認めるのは抵抗がある。 「えっと……」 「我慢できなくなる? 今してきたばっかりのくせに」  だからこそ、だ。身体が敏感になっている。 「奈子先輩の性欲って、底なしですねぇ」 「そうゆう言い方やめてよね」  奈子は真っ赤になって言い返す。 「だって、固くなってますよ」 「ひゃん!」  由維の指先が、胸の先端をピンと弾いた。奈子は思わず声を上げる。 「こら、由維!」  由維を抱きしめて、そのままベッドに押し倒した。  顔中に、キスの雨を降らせる。 「そうやって挑発すると、マジで襲っちゃうよ?」 「もう襲ってるクセに」  笑って、由維の方からもキスを返してくる。 「ん……ふ……」 「ぅん……」  舌を絡ませながら、お互いに相手の身体を弄る。最近の由維は、服の上から触るくらいは嫌がらない。  由維の身体を触るのは楽しい。  由維に触られるのは気持ちいい。  だから、つい調子に乗ってしまう。しかし、寝間着を脱がそうとした奈子の手を、由維はしっかりと押さえた。 「いいじゃん。少しくらい」 「ダメ。それとも奈子先輩、見られながらすると燃える方?」 「え?」 「魔法で出歯亀してる人がいますよ。きっと、アイミィかな」 「ええっ?」  慌てて身体を起こし、由維から離れる。  服を直しながら気配を探ると、確かに、誰かが魔法で監視していたようだ。こちらが気付いたことを悟ったのか、気配は急速に薄れていく。 「でも、どうしてアイミィだって?」 「気配がそうでしたもん。それに、彼女もこーゆーことに興味ありそうでしたよ。奈子先輩とはもうしたのか……とか、私にいろいろ訊いてきましたから」  なるほど。仲良くしていると思ったら、そんなことを話していたのか。 「あの子もねぇ……。けっこう楽しい性格してるよね」 「ちょっと、亜依さんに似てません?」 「そういえば、あいつも出歯亀してたことがあったっけ」  今年のバレンタインデーの夜を思い出して、二人は笑った。  が、不意に奈子の表情が凍り付く。  大変なことに気が付いた。 「魔法で見ていたってことは……、先刻の会話も聞かれてた?」 「かもしれませんね」 「それってマズイよ!」  アイミィにとって、一番の恋敵は由維でもファージでもなく、実の兄ハルティなのだ。奈子の取り合いでハルティに喧嘩を売ったことも、一度や二度ではない。  それが、先刻の「ハルティ様といーいコト」云々を聞いていたとすると……。 「ハルティ様が危ない!」  そう叫ぶのと同時に、遠くから爆発音が響いてきた。続いて、誰の声か考えるまでもない金切り声が。 「……今の、ハルティ様の寝室の方?」 「……みたい、ですねぇ」  諦めの表情で、奈子と由維は顔を見合わせた。  深夜の王宮を騒がせた、突然の兄妹喧嘩。  その原因を知っているのは、ごく限られた者だけだった。 五章 新しい生命  突然、電話が鳴る。  まあ、電話のベルというのはいつでも突然鳴るものだ。  だからいつも、少し驚いてしまう。  小さな音で「これから鳴りますよ」と知らせてくれてもいいのに――などとくだらないことを考えながら、奈子は受話器を取った。  今日は水曜日。  普段通りの平日の朝。  由維が朝食の仕度をしていて、奈子は牛乳を飲みながら新聞――主にスポーツ欄――を読んでいた。  そこへかかってきた電話。まだ朝早いというのに、珍しいことだ。 「はい、松宮で……あ、父さん? ……うん、元気」  その電話は、東京にいる父親からのものだった。 「え?」  一瞬、奈子の声が大きくなる。 「あぁっ! ごめん、忘れてた!」  やや狼狽した様子で、電話に向かって謝る。  そんな奈子を、朝食の皿を運んできた由維は不思議そうに見ていた。 「……うん。すぐ行くから」  受話器を置くと、奈子は由維に向かって言った。 「由維。アタシ今日、学校休む」 「どうかしたんですか?」 「東京、行かなきゃなんない」 「東京……?」  暫し首を傾げて、間もなく「ああ」とうなずいた。  ぱっと表情が明るくなる。 「赤ちゃん、生まれたんですね?」 「うん」  奈子の母親、美奈が妊娠していることがわかったのが、昨年の十月。あの、アルンシルでの事件があったすぐ後だ。  そして、今月が臨月。  奈子も由維も、そのことをすっかり失念していたのだ。 「いますぐ千歳に向かえば、昼過ぎには病院に着けるっしょ。平日の朝だから、飛行機も空席あるだろうし」  飛行機の予約を入れるため、奈子はまた受話器を手にした。ボタンに伸ばしかけた指を止めて、由維を振り返る。 「エア・ドゥの予約って何番だっけ?」 「短縮の三番。あ、私の分もお願いしますね。すぐ用意してきますから」 「私の分も、って……」 「もちろん、私も行きますよ」  制服の上から着けたエプロンを外しながら、由維は当たり前のように言う。そして、旅行の荷物を用意するために一度自分の家へと戻っていった。 「もちろん、って……」  奈子は受話器を持ったまま、呆然と由維を見送る。 「……なんで?」  そうつぶやいたものの、とりあえず二人分の航空券を予約する奈子だった。        * * *  美奈が入院していたのは、両親が暮らしている東京のマンションからそう遠くない、大きな総合病院の産婦人科だった。  朝食後すぐに新千歳空港に向かった奈子と由維が、羽田空港からモノレールとJRを乗り継いで病院に着いたのは昼過ぎのこと。 「わぁー、可愛い! ちっちゃーい!」  それが、由維の第一声。  恐る恐る、赤ん坊を抱き上げる。 「えへへー、可愛いですねぇ。ほら、奈子先輩」  奈子に、妹ができた。三千グラムの元気な女の子。  母子共に健康だ。 「……それにしても、年甲斐もなく」  奈子はぽつりとつぶやいて、美奈に睨まれた。 「なにか言った?」 「いいや、なんにも」  美奈は、十六歳の娘を持つ母親としては若い方だろうが、それでも三十五歳前後の筈だ。 「で、この子の名前は? 考えてある?」 「え?」 「子供の名前、あんたが考えてって言ったでしょ」  一瞬、奈子の表情が強張る。  忘れていた。  そういえば、美奈から妊娠したことを聞かされた時、そんなことを言われていた。  その時は由維と一緒にいろいろ考えていたのだが、結局結論は出ないままになっている。 「まーさーかー、忘れてたわけじゃないでしょうね?」 「え? あはははは……まさか」  奈子はぽりぽりと頭を掻く。本当のことを言おうものなら、鉄拳制裁が待っている。  格闘技に関しては奈子の方がはるかに実力が上でも、学生時代に中国拳法を学んでいたという美奈の拳は、洒落では済まされない痛さなのだ。 「じゃあ、聞かせてよ。何て名前?」 「え? えっと……その……」  奈子は追いつめられた。こんな時に限って、さっぱり頭が回らない。 「えぇと、その……。ゆ……由奈、って……どうかな?」 「由奈?」  美奈が小さく首を傾げる。 「由奈……あんたと由維ちゃんから一字ずつ取ったのね」 「ははは……まあね」  それは本当のことだ。以前、由維といろいろ考えていた名前の一つ。その時はとある事情で没になったのだが、美奈に問いつめられて真っ先に浮かんだのがこれだった。  実際、奈子としてはかなり気に入っている名前だ。  由維と奈子の名前が一字ずつ使われていること。  トリニアの高名な竜騎士ユウナ・ヴィと同じ音であること。  ちょっとした問題があるとはいえ、これ以上の名前は思いつかない。 「いいんじゃない。あんたの妹は、由維ちゃんにとっても義妹みたいなもんだし」  「……今、なんだか微妙に発音が違ったみたいだけど」  それとも、深く追求しない方がいいだろうか。  美奈は、奈子と由維の関係を知っているのだ。しかしどうやら認めてくれているようである。物わかりのいい母親でよかった。 「松宮由奈……か。うん、いいね。それで決まり」 「……だって。よろしくね、由奈ちゃん」  由維が、腕の中の赤ん坊に笑いかける。  その由奈は、たった今自分の名前が決まったことも知らずに、笑っているような表情で眠っていた。 「――――」  奈子は、そんな様子を見ていて。  ぎゅうっと、胸が締めつけられるように感じた。  痛い。  胸の奥が痛い。  身体の芯を貫かれるような痛みに襲われる。  だけど、わかっている。  この痛みは、精神的なものだ。  現実には存在しない、精神の痛みだ。 「あ……アタシ、喉渇いたな。売店に行って来る」  そう言い繕って、奈子は病室を出た。  後ろ手に扉を閉める。  同時に、一筋の涙が頬を伝った。  涙はそれだけでとどまらず、一気に溢れ出してくる。 (やっぱり……、まだまだ、吹っ切れてないな……)  由維が赤ん坊を抱き上げている光景は、あまりにも辛すぎた。  見ていられない。  見るのが辛い。  見たくない。  思い出してしまうから。  一番、辛いことを。  奈子の十六年の人生の中で、一番辛いことを。 (ごめんね……)  生まれて来ることなく失われた一つの生命に向かって、奈子は謝った。  あの忌まわしい事件がなければ……。  今頃、あんな風に由維が抱き上げているのは、奈子の子供だったかもしれなかった。      * * * 「や……ダメ……はぁぁっ! あ……だめェ……もっと……あ……優しく……」  奈子は、息も絶え絶えに懇願する。  しかしその願いは聞き入れられない。 「なに言ってンの。こんなに感じてるくせに」  金色の瞳が、意地の悪い笑みを浮かべている。  楽しそうな、そして悪戯な笑みを浮かべて、ファージは奈子の顔を覗き込んだ。 「気持ちイイんでしょ? もっとして欲しいんでしょ?」 「だって……」  奈子は潤んだ瞳でファージを見上げる。  久しぶりだから。  ファージとするのは本当に久しぶりだから、すごく感じてしまう。  由維の目がある時には、間違ってもこんなことはできない。今週、由維は中等部の修学旅行で、奈子は久しぶりに一人でこちらに来ていた。  ソレアの屋敷にはファージもいて、奈子が一人と見ると問答無用で迫ってきて。  そうなると奈子も拒むことのできない性格だ。奈子にとってファージは「初めての女の子」でもあるし。  そう、あれはもう一年半くらい前になるだろうか。  夕食の時に飲んだワインで気持ちよく酔っている時に、カードゲームでファージと賭けをしたのは。酔った勢いで「負けたら相手の言うことをなんでも聞く」なんて約束をして。  そして、負けたのだ。ポーカーに似て、駆け引きが勝負を決めるそのゲームは、考えていることが顔に出やすい奈子にとっては明らかに不利だった。ファージは駆け引きでも、カードの引きの運でも奈子を凌駕していた。  しかし今にして思えば、カードの引きは運ではなくて、魔法によるいかさまだったのかもしれない。魔法の知識がほとんどない当時の奈子では見破れなかったろう。  ゲームに勝ったファージの要求が、奈子の身体だった。  奈子もファージのことは嫌いではないし、女の子同士での行為に興味もあったから、つい承諾してしまった。  以来、機会あるごとに肌を重ね合って、今に至る。  もちろん、由維もそのことには気付いている。快く承諾しているわけではないが「まあ仕方がない」とでも思っているようだ。  奈子だって、それがいいことだとは思っていない。由維に対して後ろめたい気持ちもある。  だけどその後ろめたさが、より快感を高めるスパイスになっていることも否定できない。  それは、いけないことをしているという、背徳的な快感。 『奈子先輩て、倫理観というか、貞操観念というか……が欠如してますよね』  いつか、由維が言っていた台詞。  まったくその通りだ。 「いいじゃない。練習だと思えば」  ファージはあっけらかんと言う。倫理観の無さという点では奈子の比ではない。 「いつかユイとする時のために、テクニックを磨いていると思えばいいじゃない」 「そーゆーもの?」  そんな理由で納得してもいいものだろうか。 「ユイだって、気持ちイイことされた方が嬉しいじゃない」 「うーん……」  そんなことでいいのだろうか。  でも確かに、どうせするなら気持ちイイ方がいいに決まってる。  由維とはまだ最後の一線を越えてはいないけれど、それも時間の問題だろう。だったらその時には、うんと感じさせてやりたい、と思う。  まさか、由維が文句を言いつつもファージとの関係を黙認しているのも、そんな理由からだろうか。いやいや、まさか。 「だから、うんと練習しよ」 「うまく丸め込まれたような気もするけど……。ま、いっか」  とりあえず今は、ファージと楽しもう。そう、決めた。 「……は……ぁ、あぁっ……! あぁん!」  ファージの指が、奈子の中で動いている。  一番感じる部分を攻めたてている。  奈子も、自分から腰を動かしてそれに応える。 「イイ……イイのぉ……」  指の動きは激しい。痛みすら覚えるほどに。  だけど奈子はどちらかといえば、そんな、荒々しいセックスが好きだった。もちろんファージは、奈子の嗜好をよくわかっている。  指が、舌が、奈子の弱点を乱暴に愛撫する。  奈子は全身が痺れるほどに感じて。  何度も、絶頂を迎えてしまう。  しかし、一度や二度くらいではファージはやめてくれない。そして、奈子もやめて欲しいとは思っていない。  由維に「底なしの性欲」と評された通り、奈子のセックスは相手の性別を問わずかなり貪欲なのだ。  疲れて眠ってしまうまで、何度でも。  特に、久しぶりであればなおさらのこと。 「やぁぁっ、あぁっ、あぁ……」  ファージの容赦ない愛撫は続き、奈子は今夜何度目かののクライマックスを迎えようとしていた。 「はぁぁっ……、あぁぁぁんっ!」  奈子の身体が痙攣する。  ぎゅっと、ファージを抱きしめる。 「んあぁぁぁぁっ……」  肺の中の空気をすべて吐き出すまでその状態は続き、ようやく全身から力が抜ける。  汗ぐっしょりで。  荒い呼吸に合わせて、胸が大きく上下している。 「……ち、ちょっと……休憩……」  奈子は蚊の鳴くような声で言った。  さすがに、これ以上休みなしで続けては身体が保たない。  ファージは満足げな笑みを浮かべて、奈子にぴたりと寄り添っていた。 (……やっぱり、気持ちイイなぁ。ファージとするのは……)  ぼんやりとした頭で考える。  実は、それには理由がある。ファージは魔法を使って、奈子の神経を直接刺激しているのだ。反則のような気がしないでもないが、気持ちいいから良しということにしている。  それにしても、おかしな話だ。  奈子は別に、ファージに対して恋愛感情を抱いているわけではない。  それは紛れもない友情。ファージは、大好きな親友だ。恋愛感情ということなら、まだ亜依に対しての方があるかもしれない。  おそらく、ファージも同じだろう。  彼女の奈子に対する感情も、恋愛とは少し違うように思える。それなのに肉体関係を求めるのは、それがファージ流のスキンシップだからだ。  奈子も、嫌いではない。  それが恋人であれ親友であれ。  好きな相手と肌を合わせること、相手の温もりを感じること。  それは楽しくて、そして気持ちいい。 (これってもしかして、肉親とのスキンシップが少ないことと関係あるのかな?)  その点では、奈子とファージには共通点がある。  それでも、奈子には由維がいたからまだいい。しかしファージは一人きりだ。  奈子に必要以上になついているのは、そのせいもあるのだろうか。 「ね、ファージ。今度はアタシがしてあげる」  少し休んだ奈子は、ファージを仰向けにさせるとその上に覆い被さった。  ファージとする時はどちらかといえばネコ役が多い奈子だが「いつか由維とするときの練習」という建前があるからには、それだけではいけない。  それに、やってみるとタチもなかなか楽しかった。  自分の愛撫に反応する相手の表情を見ること。それは、精神的な快感を与えてくれる。  奈子は、ファージの胸に優しくキスをした。手で、もう一方の乳房をそっと包み込む。 「ん……くぅん……」  舌先で乳首をくすぐると、ファージはすぐに切ない声を上げ始めた。  ファージは、奈子に対しては荒々しい攻めをするくせに、自分がされる時は優しい愛撫を好む。  舌先、あるいは指先で微かに触れるような。  すごく感じやすくて、奈子にしてみれば物足りないような、控えめな愛撫だけで簡単に達してしまう。  その時の表情が可愛い。  普段のファージとのギャップが楽しい。  だから、つい何度もいかせてしまう。  ファージは奈子ほどの耐久力がなくて、簡単にギブアップする。瞳を潤ませて「も、ダメ……」なんて言うファージの姿、こんな時でもなければ見ることはできない。  思わず苛めたくなってしまって、さらにもう一回してしまった。奈子は自分がややマゾっ気があると思っていたのだが、責めに転じると実はサドなのかもしれない。 「……ナコの意地悪ぅ」  拗ねたように言う。それが可愛くて、ファージの身体をぎゅっと抱きしめた。 「ファージってば、可愛い」 「……後で仕返ししてやる。超悶絶スペシャルフルコースで」 「実は、それが楽しみだったりして」  奈子はぺろりと舌を出した。 「とは……言ったものの……」  それからしばらく後。  奈子は力尽きたように、ベッドに俯せになっていた。 「……さ、さすがに……効いたなぁ……コレは」 「ふふ〜ん。どぉ、ちょっとは堪えた?」  攻守交代したファージが、勝ち誇ったように言う。しかし。 「……クセになりそ」  さっぱり堪えていない奈子だった。  さすがにファージも今夜はこれ以上続ける気がないのか、話題を変えてくる。 「そういえば奈子、妹ができたんだって?」 「うん、そう。由奈っていうの」  奈子は寝返りを打って、仰向けになった。 「ユウナ……? トリニアの?」 「それもあるけど。アタシの国の文字で、由維と奈子の先頭一文字ずつを取ってつなげると、ユウナって読めるんだ」 「ナコの妹がユウナ、か。ふふ……」 「なにか可笑しい?」 「ちょっと……ね」  ファージは奈子に寄り添って、腕枕してもらうような体勢になる。  なにがそんなに可笑しいのか、その後何度もくすくすと思い出し笑いをしていた。 六章 聖跡  傭兵という職業柄、大陸中様々な土地を訪れたことのあるエイシスでも、ティルディア王国の王都クンディアナに足を踏み入れるのは、これが初めてだった。  フェイリアは前にも来たことがあるのだろうか。ティルディア王国は閉鎖的な軍事国家で、余所者が気軽に出入りできる国ではなかったのだが。  だから、ティルディアには謎が多い。  その国土はハレイトンやアルトゥルといった大国に比べれば、決して広いとはいえない。しかし国は豊かで、軍事力に関しては紛れもなく大陸を代表する強国の一つだった。  兵数は決して多くはないが、訓練が行き届いていてその質は高く、同数の兵力であればアルトゥル王国の精鋭すら凌駕するというのが世間での評判だ。  その上、以前は優れた軍師がいたらしく、敵はしばしばその策にはまって多大な損害を受けていた。  しかし、それもすべて過去のこと。  現在の王都クンディアナは、まったくの無法地帯といってもいい。  先日、中原十カ国の連合軍、すなわちトカイ・ラーナ教会の軍勢との戦いに敗れ、一度はこの王都も敵の手に陥ちた。  その後間もなく、大陸中を震撼させたあの事件――中原の中心都市トゥラシの消滅――によって、今度は教会の軍勢が大混乱に陥り、クンディアナからはすべての秩序が失われてしまった。  今では、両軍の残党やら野盗やらが闇雲に小競り合いを繰り返す無法地帯だ。 「こんな機会でもないと、ティルディアには来られなかったわね」 「まったくだ」  エイシスとフェイリアは、混乱に乗じてクンディアナへ入り込んだ。ここに、フェイリアが追っている仇の手掛かりがあると考えたからだ。  まだフェイリアが子供だった頃、両親を殺した相手。  後にそれが、伝説の『黒の剣』の所有者であること、そしてティルディア王国の騎士であることを突き止めた。  仇の名は、ヴェスティア・ディ・バーグ。  両親の敵を討とうとしたフェイリアは返り討ちに遭って重傷を負い、兄弟同然に育てられてきた従兄弟たちも殺された。  それももう、十数年も前の話だ。  しかし、片時も忘れたことはない。フェイリアが大陸中を旅しているのも、ヴェスティアを倒す力を求めてのことだ。同時に、以来行方がわからなくなっているヴェスティアを捜すためでもある。  以前は外国人の立ち入りが厳しく制限されていたクンディアナが現在のような状態になったと聞き及び、こうしてやって来た。  ヴェスティアの本拠地であったこの土地に、なんらかの手掛かりがあると考えて。 「それにしても……」  エイシスは、荒れ果てた市街地を見回した。 「黒剣の王がいながら、どうしてトカイ・ラーナに負けるんだ?」  おそらく以前は栄えた大都市だったのだろうが、今は見る影もない。人の姿はなく、崩れた建物、焼け落ちた建物も多い。  遠くで一筋の煙が上がっている。また小競り合いがあったのかもしれない。 「ヴェスティアの身に、何かあったのよ。おそらくは、もう何年も前に」 「何か、って?」 「それを調べに来たのでしょう。黒剣の王ヴェスティアは、ティルディア王国の人間だった。それは間違いないわ。ティルディアがここ二、三十年くらいの間に急激に力を伸ばしたのは、黒剣がここにあったからよ」 「トカイ・ラーナの残党がいまだに居座っているのも、そのせいかね?」 「でしょう。下っ端の兵士にまで詳しい情報が伝わっているとは思えないけど、それでも噂くらいは耳に入るでしょうから」 「自分が黒剣を手に入れて、大陸の覇者になる……か」 「そんな連中は黒剣に喰われるのがオチよ」  フェイリアは古い地図を頼りに、荒れ果てた通りを歩いて行く。そして、以前のバーグ家の屋敷だった建物に着いた。 「ここね」 「ほぉ、立派な屋敷だな。ま、いまさら金目の物は残ってねーだろうが」  そう言った後で、エイシスは自分の台詞の不自然さに気付いた。立派な屋敷、しかし。 「……しかし、黒剣の王の屋敷としては、むしろ質素といってもいいかもしれんな。第一、なんで黒剣の王が一介の騎士なんだ?」  過去、もっとも有名な黒剣の所有者は、ストレイン帝国の皇帝ドレイア・ディ・バーグだろう。  この大陸の歴史の中で、もっとも巨大な帝国を築いた王。  後のトリニア王国連合の支配圏はそれを凌駕するが、あくまでも連合全体での話であり、主邦トリニア一国の領土はストレイン全盛時の半分にも満たない。  すなわちストレインの皇帝とは、歴史上もっとも巨大な権力を手中にした人物だ。それに比べると、一国の王ですらないヴェスティアは明らかに不自然だ。  現在の大陸でもっとも強大な力を持ちながら、どうして自ら王となって、歴史の表舞台に立たなかったのか。 「知らないわよ、そんなこと。ただ、力を手にしたからといってそれに溺れるような人物でなかったことは確かみたいね。じっくりと時間をかけて、準備をしていたのかもしれない」  ドレイア・ディ以降の黒剣の所有者は、いずれも短命だった。力を過信してそれをひけらかし、自ら破滅を招くような連中が多かったのだ。  ヴェスティアはその例には当てはまらない。外見こそ若かったが、フェイリアが知る限り二十年以上も黒剣を所有し続けていた。これはドレイア・ディに次ぐ長さだ。 「そういえば、ヴェスティアとドレイアは何かつながりがあるのか? 姓が同じだが」 「それもわからない。ドレイアの直系の子孫は後ストレイン帝国滅亡時に絶えているはずだけど、傍系までは追い切れないし」 「可能性はある、と?」 「でも、ドレイア以降の黒剣の所有者は、ディ・バーグを名乗ることが多かったから」 「はったり、ってわけか。確かに、その方が何かと有利だな」  ストレイン皇帝ドレイア・ディ・バーグは、その強大な力故に人々から魔王と呼ばれ、怖れられた人物だ。その血を引く者と思わせておいた方が、敵に対する牽制になる。 「だけど、ヴェスティアはその名に相応しい力を持っていたことは事実よ」 「厄介なことに、な」  二人は、荒れ果てた屋敷の中へと足を踏み入れる。  中も、徹底的に荒らされているようだ。彫刻やら宝石やら絵画やら、値打ちのありそうなものはことごとく持ち出されている。二階に上がって書斎らしき部屋に入ると、本棚に収められていたはずの書物は、大半が床に散乱していた。  フェイリアは素早い動作で、本棚や床に散らばった本、そして机の引き出しなどを調べていく。空き巣も真っ青の手際の良さだ、とエイシスは感心した。  こんな場面では、エイシスが手伝うことはない。手持ちぶさたに外を見ていた。  やがて、小さく嘆息する。 「やれやれ、もう来たか」 「じゃあ、お願いね」  フェイリアはちらとも顔を上げずに言う。 「どれくらいだ?」 「捜しているものが見つかるまでよ」 「いつ見つかる?」 「知らないわ、そんなこと」  やれやれ……と肩をすくめると、エイシスは剣を担いだ。  敵が、この屋敷を取り囲もうとしている。  どこの勢力に属しているのかは知らないが、ここに来る途中にちょっともめた相手だ。しつこく追ってきたらしい。 「面倒なら、皆殺しにすればいいじゃない。その方が手っ取り早いわ」 「怖いこと言うね、フェアも」  両親と恋人の敵を討つ――その目的のためなら、フェイリアはいくらでも残酷になれた。  そんな彼女の邪魔をしようとする者は、否応なしに不幸になるだけだ。無駄な殺しと金にならない殺しはしない主義のエイシスも、逆らう度胸はない。  見るからにやる気のなさそうな態度で、愛用の大剣を肩に担いで階下へと降りる。  ちょうど、十数人の武装した男たちが屋敷に入ってきたところだった。外にはもっといるに違いない。 「うちの連中を可愛がってくれたそうだな」  先頭の男が言う。歳はエイシスよりも少し上、三十台の半ばくらいだろう。幾度も修羅場をくぐり抜けてきた者特有の匂いがした。  先刻の小競り合いでは見なかった顔だ。エイシスに痛めつけられた下っ端が、ボスに泣きついた、というところか。 「別に、あんたらに恨みがあるわけじゃないさ。通行の邪魔だったんでね」 「それでこちらが引き下がるとでも?」 「引き下がってくれると、お互いに体力も命も無駄にしなくて済むんだが」 「それはできない相談だな」  後に続く男たちが、剣を抜いて散開する。エイシスは完全に囲まれた形だ。  目の前の男を入れて、その数は十六人。 「……やれやれ、こっちはただ働きなんだぜ? 戦場でこれだけの敵を殺せば、褒美の一つも貰えるってのによ」 「だったらテメェが死ねよ!」  いきなり、真後ろに回った男が斬りかかってくる。  エイシスは後ろも見ずに愛用の大剣を抜き、その男を貫いた。  それが引き金となって、男たちが一斉に襲いかかってくる。しかし、その相手をするエイシスには充分に余裕があった。  一斉にとはいっても、屋敷の中で剣を振り回すのだから、同時に斬りかかってこれるのはせいぜい三人。周囲をぐるりと取り囲んだために、同士討ちの危険があって魔法も使えない。  リーダー格の男は別としても、他の連中は並の戦士でしかない。  これでは、エイシスの敵ではない。  彼の大剣が一閃する毎に、悲鳴が上がる。  精霊を召喚して強力な魔法を用いるまでもなく、瞬く間に半数が戦闘不能となっていた。外を取り囲んでいた連中も加勢に駆けつけるが、エイシスの強さに怯んで遠巻きにしているだけだ。 「貴様……かなり使えるようだな」  リーダー格の男が呻く。その表情には先刻までの余裕はない。 「少なくとも、あんたら全員をぶちのめすくらいには、な」  ぎり……と男が歯軋りする。その手には剣が握られているが、エイシスと真っ向勝負するか否か、決めかねている様子だ。少なくとも、エイシスの技量を正しく見抜けるだけの目は持っているということだろう。  突然そこへ、場違いな女の声が割り込んでくる。 「何をもたもたしているの。見つけたわよ」  何気ない口調のようでいて、その声にはえも言われぬ迫力があった。エイシスも思わず階段を見上げる。  二階から降りてくるフェイリアの背後に、紅蓮の炎が見えたような気がした。恐ろしいまでの殺気だ。  久々に見る「本気の」フェイリアだった。  フェイリアの怖さを知らないはずの男たちもその迫力に押され、左右に道を空ける。つい、エイシスもそれに倣いそうになった。  今、彼女の進路上に残っているのはエイシスと、男たちのリーダーだけだ。  エイシスが一歩脇に避けると、フェイリアと男は正面から向き合う形になった。 「なにか?」  フェイリアは女性としてはやや長身な方だが、それでも相手を見上げる形になる。男のこめかみに、一筋の汗が流れた。 「い……いや、なんでもねぇ」  そう言って、エイシス同様に道を空けた。賢明な判断だ、とエイシスは思った。長生きしたければ、本気のフェイリアの前に立ちふさがってはいけない。長い付き合いで、それはよくわかっている。 「結構」  フェイリアは満足げに微笑むと、エイシスの襟首を掴んで引きずっていく。 「ほら、行くわよ。もたもたしてるんじゃないの!」 「い、いてて……引っ張るなって!」  残された男たちは、呆然と二人の背中を見送っていた。ようやく我に返ったのは、その姿が見えなくなってからだ。 「お……親分、女相手に何びびってンすかっ?」 「て、手前ぇらこそブルってるんじゃねーか!」 「な、なんなんすかね、あの女……」 「知るか!」  これが、後々までクンディアナに語り伝えられる都市伝説「銀髪の鬼女」の由来であるのだが、それはまた別の話である。      * * *  二人の周囲には、生命の気配のない荒涼とした大地が広がっていた。  灰色の大地。  澱んだ空気。  心なしか、腐臭が漂っているように感じる。  空を見上げると、曇っているわけでもないのにどこか灰色がかっていて、陽炎が立っているかのように太陽も歪んで見える。 「……なんというか……あまり長居はしたくねーな」  転移魔法が使えれば一瞬のことなのだが、まったく知らない土地に転移するのは困難だし、そもそもこれだけ魔力の影響の濃い土地での転移など、試みない方が賢明というものだ。 「黒剣の影響でしょう。とんでもない魔力の歪みだわ」  あちこちに、魔物の死体が転がっている。明かりに群がる虫のように、この地に漂う瘴気に惹き寄せられてきた連中だろう。その中には、ずいぶんと大きなものもあった。 「――っ! これは……」  その、小山のような魔物の死体に、エイシスは息を呑んだ。思わずフェイリアを見る。  彼女の顔も、やや強張っているように見えた。  亜竜、だ。  エイシスとフェイリアにとっては、いろいろと因縁のある相手である。 「マジかよ。一撃だぜ?」  亜竜の胴を剔った大きな傷を見て、エイシスは驚嘆の声を上げた。以前彼が、満身創痍になりながらやっとの思いで倒した魔物である。 「黒剣の力なら、本物の竜が相手だって同じことができるわ」 「それほど古いものじゃねーぞ。ヴェスティアはここにいるのか?」 「さぁ……、行けばわかるでしょう」  その言葉は正しかった。  さらにしばらく荒野を進んだ二人は、一つの答えを見つけた。  荒野の中に、小さな丘がある。  エイシスにもはっきりとわかった。ここが、中心だ。  だとすると、黒剣はここにあるのだろうか。  しかし、周囲には何もない。誰もいない。  フェイリアは丘の頂に登ると、唇を噛んで地面を見つめていた。魔力を集中させて、ここで起こったことを読み取っている。 「……遅かったわ。遅すぎた……」 「え?」 「ヴェスティア・ディ。バーグは死んでいた。ずっと昔に、ここで息絶えた」 「死んだ? まさか……、黒剣の王が? 何故?」  黒剣の所有者とは、すなわち大陸最強の存在だ。そう易々と死ぬことなどあり得ない。 「あの時、私とディックはヴェスティアにかなりの深手を負わせていた」 「しかし、致命傷となるほどではないんだろう?」  そう。ヴェスティアに致命傷を与える前に、返り討ちに遭った。従兄弟のディケイドもアークスも、その時に殺された。 「黒剣を追っていたのは私だけじゃない」 「……あ、墓守……か?」  王国時代の危険な力を封じる者、墓守。彼女らにとって黒剣とは、なんとしても封印せねばならない王国時代の負の遺産だろう。 「ファーリッジ・ルゥなら、傷ついたヴェスティアを倒せたかもしれない」 「だったら黒剣は、ファーリッジ・ルゥかソレアが持ち去ったはずだろう?」 「その前に殺されたんじゃない? ファーリッジはヴェスティアに殺された。だけどヴェスティアも致命傷を負って、ここで力尽きた」  フェイリアの言葉は推測に過ぎなかったが、本人が考えている以上に真実を言い当てていた。 「じゃあ、黒剣はどうなったんだ?」 「ヴェスティアの死後、誰かが持ち去ったのね」 「誰が」  秘められた力の強さという点では、無銘の剣すら大きく凌駕する黒の剣。誰でも手にすることのできる品ではない。  それを制御することのできる人間など、大陸中を捜したところで数えるほどしかいまい。 「可能性としては……、ヴェスティアの副官だったセルタ・ルフか。それとも……」 「いずれにしても、もう終わったんじゃねーか」  エイシスは、爪を噛んで考え込んでいるフェイリアの肩をぽんと叩いた。 「ヴェスティアは死んだ。しかもフェアたちが負わせた傷が元で。自分でとどめを刺したんじゃなくても、復讐は終わったんだろう?」 「……いいえ」  しかしフェイリアは、首を横に振った。 「私もそう思っていた。ヴェスティアを殺せば終わる、と。だけど違う。実際にそうなってわかった」 「フェア……」 「黒の剣、よ。あれがある限り、何も終わらないの。私の中で、何かがそう叫んでいる」      * * * 「やっぱり……」  修学旅行のおみやげを持ってきてくれた由維に、顔を見るなりジト目で睨まれた。 「や、やっぱりって、何が?」  冷や汗を流しながら、奈子は白々しく訊く。  由維は持っていたおみやげの包みをテーブルに置くと、いきなり奈子が着ているシャツのボタンを乱暴に外した。 「やだ、ダメ! こんな明るいうちから……」  冗談でその場を逃れようとした奈子だったが、由維の目は誤魔化せなかった。  露わになった胸に、いくつもの赤い痣――キスマーク――が残っている。 「いや、あの、これは……」 「………」  由維の頬がぷぅっと膨らむ。  怒っている。  かなり怒っている。  相手が誰か、わかっているのだろう。エイシスやハルティ、あるいは亜依の時とは比べものにならないくらい、はっきりと不快な表情をしていた。 (こ〜ゆ〜時は……)  奈子はなんの前振りもなく、由維を抱きしめた。 「ゴメン、由維……」  耳元でささやく。唇がそっと、耳朶に触れる。 「そ〜ゆ〜誤魔化し方って、卑怯」 「あ、やっぱり?」  由維は奈子の腕を振りほどくと、顔を赤らめながらもぷいっと後ろを向いた。  それをもう一度背後から抱きつき、うなじに唇を押しつける。  手を、胸の上に乗せる。 「や……だ……」 「ね、由維。許して?」 「や……ぁ、こんな風に、身体に言うこと聞かせようなんてズル……い」  由維は真っ赤になって俯き、唇を噛んで愛撫に耐えている。 「私、免疫ないのにぃ……」  切ない吐息が漏れる。  口では文句を言っても、身体が反応している。 「や…ぁ……」 「愛してる」  頬に手を当てて後ろを向かせ、唇を重ねた。  舌を絡ませ合う。長い時間をかけて。  その間も、もう一方の手は由維の胸を優しく撫でている。 「ん……ふ……ぅ」  伏せられた由維の長い睫毛が、微かに震えている。  ゆっくりと唇を離すと、由維は後を追うように舌を伸ばしてきた。奈子はもう一度顔を近づけ、自分も舌を伸ばした。柔らかな粘膜同士が触れ合う。  由維は背伸びをして、強引に唇を押しつけてきた。  身体を密着させてくる。奈子も、由維を抱く腕に力を込めた。 「……んっ、……ふ……ぅ」  腕の中で、由維の小さな身体がぴくりと痙攣する。 「ベッド、行こうか?」  奈子は唇を離して訊いた。 「……だぁ〜、め!」  潤んだ瞳で荒い息をしていた由維だったが、胸の上に置かれていた奈子の手を思いっきりつねり上げる。 「イ……いたたたた……!」  奈子は反射的に由維の身体を放した。 「もぉ、奈子先輩のエッチ! 女ったらし! ホントに節操ないんだから!」 「とか言って、自分だって感じてたくせに。もうぐっしょりなんじゃないの?」  赤くなった手の甲を擦りながら、ぼそっとつぶやく。 「……なにか言った?」  目が据わっている。恥ずかしさを誤魔化すかのように、いっそう怒りを前面に出してくる。 「大体、ズルいですよ! 修学旅行で何日も奈子先輩に会えなかったのに、それでいきなりこんなことされたら……」 「キスだけでイっちゃう、と」  声を上げて笑いながら、奈子はソファに腰を下ろした。  奈子にとっても一週間ぶりの由維とのキスということで、ついやり過ぎてしまったことは否めない。  しかし、ほどほどのところで止めておかないと。 「お土産の辛子明太子、あげませんよ?」  ……ということになる。  奈子は慌てて全面降伏した。  顔の前で手を合わせる。 「ゴメン! 本っ当にゴメン! 謝るから、どうかそれだけは!」 「まあ、これも、モテる恋人を持った宿命なのかもしれないけど」  由維は溜息をつきながら、肩をすくめた。 「でも、怒ってるんですからね、私。謝ったくらいじゃ許してあげない」 「じゃあ、どうすれば?」 「一つ、言うこと聞いてくれる?」 「……何を?」  奈子は顔を上げて首を傾げた。      * * *  赤茶けた土に被われた荒野。  乾いた風が大地の上を静かに流れる。  生き物の気配がまったく感じられない。動物の姿がないのははもちろん、草一本生えていない。それが、マイカラスの砂漠との大きな違いだ。  雨が降らないためではない。その証拠に、地面を少し掘り返せば湿った土が現れる。  生命の存在を拒んでいるのは、この地を被う強大な魔力だった。  荒野の中にぽつんと、石造りの建物がある。  王国時代の神殿風の建物、それが、この地の中心だった。  奈子は陽の高いうちにここを訪れるのは初めてなので、どうにも違和感を覚える。  聖跡の風景といえば、夕暮れか明け方というのが定番だった。  聖跡――今から千五百年前の伝説の竜騎士、エモン・レーナの墓所。  戦いの女神の化身が眠る地。  コルシア平原の西の端、大陸を南北に貫く中央山脈に近いこの場所は、普段は近付く者もいない。  ここは、禁忌の地なのだ。  過去、様々な国によって数え切れないほど試みられた聖跡の調査と発掘は、その全てが失敗に終わり、無数の死者を出した。  聖跡は、想像を絶する力を持った番人によって護られている。  クレイン・ファ・トーム。  かつてはトリニアの青竜の騎士だった人物。史上最強の竜騎士と呼ばれたクレインの亡霊が、この地を護っていた。 「これが、聖跡……」  由維がつぶやく。 「別に、見たって面白いもんじゃないっしょ?」 「でも、独特の雰囲気がありますよ、やっぱり。ものすごい魔力が、ここに集中してるのが感じられるもの」  由維はカメラを取り出して、続けてシャッターを切った。そういえば奈子は、こちらにカメラを持ってこようなんて考えたこともなかった。  他の人ならともかく、奈子の事情を知っているソレアやファージとなら、一緒に撮っても問題なかっただろうに。今は大抵ユクフェが一緒だから、そういうわけにもいかないが。 「じゃ、中に入りましょうか」 「入るの? やっぱり?」  由維はやる気満々だが、奈子としてはあまり気が進まない。 「当然。じゃなきゃ、なんのためにここまで来たのか」 「でもさぁ、クレインっていまいち何考えてるのかわかんないし。無事に帰ってこれる保証もないし……」 「クレインさんに敵意があったり、魔物に襲われたりしたら、奈子先輩を盾にして逃げますから」 「あんたねぇ!」 「ファージと浮気してたくせに」 「う……」  これを言われると弱い。  留守中の浮気を許す代償として聖跡へ連れて行け、と由維に言われたのだ。  由維は奈子以上に熱心にこの世界について調べているから、聖跡に興味が湧くのも当然だ。そして奈子は、これまで二度聖跡に入って無事に帰ってきたという、希有な存在だった。  奈子が一緒ならば、おそらくクレインは敵対しない。その期待は充分にあった。 「じゃ、行きましょ」 「……うん」  奈子は渋々、聖跡の入口へと向かった。建物は小さいが、その下には迷路のような地下道が広がっている。 「ドキドキしますねぇ」  興奮した面持ちで、由維は周囲を見回した。  外と違い、建物の中に入ると空気がひんやりしている。 「すべては、ここから始まったんですよね」 「……そうだね」  最初の竜騎士、エモン・レーナが眠る墓所。  王国時代の失われし力が現存し、ファージの不死の秘密が隠された場所。  建物に入ってすぐ、通路は下りの階段となる。奈子は魔法の明かりを灯して階段を下りた。由維がその後に続く。  二人の足音が石造りの通路に響く。  階段も通路の壁も、四角い石を組み合わせて造られている。  紙一枚分の隙間もなく組まれた石。王国時代の建築に共通した様式だ。  所々に枝道のある複雑な回廊を、奈子は迷うことなく進んでいく。 「道、わかるんですか?」 「ここに来るのも三度目だしね。……いや、四度目だっけ? あれ?」 「うわぁ。なんかすごく不安」 「大丈夫だって。あ、こっちだ」  二股に分かれた通路を右へ曲がる。その先はまたすぐ階段になっていた。  しばらく通路を歩いて、いくつかの階段を下って。  そろそろ由維が不安になってきた頃、目的の場所に到着した。  金属製の重々しい扉が、通路を塞いでいる。 「ここ……だ」  奈子は、扉に手をかけた。  前に来た時と同様、重い扉はゆっくりと開く。中から、赤い光が漏れてきた。  そこは、広い部屋だった。  中央部に、床から天井まで届く直径一・五メートルほどの赤い光の柱が三本、一辺十メートルほどの正三角形を描くように立っている。その三角形の重心に、一抱えほどもある透明な結晶が浮かんでいた。  何もかも、最後に訪れた時と同じだ。  奈子は部屋の入口に立って、注意深く周囲を探る。  クレインの気配はない。もちろん、奈子が来ていることは気付いているはずだが。 「この部屋だけ、造りが違いますね」  床、壁、そして天井と順番に見ていた由維が言う。  確かにその通りだ。  ここまでの通路が黒っぽい石を組み合わせているのに対し、この部屋は床も壁も天井も、白っぽい材質で造られている。  普通の石ではない。金属の光沢も冷たさもない。むしろ、陶器か何かのように見えた。 「この材質、あれに似てません?」 「あれって?」 「この間の……、レーナ遺跡」 「――――」  由維の言う通りだ。ゴールデンウィークに二人で訪れた、マイカラスの砂漠にある遺跡。  この部屋を造る材質は、あの遺跡と同じものだろう。 「でも、それが意味するところは?」 「さあ。そこまではなんとも」  由維は部屋の中央部へと進んでいった。例の、光の柱を調べるのだろう。 「この人が、クレイン・ファ・トーム……」  入口からもっとも近い柱の中には、クレインの姿が浮かんでいる。  細胞の一つ一つ、いや分子の、原子の一つ一つまで完璧に再現された、立体映像。  生前のクレインの、完璧な記憶だ。  右手の柱には、ファージの同じものがある。  何度殺されようとも、ここに保管された情報から、元の姿を記憶も含めて再現することができる。  それが、クレインとファージの不死性の秘密だ。無限ともいうべき聖跡の魔力が、それを可能とする。 「でもホント、聖跡ってなんのために造られたんでしょうね? エモン・レーナの墓所っていうけど、肝心の人物はここに保管されていないし」  由維は左手の柱を見た。この三本の光柱のうち、唯一、中が空のものだ。少なくとも、現在は使用されていない。 「これはなんのため……? 万が一のための予備とか?」 「いいや」  奈子は首を振った。 「これこそが、聖跡の真の目的なんだ。そうでしょう、クレイン?」 「え?」  由維が驚いて振り返る。  二人が入ってきた入口の傍に、先刻まではいなかったはずの人影があった。  緩やかなウェーブのかかった銀髪を長く伸ばした、背の高い、美しい女性だった。  口元に微かな笑みを浮かべ、鋭い瞳で二人を見つめている。 (この人が……クレイン。聖跡の、番人……)  由維は、言葉を発することができなかった。  ごくりと唾を飲み込む。  光柱の中の完璧な立体映像が再現していないものが、そこにはあった。  クレインがまとっている、独特の気。  圧倒的なまでの力。  触れただけで身体が切り裂かれそうな……。  それはまるで、人の姿をした刃のようだった。  奈子も、ゆっくりとクレインの方に向き直った。 「今は使われていない、この三本目の柱。ここには本来、エモン・レーナの記憶が収められていたんだ。他に考えられないじゃん。違う?」 「え……?」  由維は驚いたが、クレインの口元は微かに緩んだように見えた。 「いつ、気付いた?」  静かに訊き返してくる。  透き通った、声。 「この前来た時、あんた言ったじゃん。ここはエモン・レーナの墓所であり、揺り籠でもあるって。そういう意味なんでしょう?」 「ちゃんと聞いていたんだな」  からかうようなクレインの口調は、肯定の証だった。 「奈子先輩……?」 「出身不明。ある日突然現れた謎の竜騎士。彼女はどこから来たのか……ここしかあり得ない。他の二つの方が予備なんだ。それを、あんたとファージが使っている」 「そうだ。聖跡は……この『光の間』は、トリニアよりもはるかに古いものだ。エモンの死後に築かれたのは、地上部分とここへの通路だけでしかない」 「やっぱり……ね」  奈子は、鋭い目でクレインを見つめていた。  そのために幾分怒っているようにも見えたが、口調は冷静だった。  クレインは静かな笑みを浮かべている。 「じゃあ……え? いったい……、聖跡って、エモン・レーナって、何?」  由維は狼狽えながら、奈子とクレインの顔を交互に見ていた。 七章 黒のヴェスティア  扉が静かにノックされる。  アィアリスは顔を上げた。  返事を待たずに扉が開く。そんな無礼なことをする人間は、ここには一人しかいない。  艶やかな褐色の肌を持つ、美しい女性が入ってくる。  手にした銀のお盆には、ティーポットと、カップが二つ。 「午後のお茶をお持ちしました。……私もご一緒してよろしいですか?」  丁寧な口調の割に、あまり敬意が感じられない。彼女――セルタ・ルフ・エヴァン――はここで唯一、アィアリスと対等な存在だった。 「……あなたがすることではないでしょう?」  慣れた手つきでお茶の仕度をするセルタを見て、呆れ顔で言う。いくら、今の教会が人手不足とはいえ。 「慣れていますから。子供の頃は、これが仕事でしたし」  抑揚のない声で応える。 「メイドが?」  アィアリスは眉を片方上げた。 「あなた、ティルディア王国の騎士でしょう。ヴェスティア・ディの副官として」  幾分、驚き混じりに訊く。それとも、ヴェスティアは副官にお茶の仕度までさせていたのだろうか。 「それは、成人してからの話ですから」 「じゃあ、その前は?」  アィアリスの瞳にほんの少し、好奇の色が浮かんだ。そういえばこれまで、セルタの身の上について詳しく訊いたことなどなかった。  黒の剣を探す途中に見つけた資料で、その名は知っていた。ヴェスティアの副官、そしておそらく愛人だったことはわかっている。しかし、それ以上詳しく調べる必要があるとは思わなかった。  それに第一、余計なことを調べている時間もなかった。アィアリスは忙しい身なのだ。  いきなり中枢を失って大混乱に陥ったトカイ・ラーナ教会をまとめ上げ、その実権を掌握すること。  混乱に乗じて中原に進出しようとした、ハレイトン王国の軍勢を撃退すること。  教会の支配圏である中原十カ国の王たちと会談し、これまでと変わらぬ忠誠を誓わせること。  そして、黒の剣を手に入れること。  それが、トゥラシとアルンシルの消滅以来数ヶ月、アィアリスがやってきたことだ。忙しいどころの話ではない。  特に、教会の再建は大仕事だった。最近ようやく形だけは整い始めた、というところだ。  トゥラシからさらに数日コルザ川を溯ったところに、カムンシルと呼ばれる、教会の古い施設がある。アィアリスはここを、教会の新たな総本山とした。  トゥラシのような大きな街はないが、ここが、彼女の生まれ故郷だった。  しかし別に、人間じみた感傷でここを選んだのではない。  カムンシルには、主要な施設がアルンシルへ移される以前の教会の学院があり、王国時代の魔法技術の研究もここで行われていたのだ。  アルンシルで行われていたことを続けられるのは、ここしかない。 「……で、あなたは何者なの?」  カップを口に運びながら、アィアリスは訊いた。  それまで無言でお茶を飲んでいたセルタが、微かに笑う。 「ティルディア王国へ行く前の生業は、娼妓でした」 「……は?」  さらりと、あまりにも自然な口調だったので、一瞬、聞き間違いかと思った。  セルタはそんなアィアリスの反応を楽しんでいるようだ。 「小さい頃から娼館で育てられてきましたから。客を取れるようになる前は、お茶の仕度はもちろん、細々とした雑用すべてが私の仕事でした」      * * *  コルシア大平原の南東に連なる山地を越えて海岸線に出ると、そこにウルという街があった。  大陸南部、あるいは南洋の島々との貿易で栄える、大きな港街だ。  大勢の商人、船乗り、そして旅人たち。街はいつも大勢の人間で賑わっていた。  当然、そうした人間相手の商売も栄えることになる。  宿。酒場。  そして、春を売る女たちも。  航海中は大抵、禁欲生活を強いられることになる。恋人や妻を遠い故郷に置いて長い旅をする男たちのために、それは必要な存在だった。  初めてその客を見た時。  ウルの街に無数に存在する娼館のうちでも、もっとも上質の女たちが揃っていると評判の『珊瑚館』の女主人、サリーディア・ティル・エヴァンは、微かに驚きの表情を見せた。  なにしろ、相手は女性である。  当然の事だが、珊瑚館の客はそのほとんどが男性だ。余所では、女性向けに男娼を揃えているところもないわけではないが、この館は違う。  とはいえ、十三歳の頃から二十年以上もこの仕事をしているサリーディアである。これまで女性客がまったくいなかったわけではないし、片手で数える程度ではあるが、彼女自身でもてなしたこともある。  だから、驚きの表情は一瞬で消え、すぐに普段通りの笑みを浮かべた。 「いらっしゃいませ。ようこそ、珊瑚館へ」  サリーディアがお辞儀をするのに合わせて、真紅のドレスが揺れた。  同時に、すばやく相手を観察する。  身長は人並みで、どちらかといえば細身だ。  透き通るような白い肌に、漆黒の長い髪と黒い服。そして瞳も黒い。  まるで、墨で描かれた絵のようだ。色彩というものが欠如している。  それだけに、紅い唇が印象的だった。  身なりはいい。腰に剣を差している。すかさず左腕を見た。  白金製の腕輪。コルシア平原南部にある、ティルディア王国の紋章が彫られている。  すると、彼女は騎士なのだ。 (なるほど……)  トリニアの伝統を残すコルシア平原の国々では、女性騎士もそれほど珍しい存在ではない。そして、女性騎士には「そういう趣味」を持つ者が比較的多いという。  ならば、そう驚くほどのことではない。  ティルディアの騎士となれば、懐も豊かだろう。どうやら上客だ。 「四、五日くらいだが、部屋はあるか?」 「ええ、もちろん。ご用意できますわ」  珊瑚館は、女を抱くためだけの場所ではない。いわば「女と食事つきの高級宿」である。 「ところで、どのような娘がお好みでしょう? 私どもは、およそあらゆるご希望にお応えできると思います」 「そうだな……」  女騎士の口元に笑みが浮かぶ。 「できるだけ気の強い、跳ねっ返りがいいな。喩えて言うなら、山猫のような性格ってところか」 「それならば、まさにぴったりの娘がおります。きっとご満足いただけるでしょう」 「それは楽しみだ」  サリーディアは深々と頭を下げると、奥に向かって叫んだ。 「セルタ、お客様のお荷物を運んでちょうだい」  はーいという返事とともに、褐色の肌をした十歳くらいの女の子が、ちょこちょこと走ってきた。  礼儀知らずとは思ったが。  それでも、荷物を抱えて部屋へ案内しながら、ちらちらと相手の顔を見てしまう。  百戦錬磨のサリーディアでさえ驚いたのだ。幼いセルタにとっては、女性の客なんて珍しくて仕方がない。  その女騎士が不意にこちらを見て、まともに目が合ってしまった。セルタは慌てて前を向く。  相手が、小さく笑ったような気がした。 「お前、名はなんという?」 「セルタ・ルフと申します」  歳に似合わぬ丁寧な口調で応える。一応、客に対する礼儀は仕込まれている。 「お前も、客を取っているのか?」 「いいえ、騎士様。わたしはまだ子供ですから」  セルタはぺろっと舌を出した。 「……その時のために修行中です。だから今は下働きで」 「そんな子供が、何故ここに?」 「ええと……。赤ん坊の頃、捨てられたらしいです」  セルタは捨て子だった。  当然、自分では憶えていないが、街はずれの森に捨てられていたのをたまたま見つけたのが、この館の用心棒をしていた傭兵だった。彼は放っておいて獣の餌にするのも忍びなく思い、連れて帰ってきたのだそうだ。  だから本当の親も、故郷も、本名もわからない。  褐色の肌と亜麻色の髪、そして濃い茶の瞳は、大陸南端に近いエサン地方に多い特徴だ。それがどうして、遠く離れたウルに捨てられていたのかもわからない。  セルタという名は彼女を拾った傭兵がつけてくれたものであり、エヴァンはサリーディアの姓だ。珊瑚館には他にも似たような境遇の娘たちがおり、サリーディアはその親代わりだった。 「なるほどな。しかし、あと一、二年というところか? 南国の娘は早熟だというしな」 「はい、おそらく。お客様の中には、わたしのようなまだ幼い娘を好むお方も多いそうで」 「ふむ」  女騎士は片手でセルタの顎を掴むと、乱暴に上を向かせた。 「まだまだ原石だが、かなりの上玉だな。将来が楽しみだ」 「あ……ありがとうございます。騎士様」  セルタは頬が熱くなるのを感じていた。彼女を「上玉だ」と言うこの女騎士こそ、思わず見とれるほどの美女だった。  間近で見つめられると、胸がどきどきする。  その漆黒の瞳に見つめられると、魂が吸い取られるようだ。 「ヴェスティア、だ。ヴェスティア・ディ・バーグ」 「……ヴェスティア様」 「私が、お前の最初の客になってやろう。忘れるなよ」 「……え」  一瞬、何を言われたのかわからなかった。  小さく口を開いて、ぼんやりとヴェスティアの顔を見る。  それからようやく、今の言葉が頭の中に入ってきた。 「どうした、返事は?」 「……は、はい! あの……えっと、た、楽しみにしています!」  そう応えると、セルタは耳まで真っ赤になって俯いた。  キャイナ・フィアは、珊瑚館でも指折りの美少女だった。  小柄だが胸は大きく、それでいて腰は細くくびれ、尻から太股にかけて艶めかしい曲線を描いている。  挑発的な大きな瞳も、小振りな紅い唇も、見る者を魅了する強力な武器だった。  そして、彼女の武器は外見だけではない。  まだ十七歳の若さでありながら、サリーディアも感心するほどの手練手管。男を悦ばせるその技巧は、まさに天賦の才だった。  当然、客の人気も高い。高い……が、館で一番ではない。実は彼女、性格に少々難があった。 「今夜の客は女だって? で、どんな奴?」  鏡の前で化粧をしながら、キャイナは訊いた。 「えっと。ヴェスティア・ディ・バーグ様といって、外国の騎士様らしいです」  セルタが応える。 「長い黒髪の、とても美しい方でした。美しくて……そして、少し怖い雰囲気の」 「珍しいね。ま、男だろうと女だろうと、あたしにかかればイチコロだけど」  仕上げとして唇に紅を引いた後、手鏡の角度を変えて化粧の出来映えを確認する。キャイナは満足げに微笑んだ。 「そんな簡単そうな相手じゃありませんでしたけど」 「まあ見てなって。セルタ、ドレス取って。違う、その右の黒いやつ」  衣装棚にずらりと並んだドレスの中から、露出の多い、光沢のある黒の生地のものを持ってこさせる。姿見の前で身体に当てて。 「どう思う、これ?」 「とっても似合ってるわ、キャイナ姉様。きっとヴェスティア様も気に入ってくれると思う」 「当然でしょ。あたしを誰だと思ってンの」  キャイナは喉の奥でくっくと笑った。  これが、キャイナの困った点である。  客に対して、さっぱり敬意を払わないのだ。  容姿も技術も素晴らしいものを持っている。客を悦ばせることにかけては右に出る者はいない。  しかし、彼女はしばしばやりすぎてしまう。相手が足腰立たなくなるまで、攻める手を休めようとしない。  キャイナの相手をする男は、最後の一滴まで搾り取られるような思いをすることになる。なまじ男を虜にする肉体と技の持ち主だけに始末が悪い。  年輩の客の時など、セルタはこれまで何度、夜中に医者を呼びに行かされたことか。  本来、客の好みに合わせて一夜の恋人を演じるのが、良い娼妓というものだ。  キャイナはこれには当てはまらない。  常に自分のペースを崩さずに、客の言うことなどまるで聞かない。女性にリードされることを好む一部の客には絶大な人気を誇るが、万人向けとは言い難い。 「さあて、倒錯した趣味の田舎騎士をたっぷり可愛がってやるか。一晩中ひぃひぃ言わせてやる」  自信に満ちた笑みを浮かべて、キャイナは颯爽とヴェスティアの泊まっている部屋へと向かっていった。  しかし、セルタの予想通り。  結果として、たっぷりと可愛がられたのはキャイナの方だった。  翌朝、部屋に朝食を運んだセルタが見たのは、乱れたベッドの上で死んだように眠っているキャイナの姿だった。  身体中に、キスマークが残っている。 (やっぱり……)  セルタは心の中でつぶやいた。  こうなると思っていた。昨夜は一晩中、キャイナの悲鳴がセルタの寝床まで聞こえていたから。  ヴェスティアは全裸のまま、窓辺に椅子を置いて外を眺めていた。  静かな表情だった。こちらには、あんな激しい夜を過ごした痕跡はまるで残っていない。 「ヴェスティア様、お茶をお持ちしました」 「ああ、ありがとう」  お茶のカップを差し出してから、セルタはまた背後のベッドを振り返った。  疲れ切って、死人よりも深い眠りに落ちている。  こんなキャイナは初めて見た。彼女の客がこうなっているのは、いつものことなのだが。 「心配するな、生きてるよ」 「……はい」 「どうした?」 「えっと……あのっ、ヴェスティア様って、その……すごいですね」  口にしてから、なんて間抜けな台詞だろうと反省する。もっと、気の利いたことの一つも言えないものだろうか。 「いずれはお前もそうなるんだからな、覚悟しておけよ」 「……はい」  セルタは俯いた。  顔が、かぁっと熱くなる。  どうして、こんなにどきどきするのだろう。これまでにも、他の客から同様のことを言われたことは何度もあるのに。  これではまるで、出会ったばかりのこの騎士に恋しているみたいではないか。  椅子から立ち上がったヴェスティアが傍に来る。全裸のままで、セルタはその見事なプロポーションに目を奪われた。  顎の下に、手が当てられる。強引に上を向かされる。  ヴェスティアの顔が、すぐ目の前にあった。  唇が重ねられる。  本当は、これはルール違反だ。「デビュー前」のセルタに手を出すのは。  しかしセルタは抗わなかった。  むしろ、いつまでもこうしていたいと、そう思った。  初めてのキスというわけではない。キスくらい、館の先輩たちにさんざん仕込まれている。  だけど、このキスは特別だった。  軽く唇が触れただけなのに、全身がとろけてしまうようだった。  以来、ヴェスティアは時々ウルの街を訪れるようになった。もちろんその度に、珊瑚館に滞在していく。  数ヶ月に一度のヴェスティアの来訪を、セルタは心待ちにしていた。  もっとも、ヴェスティアを待ちこがれていたのはセルタに限ったことではない。キャイナを始めとして、一度でもヴェスティアの相手をした者は、すっかりその虜になっていた。  そんなある日のこと。  サリーディアの命で街までお遣いに行ったセルタは、ちょっとした小競り合いの場面に出くわした。  別に、珍しいことではない。  ウルの街は船乗りが多く、彼らは基本的に力自慢の荒くれ者たちだ。その上、海賊などに備えるために雇われた傭兵の姿も多い。  通りをしばらく歩いていれば、喧嘩の一つや二つ目にするのが当たり前だ。怪我人、死人が出るような争いも少なくない。  しかし、その場面は特別だった。  屈強な男たちが数人で、一人の女騎士を取り囲んでいる。  遠くからひと目見ただけで、それが誰かわかった。  黒い髪に、黒い服。色彩というものが欠如したようなその外見。 (……ヴェスティア様!)  男たちは熱り立ち、なにやら剣呑な雰囲気である。しかし不思議と、不安は感じなかった。  むしろ、愚かな男たちに憐れみすら覚えるほどだ。  セルタがそちらに足を向けた時、ヴェスティアが動いた。  剣を抜く手は見えなかった。  ぱち、ぱち。  セルタが二回瞬きする間に、五人の男たちが次々と倒れた。  後には、片手に剣を持ったヴェスティアだけが立っていた。  一瞬、その剣に目が奪われる。  まるで影のような、漆黒の刃。  夜間の戦場では、剣が光って敵に気付かれることを防ぐために刃を黒く塗ることがある、と聞いたことがある。しかし、その刃はなにか不自然だった。 「見てたのか」  ヴェスティアはこちらに背を向けていたのに、そう言って振り返った。セルタの足が止まる。 「……お、お強いんですね。ヴェスティア様」  少しだけ、笑みが引きつってしまう。喧嘩による死体を見るのは初めてではないが、あまりにも冷静すぎるヴェスティアの態度に気圧された。 「私が、怖いか?」  からかうような口調で訊いてくる。セルタは首を横に振った。 「ならいい」  ヴェスティアはセルタの肩に手を置くと、珊瑚館へ向かって歩きだした。  その事件以来、セルタは剣の使い方を学び始めた。  セルタの名付け親である、珊瑚館の用心棒をしている男に、稽古をつけてくれるように頼み込んだ。 「剣もいいけど、あまり筋肉をつけすぎるなよ。将来、商売に差し支えるぞ」  苦笑しながらそう言ったものの、快く引き受けてくれた。  特にこれといった、明確な目的があったわけではない。  ただ、そうすることで少しでもヴェスティアに近づくことができるような気がしたし、いつか、役に立てることがあるかもしれないと、漠然と思っていた。  一度、剣の稽古をしているところを、ヴェスティアに見られたことがあった。  彼女はその時は何も言わず、微かな笑みを浮かべただけだった。      * * *  やがて、セルタは十二歳になった。  胸が膨らみ、腰がくびれて、全身が緩やかな曲線を描き始める。  少しずつ「女」へと変化していく身体。これこそ、セルタが望んでいたものだ。  セルタももう、客を取ることができる。サリーディアはそう判断した。  このあたりの娘であればまだ少し早いのかもしれないが、セルタのような南方系の人種は、肉体面ではいくらか早熟なのだ。  まるでそれを見透かしていたかのように、ヴェスティアが三カ月ぶりに館を訪れた。  ヴェスティアが、セルタの初めての客となる……それは、二年前からの約束だった。サリーディアも承知している。  この夜は、姉同然の先輩たちが念入りにセルタを飾り立ててくれた。  髪を結い、お化粧をして。  取っておきの首飾りや耳飾りも貸してくれて。  みんな、セルタの門出を祝福してくれている。 「セルタって幸せ者よ。この商売で、初めての相手が本当に好きな人なんて」 「でも大変だよー。なにしろ、あのヴェスティア様なんだから。処女にはちょっと荷が重いかもね」  キャイナがからかうように言う。 「あははー。言えてるわ、それ」  一度でもヴェスティアの相手をしたことのある者は全員、その意見に同意する。あの、気が狂いそうになるほどの快楽。充分な経験を積んでいない者に耐えられるものではない、と。  セルタはもちろん処女である。先輩たちによって知識はたっぷりと仕込まれているが、実技はまだまだだ。  急に不安になる。  別に、怖いわけではない。ヴェスティアになら、たとえ何をされても構わない。  ただ、自分のような未熟者がヴェスティアを満足させることができるのかどうか。それだけが心配だった。  一番多くヴェスティアの相手をしているキャイナにそのことを相談しても、あまり役に立つアドバイスは得られなかった。 「無駄無駄。生娘がどう足掻いたって敵うわけがないんだから。何もかも諦めて、ヴェスティア様に任せておきな」  ――と。  確かに、その通りかも知れない。館で一、二を争うテクニシャンのキャイナだって、ヴェスティアの前では為す術もないのだから。  期待と不安を胸に、セルタはヴェスティアが泊まっている部屋の扉を叩いた。  返事よりも先に、中から扉が開かれる。いきなり中に引きずり込まれ、乱暴に抱きしめられた。 「……んっ!」  唇が重ねられる。  ただでさえ相手の方が上手なのに、予想もしなかった形で主導権を握られてしまっては抗いようもない。セルタはそのままベッドに押し倒された。 「ヴェ、ヴェスティア様……」  それきり、何も言えなくなった。  いろいろな言葉を用意していたはずなのに、それが一つも出てこない。  ただ、熱い瞳で真っ直ぐにヴェスティアを見つめた。漆黒の瞳に、自分が映っている。  それで、実感できた。自分が今、ヴェスティアに抱かれているのだということを。 「二年もおあずけを喰らわされたんだ。今さら余計な時間を費やす気はない」  また、唇が重ねられる。  乱暴な手つきで、服が脱がされていく。  ヴェスティアの愛撫は荒っぽい。なのに、セルタは感じてしまう。それも、生半可な感じ方ではない。  自分の指、あるいは姉たちとの遊びによってもたらされる快感とはまるで次元が違う。  指、唇、そして舌。その一つ一つの動きに、セルタは声を上げて応えた。  悲鳴、といってもいい。  気持ちいいなんて、生易しいものではない。ヴェスティアの指が動くたびに、全身を貫くような感覚だ。  痛くて。  気持ちよくて。  身体の隅々まで、ヴェスティアに支配されている。 「ヴェスティア様……ヴェスティア様ぁっ!」  セルタは何もできずにいた。ただ、泣きながらヴェスティアにしがみついているのが精一杯。  身体中の細胞一つ一つが犯されているように感じる。  今にも気を失いそうで、しかし絶え間なく全身を襲う刺激は、それすらも許してくれない。  このまま死んでもいい……、と。本気でそう思った。  これ以上続けられたら、本当に死んでしまうかも知れない。だけどそれは、この上なく幸せな死に方に違いない。 「そう簡単には死なせんぞ。まだまだ楽しませてもらわないとな」  セルタの意識を読み取ったのか、ヴェスティアがそう言って笑う。 「……だったらもう少し優しくしてください……。こ……、これ以上されたら、本当に死んじゃいますぅ……」 「お前がこれくらいで死ぬような玉か。私の目には、キャイナ以上の素質ありと映っているぞ」 「そ、そんなぁ……」 「自分で気付いていないのか? ならば、私が目覚めさせてやろう」 「ひゃあぁぁあぁぁぁっ!」  優しく……どころか、愛撫が一層激しさを増す。セルタの身体が激しく痙攣し、ベッドの上で弾んだ。  身体中の神経を引きずり出されて、強引に快感を注ぎ込まれるような感覚だろうか。  いっそのこと、気を失うことができれば楽なのに。  しかしそれは許されず。  そして、夜はまだまだこれからだった。     「……生きて……る?」  それが、第一声だった。  セルタが目覚めると、もう陽は高くて。  ヴェスティアが、微笑みながらこちらを見下ろしていた。  明け方、東の空が白みはじめた頃までは記憶がある。さすがにそのあたりで力尽きてしまったようだ。  起き上がろうとしたが、身体に力が入らない。寝返りを打つのが精一杯だ。  シーツに付いた紅い染みが目に入って、セルタは思わず赤面した。  女、になった証。この館の一員としての第一歩。  恥ずかしくて、だけどそれが嬉しい。  しかもその相手がヴェスティアなのだから。  きっともう、この人なしでは生きていけない――そう思った。  この先、数え切れないほどの男と寝ることになるだろう。それでも、心はヴェスティアのものだ。 「どうした?」  ヴェスティアの指が顔に触れる。 「何を泣いている?」 「泣いて……?」  言われてから気付いた。涙が頬を伝っている。  ヴェスティアの指がそれを拭った。 「……あなたを、愛しています」  セルタは泣きながら言った。悲しいのではない。その逆だ。 「その気持ちは、これからもずっと変わらないと誓えるか?」 「もちろんです。この生命ある限り、永遠に」  嘘も誇張もない。心からの言葉だった。  永遠に、この人の傍にいたい。そのためならば、何を引き替えにしても構わない。 「そうか。ならば、十五歳になったら私と一緒に来い。お前を落籍してやる」 「え……?」 「剣の稽古は続けておけよ」 「……ヴェスティア……様?」  その言葉の意味が頭に染み込むのに、ずいぶんと時間を必要とした。喜びよりも先に、驚きの気持ちが意識を支配する。 「ヴェスティア様……」  他に何も言えなかった。セルタはただ、ヴェスティアの腕の中でいつまでも泣き続けていた。      * * *  それから三年。  十五歳になる頃には、セルタはすっかり売れっ子となっていた。  美しさと可愛らしさの絶妙なバランスを保った顔立ち。  南方系人種ならではの魅惑的な身体。ビロードのように滑らかな肌。  サリーディアやキャイナ、そしてなによりヴェスティアによって鍛えられた技巧。  珊瑚館のセルタ・ルフといえば、ウルの街では知らぬ者のない、男たちの憧れの的だった。彼女がウルからいなくなれば、悲しむ者は多いだろう。  しかしそうなるのも、遠いことではなかった。  約束の日まで、あと数日。次にヴェスティアがやって来た時、一緒にこの街を発つことになっている。ヴェスティアに落籍されるのだ。  ヴェスティアはきっと、珊瑚館の常連客たちに恨まれることだろう。  これまで、セルタを落籍して妻妾にしようとした男は数知れない。しかし、誰もヴェスティアには逆らえなかった。  彼女は誰よりも早くにそれを約束し、誰よりも高い値を付け、そして誰よりも強い力を持っていた。  そしてなにより、セルタがそれを望んだのだ。  ヴェスティアがウルを訪れるのは、数ヶ月に一度。次の来訪を待つまでの間、どれほど切ない思いをしたことか。しかしもう、そんな悲しみは無縁のものだった。  これからはずっと、ヴェスティアの傍にいられる。なんと幸せなことだろう。  一緒にいられるならば、身分なんてどうでもいいと思っていた。  それなのに、セルタはヴェスティアの許で騎士見習いになるのだという。  信じられない幸運だ。  この年頃の少女の多くがそうであるように、セルタも騎士というものに憧れを持っている。  王国時代の末期、セルタと同じエサン地方の出身でトリニアの騎士となった、ラクーナ・ショウという女性がいた。かのユウナ・ヴィ・ラーナの副官として、ストレイン帝国との戦いで活躍した竜騎士だ。  彼女のように、ヴェスティアの右腕として働けたらどんなに素晴らしいだろう――剣の稽古を始めた頃、漠然とそんな想いがあった。  その夢が、手の届くところまで近付いていた。  この数日、セルタの心は弾んでいた。  住み慣れたウルの街を離れ、サリーディアや珊瑚館の先輩たち、あるいは贔屓にしてくれた常連客と別れることは辛い。  しかしそれ以上に、ヴェスティアと共に生きていくこれからの人生は魅力的だった。  いつものように街へお遣いに行く足どりも、傍目にはまるで踊っているように見えたことだろう。 「やあセルタ、楽しそうだね。今夜は空いてるかい?」  通りで声をかけてきたのは、この街でも有数の大商人の息子の、ネイストという男だった。まだ若いのに店の一つを任されている、かなりの商才の持ち主だ。  セルタを贔屓にしている珊瑚館の常連客で、これまで何度かプロポーズされたこともある。 「ええ、若旦那のために空けてあるわ。来てくれる?」  セルタは愛想良く応えた。  この仕事をしている以上、気に入っている客も嫌な客もいるが、この男のことはかなり好きだった。もちろん、ヴェスティアを別格としての話だが。 「ああ、もちろん行くさ。もうこれが最後だろうしな」 「ごめんなさい。お詫びに、今夜は最高のサービスをするから」 「セルタはいつだって最高だよ」 「ふふっ」  ありがとう――そう言おうとして。  しかしその言葉は、突然の爆発音にかき消された。  街のあちこちで悲鳴が上がる。街の中心部にある教会の尖塔が、炎に包まれて崩れ落ちていくのが見えた。 「な、なんだ! ありゃあ……」  ネイストが目を見開いて空を指差す。その先に、黒い大きな影が舞っていた。  セルタも小さく悲鳴を上げる。  それは、見たこともない巨大な魔物だった。元々この地方は、王国時代に激しい戦場となったコルシア平原に比べれば、魔物の姿は極めて少ない。セルタが知る限り、街が襲われたことなどない。  だから、巨大な翼を広げて街の上を舞う漆黒の魔物の姿は、人々を恐怖のどん底に陥れるのに充分すぎるものだった。  魔物の口から閃光が迸る度に、建物が崩れていく。人々は悲鳴を上げて逃げ惑う。  セルタも大急ぎで珊瑚館へと戻った。  驚いたことに、館の前にヴェスティアの姿があった。セルタの姿を見て微笑む。 「ヴェスティア様!」 「予定より少し早いが、行くぞ。すぐ支度しろ」 「えっ? でも」 「急げ。これ以上街の被害を大きくしたくなければ、な。サリーディアには話をつけてある」 「は、はいっ」  事情もわからぬまま、セルタは慌てて旅支度をした。そもそも、持って行くつもりでいた物はそう多くはない。館で着ていた商売用の煌びやかな衣装などは、すべて妹分である新入りに譲った。これからの人生には無用の物なのだ。  動きやすさを重視して選んだ衣類と、いくつかの身の回りの物。それだけだ。  荷物をまとめて館を出ると、ヴェスティアの傍にサリーディアの姿もあった。街で突然に起こった騒ぎのためだろうか、幾分青い顔をしている。  それでも、セルタを見て微かな笑顔を浮かべた。 「セルタ、これを持って行きなさい」  サリーディアは、一振りの長剣を差し出した。見るからに優れた造りの、真新しい剣だった。 「私たちからの餞別よ」 「サリーディア……」 「騎士というのも大変なものよ。決して、格好いいだけではないわ。……それでも、あなたにとってはこの方が幸せなのでしょうね」 「……はい」  剣を受け取ると、セルタは力強くうなずいた。  ゆっくりと別れを惜しむ間もなく、ヴェスティアに促されて館を発った。街のあちこちで火の手が上がっているのが見えたが、あの魔物の姿はない。 「ああ、私が始末した」 「ヴェスティア様がっ?」  ヴェスティアが極めて強い力を持っていることは知っている。それにしてもセルタが荷造りをしているわずかな時間で、あの巨大な魔物を倒したというのなら驚きだ。 「……あれは、なんなのですか?」 「亜竜。王国時代後期に人の手で生み出された、ドールの一種だ」 「亜竜……、あれが」  ドールとは、王国時代の魔法学者たちが生み出した人造の魔物の総称だ。  亜竜はその中でも、もっとも強力なものだと言われている。数は極めて少ないが、現在でもその末裔がわずかながら生き長らえているという。 「でも、そんな魔物が何故」 「私を追ってきたんだ」 「え?」 「急いで街を出るぞ。すぐまた次が迫っているからな。街の中では、被害を出さずに倒すのが手間だ」  まだ混乱の収まりきっていない通りを、全速力で駆けていく。そのため、それ以上質問することはできなかった。  二人が向かったのは、街の北西だった。交易に用いられる大きな街道は街の北側に延びていたが、それを避けて普段はあまり通る者のいない方の道を選んだのだ。街道に比べて道は険しいが、その分距離はずっと短い。  ようやく山道に入ったところで、前を進んでいたヴェスティアが立ち止まった。小さく舌打ちする。  激しい音とともに、樹々を薙ぎ倒して巨大な黒い影が降り立った。 「あ……亜竜……、これが……」  セルタは言葉を失った。間近から見上げるそれは、信じられないほどに大きく、禍々しい存在だった。  全身は漆黒の鱗に覆われ、大きく裂けた口の中は血の色をしている。鋭く並んだ牙は、一本一本が大型の短剣ほどもあった。  セルタはその場に立ち竦んだ。膝が震え、歯がかちかちと鳴っている。  ヴェスティアの手から閃光が迸り、亜竜の巨体を貫いた。森の中に咆吼が轟く。  それでもまだ倒れない。しかしその一瞬の間に、ヴェスティアは魔物との間合いを詰めていた。亜竜の鱗よりも黒い刃が閃く。  剣が抜かれた瞬間、ヴェスティアを中心に突風が吹いたように感じた。それほど強力な魔力を帯びているのだ。  亜竜の巨体は大きく痙攣し、地響きを立てて崩れ落ちた。 「いったい……これは……」  唇がからからに渇いて、うまく声が出せなかった。掠れるような声を絞り出す。 「私を狙っている。正確に言えばこの剣を……、だな」  赤紫色をした血に染まった刃が、セルタの前に突き出される。  何年か前に一度だけ見た、漆黒の刃。 「黒の剣……ですか?」 「気付いていたか」  ヴェスティアの口元が綻ぶ。 「もしかしたら……と」  あの黒い刃を、そしてヴェスティアの力を見た後、ずっと考えていた。  ストレイン皇帝の魔剣の伝説は、子供だって知っている。  帝国に代々受け継がれてきた、恐るべき魔力を秘めた大陸最強の魔剣。  剣に負けない力を持つ者だけが、それを手にすることができる。  それは王たる力の証。故に、黒剣の所有者は「黒剣の王」と呼ばれるのだ。  しかしその伝説の剣が目の前にあるとは、こうして見ていてもなかなか実感がわかない。 「ヴェスティア様が、本当に黒剣の王だったなんて……」 「信じられんか? しかし、これが現実だ」 「現実……。黒の剣も、この魔物も」 「そう。こいつらは、剣を狙っている連中が放ったものだ。魔物は、強い魔力を持つ存在に惹かれる。光に集まる羽虫のように」  なまじ剣の力を完全に引き出せるから、それ故に魔物を惹き寄せてしまう。鞘に収めたままでいればそれほどの影響はないのだが、亜竜を倒すためには剣の力が必要で、剣の力を使えばまた魔物を呼び寄せることになる。  悪循環だった。 「北のコルシア平原なら、終末戦争の魔力の影響が残っているから、これほどのことはないのだが。この辺りが清浄な土地であることが逆に災いしたな。目立って仕方がない」  ヴェスティアは苦笑する。その口調に深刻さはない。 「剣を狙っている連中……?」 「この大陸を支配することのできる力だ。強引な手段を用いてでも、奪おうとする者がいて当然だろう」 「それでは……」 「と、話は後だ。客が来た」  片手を上げてセルタを制する。ヴェスティアの視線を追うと、遠くの空に四つの黒い影が見えた。  最初は鴉くらいにしか見えなかったそれは、かなりの速度で飛行しているようで、たちまちその大きさを増す。  紛れもない、亜竜だった。 「まるで大陸中の亜竜が集まってきているみたいだな。セルタ、お前はこれを持って先に行け」 「えっ」  ヴェスティアは剣を鞘に収めると、無造作に投げ渡した。反射的にそれを受け取った後で、セルタの表情が凍りつく。  今、彼女の手の中に黒剣があった。 「ヴェ、ヴェスティア様!」 「お前が持っているなら、抜かない限りは魔物に見つかることもない。剣を持たなくとも、私の力の方が強いからな」 「で、でもっ」 「この山道を越えてコルシア平原に入り、そのまま真っ直ぐにティルディア王国へ向かえ。王都クンディアナにある私の屋敷だ。私はあいつらを始末してから後を追う」  特に気負った様子もない。いつも通りの口調だ。  静かな、しかしどこか不敵な笑みを浮かべて。 「平気だ。私一人ならな。しかし正直に言って、お前を護りきれるかどうかは自信がない。複数の亜竜が相手となると、手加減はできないんだ」 「あ……」  セルタも納得した。ヴェスティアは決して、自分が犠牲となってセルタを逃がそうとしているわけではないのだ。  ヴェスティアが闘いに専念するには、セルタの存在が足枷となる。ちょっとばかり剣術をかじっただけの十五歳の少女だ。巨大な魔物と黒剣の王の闘いに巻き込まれては無傷でいられまい。  しかしヴェスティア一人ならば、なんの遠慮もなくその力を振るうことができる。黒剣の伝説が真実を伝えているならば、この山一つを消滅させることだってできるはずだ。  そしてセルタは、一人ならば追跡の手から逃れることができる。魔物たちは黒剣の魔力に惹かれてやってくるが、セルタが持っていても剣の力は顕現しない。むしろ、長年黒剣を持っていたヴェスティアの方が、その気配を色濃くまとっている。  ヴェスティアは、この場を切り抜けるのに最も良い提案をしているのだ。 「でも、それならばヴェスティア様が剣を持っていれば」 「それではきりがない。ここまで完全に捕捉されると、奴らを完全に撒くには一度剣から離れた方がいい」  さもないと、この山地ごと大陸中の魔物を吹き飛ばす羽目になる、とヴェスティアは笑った。 「心配される筋合いはないぞ。少しくらい剣から離れたところで、私の力はほとんど衰えはしない。むしろ、お前の方が心配だな。一人旅など初めてだろう」  セルタはほんの少し唇を尖らせた。 「子供扱いしないでください。このくらい、なんでもありません」 「そうだな。信じているぞ」  その一言で、胸が熱くなった。  信じているぞ――ヴェスティアにそう言われたのだ。  それだけで涙が出そうだった。唇を噛んで堪え、無理に笑顔を作る。 「どうかご無事で」 「心配いらない。私は黒剣の王。いずれはこの大陸を支配する者。こんなところで死ぬはずがない」 「……ええ、そうです」 「正直に言えば、まだ迷っているがな。私が手にした力は大きすぎて、いったいどうしたものやら。ストレインやトリニアに匹敵する大帝国の王。この私が、だ。そんな柄だと思うか? ティルディア王国の一介の騎士、の方が似合っていると思わないか?」  苦笑する。  セルタも微笑んだ。目に涙を浮かべたまま。 「どんな身分であっても、ヴェスティア様はヴェスティア様です。私は、あなたを愛しています」 「では、先に行け」 「……はい」  うなずいたものの、セルタはすぐには歩き出さず、ヴェスティアに身体を寄せた。真っ直ぐに相手の顔を見つめて、唇を重ねる。 「早く追いついてください。じゃないと私、寂しくて我慢できません」 「夜が、か?」 「昼も夜も、です」  二人は声を揃えて、短く笑った。 「せいぜい努力しよう」  ヴェスティアと別れて、セルタは山道を走っていた。  急がなければならない。少しでも、ヴェスティアから離れた方がいい。  黒剣とヴェスティアとの距離が開くほど、ヴェスティアが発する剣の気配は薄れる。そうすれば魔物たちも、これ以上追ってくることはできないはずだ。  遠く背後の方で、爆発音が響いた。あの四頭の亜竜との闘いが始まったのだろう。 (ヴェスティア様……ご無事で……)  今の自分には何もできない。ただ、剣を持って逃げるだけだ。  しかし。 「そんな……!」  セルタは思わず立ち止まった。  前方の空に、三つの黒い影があった。見る間に大きくなってくる。  新手の亜竜たちは、こちらに気付く様子はない。真っ直ぐに、ヴェスティアのいる辺りを目指している。 (ヴェスティア様!)  空を見回して、絶望的な気持ちになった。  他にも二頭の亜竜を見つけたのだ。 「あんなに、たくさんの……」  いくらヴェスティアが恐ろしい力を持っているからといって、黒剣を持たずにこれだけの数の魔物を相手にできるのだろうか。  もしかしたら、危ないのかもしれない。だからこそ、セルタを一人で行かせたのかもしれない。  そんな思いが頭をよぎる。 「いやだ……、そんなの」  あの人を失うわけにはいかない。  だから――。  セルタは、剣を抜いた。  黒剣を抜いた瞬間、セルタの身体は闇に包まれていた。  上も下も、右も左も、何もない。  無限に続く、闇。  一筋の光も射さず、微かな音もせず。  すべてを超越した「無」だけが支配する世界。  意識が薄れてゆく。自我が保てなくなる。  この闇に溶けこむように。  身体も、精神も、無に還ってゆく。  それは世界が生まれる前の、原初の存在。  不思議と、恐怖は感じなかった。  むしろ、安らぎすら覚えた。  しかし。 (だめ。だめ。ここにいちゃだめ!)  頭の奥深いところで、誰かが叫んでいる。  それが自分の声だと気付くのに、ずいぶんと時間がかかった。 (だめ? どうして? こんなに気持ちいいのに。こんなに、満たされているのに) (まだ、やらなければならないことがある。そのために剣を抜いたのでしょう!) 「――っ!」  一瞬で視界が戻った。  深い森。  低く立ちこめた灰色の雲。  そして、空からセルタに襲いかからんとしている漆黒の魔物が三体。  身体が勝手に動いた。  剣を振る。  身体の中で、目に見えない何かが爆発したように感じた。その力はすべて、剣を通して放出される。  断末魔の声すら上げることなく、魔物は息絶えた。  瞬き一つの間に、三つの巨体が目の前に転がった。  セルタは地面に膝を着いて、肩で息をした。  意識が遠くなる。視界がまた暗くなってゆく。  このまま眠ってしまえば楽になれる――そう思った。  しかし、それはできないことだ。そうすれば二度と目覚めることはあるまい。  力一杯、唇を噛む。その痛みが意識を現実につなぎ止めてくれることを期待しながら。  手が震えている。それでも必死の思いで、剣を鞘に戻した。  力が抜けていく。まるで大きな岩でも背負わされているように体が重い。  全身、ぐっしょりと汗に濡れていた。  黒剣を抜いていたほんの一瞬の間に、体力と精神力をごっそりと奪われてしまったようだ。 「こんな……」  掠れた声を絞り出す。 「こんな恐ろしいものを、ヴェスティア様は平然と持ち歩いていたなんて……」  セルタは悟っていた。  自分が、二度と引き返すことのできない一歩を踏み出してしまったことを。  黒の剣。それは想像を超えた存在だった。  それでも満足感はあった。放っておけばヴェスティアに襲いかかったであろう魔物を、自分の手で倒したのだ。  膝が震え、脚に力が入らない。  それでもセルタは何とか立ち上がった。  ふらつく足取りで、遠くに見える峠を目指して歩き始めた。      * * *  ウルの街からティルディアの王都クンディアナまで、徒歩で普通に旅するならば二ヶ月ちょっとの道程だ。  しかしセルタの一人旅は、その倍近い時間を費やしていた。  なにしろ旅など初めてだ。物心ついてからこれまで、ウルを離れたことなどないのだから。  初めての土地。見慣れぬ風景が広がっている。  何度も道に迷って、ずいぶんと遠回りをしてしまった。しかしそのおかげで、様々な経験を積んで見聞を広げることができたと言えなくもない。  別れる時にヴェスティアから受け取っていた路銀は、時間がかかりすぎたために底をついていたが、それは大きな問題ではなかった。セルタは必要とあれば、自分の身一つで稼ぐことができるのだから。  もともとそれが生業であるから、何の抵抗もなかった。ウルにおいて娼妓は、別に卑しい職業ではない。  経済的な問題とは別に、何度か危ない目にも遭った。人里を離れれば魔物の徘徊する土地もあったし、街では逆によからぬ考えを持って近付いてくる人間もいた。  そんな危機を切り抜けるのに役に立ったのも、珊瑚館で身に付けた技だ。素人に毛が生えた程度の剣技よりも、ウルの男たちを魅了した肉体の方がよほど役に立つ武器だった。  一人では危険な荒野を越える時には、隊商を率いる商人と親しくなって便乗させてもらった。  悪意を持って接近してくる男たちも、身体を許せば簡単に無防備な姿を晒すものだ。臥所の中でなら、隠し持った短剣で屈強な男を倒すことができた。  旅の途中、生まれて初めて人も殺した。  自分が生き延びるため。  生きて再びヴェスティアに会うため。  そのためなら、何を引き替えにしても構わなかった。      そうしてようやくクンディアナに辿り着いたセルタは、残っていたお金をすべてはたいて、新しい服を買った。  長旅でぼろぼろの姿を、ヴェスティアに見られたくなかったから。  身なりを整えて、ヴェスティアの屋敷を探す。これは簡単な仕事で、通りを歩いていた騎士に訊ねるとすぐに見つかった。  ヴェスティアには家族はなく、わずかな使用人と共に暮らしていると聞いていたが、それにしては立派な屋敷だ。王都の中でも、もっとも有力な貴族の屋敷が集まっている一角に、その屋敷はあった。  やや気後れしながらも門番に名を告げると、すぐに中に通された。  ヴェスティアが屋敷にいると聞いて少し驚いたが、考えてみれば当たり前のことだ。魔物の襲撃を無事に切り抜けたのなら、道に迷ったり、色々とトラブルに巻き込まれていたセルタよりも、向こうの方が先に帰り着いたに決まっている。  信じてはいたが、ヴェスティアが無事だとわかって胸を撫で下ろした。今頃、ヴェスティアも同じように安堵の息をついていてくれているだろうか。  初老の執事に案内されたのは応接間ではなく、ヴェスティアの私室ということだった。  はたして、ヴェスティアはそこにいた。以前と変わらず、王の貫禄を持った微笑を浮かべて。  部屋に入ったところで、セルタは立ち尽くした。会えたら話そうと思っていたことがたくさんあったはずなのに、頭の中が真っ白だった。  言葉の代わりに、涙が溢れ出てくる。 「遅い。待ちくたびれたぞ」 「ヴェスティア……様……」  ヴェスティアが椅子から立ち上がった。  ゆっくりと歩いてくる。 「しばらく見ない間に、少し逞しくなったか」  頭からつま先まで、セルタの身体を舐めるように見回す。 「ヴェスティア様……」  そのまま、力一杯抱きついた。ヴェスティアにしがみついて泣きじゃくった。  身体の中のどこにこれだけの水分があったのかと驚くくらい、涙が止まらない。  ヴェスティアの腕が、身体に回された。しっかりと抱きしめられる。  その時、以前とは違う違和感があることに気がついた。 「ヴェスティア……様!」  違和感の原因を目にして、セルタは息を呑んだ。  ヴェスティアの身体には、以前と一ヶ所だけ違うところがあった。  その右腕が肘の上から失われ、固い義手になっていたのだ。 「ああ、かすり傷だ。問題ない」  セルタの視線に気がついて、ヴェスティアは義手を軽く叩いた。言葉通り、腕を失ったことなどまるで気にしていない様子だ。 「問題ないって、そんな……」 「心配するな。左手一本だってお前を満足させるくらいわけないぞ。それに、この義手の固さも慣れるとなかなか……」 「そんなこと言ってるんじゃありません! もぅ……」  顔を真っ赤にして叫んだ。片腕を失っても、ヴェスティアはやっぱり変わっていなかった。 「それに、私は新しい腕を手に入れたからな」 「え?」  生身の左手が、セルタの肩にかけられる。 「わかっているな。お前はこれから私の右腕として、身も心もすべてを私に捧げるんだ」 「ヴェスティア様……」  ようやく止まった涙が、また溢れてきた。  それでもセルタは満面の笑みを浮かべて、力強くうなずいた。      * * *  それからの三年間は、セルタの人生でもっとも幸せな時期だった。  ヴェスティアの許で、騎士としての知識と技術を教え込まれた。  勉強も武術の稽古も厳しいものだったが、しかし一度としてそれが辛いと感じたことはなかった。  最愛の人と毎日一緒にいられるのに、どうして辛いことがあるだろう。ウルの街にいた頃は、年に数回、せいぜい十数日くらいしか会えなかったのだ。  セルタの表向きの身分は騎士見習いだったが、同時にヴェスティアの愛人でもあるということを、周囲の人間は知っていたようだ。ヴェスティアも特に隠してはいなかった。  彼女の嗜好が異性よりも同性に向けられているというのは、以前から有名な話だったらしい。しかし、セルタ以前には特定の相手はいなかったという。侍女から聞いたその話は、セルタを少し喜ばせた。  やがて、セルタもヴェスティアに従って戦場へ赴くようになり、いくつかの手柄を立てた。  そして間もなく、セルタは正騎士に取り立てられた。それに伴い、若手としては力のある騎士として知られるようになっていった。それまでのセルタに対する評価は、あくまでも「ヴェスティアの愛妾」でしかなかったのだ。  しかし今では、人々はヴェスティアがいずれセルタを養女として、自分の後継者にするのだろうと噂していた。  そういえば、ティルディア王国におけるヴェスティアの地位も奇妙なものだった。  表向きは正騎士であり、ティルディア七将の末席に位置する将軍である。  しかしその発言力は、大将軍をも上回るものだった。いや、たとえ国王ですらヴェスティアの言葉に異を唱えることはできず、事実上ティルディアにおける最高権力者であった。  黒剣の話題は屋敷の中でもタブーであったため、ヴェスティアが黒剣の所有者であることを他の者たちが知っていたかどうかはわからない。しかし、誰も敵わない強大な力の持ち主と認知されていたことは確かだ。  しかしヴェスティアは、国内の政治にはあまり興味はなかったようで、国を留守にすることもしばしばだった。  そうして大陸中を旅して。  王国時代、あるいはそれよりも古い時代の知識を探し求めていた。ウルの街でセルタに出会ったのも、こうした旅の途中だったのだろう。  ヴェスティアは、黒剣の力をただ闇雲に用いて支配者になろうとしているわけではないようだった。  調べているのだ。  黒剣の由来。  その力で何ができるのか。  そして、トリニアやストレインが滅びた理由について。  ただ黒剣の力に頼るだけで、王国時代の大帝国を再現できるものなのか。  以前にも漏らしたことがあるように、まだ迷いがある。  黒剣の強大な力を行使することに。  それでもやはり、力を捨て去ることもできない。  歴代の黒剣の主の中でも有数の力を持ちながら。いや、だからこそ、魔力がすべてではないと悟っているのだろう。  セルタも騎士見習いの頃は、こうしたヴェスティアの旅に同行していた。しかし正騎士となってからはむしろ、主が留守の間の国内の仕事に追われることになった。  毎日一緒にいられないのは寂しいが、しかしこれはこれで、ヴェスティアの役に立っているという充実感があった。最近ようやく、ベッドの中以外でも役に立てると実感するようになっていた。      そんなある日のこと。      例によってヴェスティアは旅に出ていて、セルタは将軍の副官としての仕事をこなしていた。  しかしある夜、ヴェスティアの夢を見た。  夢の中で、セルタのことを呼んでいた。「さっさと来い。急がないと、二度と会えなくなるぞ」と。  夢の中のヴェスティアは、ひどい傷を負っていた。  翌朝目が覚めると同時に、セルタは旅支度を始めた。ただの夢とは思えなかったのだ。  大急ぎで、夢の中で言われた地へ向かった。  そして、住む者もいない荒野の真ん中で、血塗れのヴェスティアを見つけたのだ。 「辛うじて間に合ったな」  それが、第一声だった。  すぐさま手当てをしようとするセルタを、ヴェスティアは遮った。無駄だから――と。  魔法による治療は、どんな傷でも治せるわけではない。ある程度以上強力な魔法によって負った傷は、魔法では治せないのだ。傷を負わせた魔力の源が消滅しない限りは。  ヴェスティアの傷は、信じられないほど強力な魔法によるものだった。それも、相手は複数だ。  いったい、誰と闘ったというのだろう。  大陸でも有数と思われる力の持ち主が二人、乃至は三人。確かに、たとえ誰であっても一人ではヴェスティアにこれだけの傷を負わせることはできないだろう。黒剣の王は、大陸最強の力の持ち主なのだ。 「私はもう、長く生きすぎた」  ヴェスティアは静かに笑っていた。  彼女が見た目よりもはるかに年長であることは、セルタも知っていた。黒剣の力を持つ者は、ほとんど歳を取らないという。 「飽きるほどに生きてきたはずなのに、いざ死ぬとなると未練が生まれる。……セルタ、お前を抱けなくなるのだけが残念だが、後のことは任せた」 「いいえ。私は、永遠にあなたの側にいます」  ヴェスティアの前に跪いて、セルタは言った。  その目には涙が滲んでいたが、それでも真っ直ぐにヴェスティアの顔を見た。 「今まで秘密にしていました。ウルから脱出するためにあなたと別れた後、亜竜の群があなたの方へ向かっているのを見つけて、剣を抜いたんです」 「…………」 「一度黒剣に魅入られた者は、二度と離れられません。だから私は、黒剣ある限りあなたの側にいます。これだけが、私とあなたを結ぶ絆です」 「それは知っていた。しかし、黒剣に魅入られることなく普通の騎士として生きて欲しいと思っていた。ティルディアに戻れば、私の後継者として幸せに暮らせるものを……」  小さく苦笑する。しかし、どこか楽しんでいる風だ。 「私の幸せは、ヴェスティア様と共にあること。それだけです」  セルタはゆっくりと唇を重ねた。  それが二人の、最後の口づけだった。      * * * 「私には理解できないわ。黒剣を手に入れたなら、さっさと大陸を支配してしまえばいいじゃない」  暗い地下道を歩きながら、アィアリスは言った。意識してのことなのか、セルタの方を見ようとしない。 「そんな簡単なことではありません」  セルタはアィアリスに身体を寄せて、腰の剣に触れた。慈しむように、優しく。 「あなたのことも理解できないわ。変よ、あなた」 「そうですか? こういう愛の形もあるということです。アリスも、全身全霊かけて誰かを愛すればわかります」 「私には、他人を愛するなんて感情はないから。そんなことのために生まれてきたわけではないもの」  アィアリスは、人の手で作られた存在だった。  人の形をしているが、厳密には人間ではない。王国時代の技術から生まれた魔物、一種のドールだ。  トカイ・ラーナ教会の武器として。  教会がこの大陸を支配するための力として。  ただそれだけのためにこの世に生を受けた存在。  だから愛情などという人間じみた感情は持たない、とアィアリスは言った。 「そうですか」 「そうよ」 「それは嘘です」 「嘘?」  アィアリスは立ち止まって、セルタを睨みつけた。  微かな笑みを浮かべたセルタはそのまま進み、通路の行き止まりにある金属性の扉を開いた。  中には明かりが灯っており、ぼんやりと明るい。  しばらくセルタの背中を睨んでいたアィアリスも、後に続いた。 「アリスの感情はとても人間的です。人を愛したことがないなんて嘘でしょう」 「何故、そう思うの?」  警戒した様子でアィアリスは訊いた。  このセルタ・ルフは、不思議な人物だった。  どうにも掴みどころがなく、本心が読みとれない。  それでいて、こちらの心の中はすっかり見透かされているように感じてしまう。確かにセルタの力も相当なものではあるが、単純に魔力の比較であれば、黒剣を手にしたアィアリスの比ではないというのに。  知らず知らずのうちに、心の中にまで入り込んできてしまう。  こんな相手は初めてだ。  アィアリスの最後の質問に答えずに、セルタは室内を見回していた。大きな、円形の水槽のようなガラス容器が並び、細い金属管が複雑に張り巡らされている。  やがて、その中でももっとも大きな容器――人が楽に入れるほどの――を背景にして、ゆっくりと振り返った。 「アルワライェのことを愛していたのではないのですか?」 「――っ」  不意打ちに、アィアリスの表情が一瞬強張った。  図星を指された、と思ったわけではない。まったく思いもよらないことを指摘された驚きだった。 「何をいきなり……」 「違うというのですか? いいえ、アリスはアルワライェ・ヌィを愛していました。でなければ、何故こんなことを?」  背後にあるガラス容器を振り返る。  それは、アルンシルの地下にあったものとよく似ていた。  微かに濁った溶液の中に、小さな男の子の姿が浮かんでいる。  外見は、まだ五歳にもなっていないだろう。眠っているようで、朱い髪が静かに揺れている。  それは確かに、アルワライェによく似ていた。 「アルは……弟よ。私の役に立つから」  自分で言っていて、白々しい台詞だと感じる。セルタは笑みを浮かべていた。 「弟妹は他にもいたのでしょう? だけどアリスにとって、アルワライェだけが特別でした」 「…………」  ゆっくりと、セルタが近寄ってくる。  真っ直ぐにこちらの目を見て。  どこか、からかうような笑みを浮かべている。  アィアリスは思わず後退ろうとしたが、それより早くセルタの腕が身体に回された。  優しく、しかししっかりと抱きしめられている。  唇が耳に触れた。 「人の心の機微を見ることに関しては、私の方が上手です。それが仕事でしたから」  耳元でささやかれる。  アィアリスは言い返すことも腕を振りほどくこともできずに、黙って立っていた。心なしか頬が熱い。 「……降参。認めるわ。確かにアルワライェは、私にとって特別な存在だった。それがあなたの言う愛情と同じものかどうかはわからないけど」 「そう。素直なアリスはとても魅力的です」  降参してもセルタは腕をほどこうとはせず、そのままアィアリスを抱きしめていた。  これもまた、彼女を困惑させる原因のひとつだ。今回に限らず、セルタはいつも必要以上に接近してきて、アィアリスに触れようとする。  それが生業だったから、といってしまえばそれまでなのだが、肉体的にも精神的にも他人とのスキンシップを持ったことのないアィアリスにとっては、どう対応してよいのかわからない。  一つ言えることは、戸惑いはしても決して不快ではないということだ。  セルタがどういう意図でそうしているのか、そしてこれ以上の性的な接触を望んでいるのかどうかはわからない。ただ、今のところそれを拒絶する口実を見つけられずにいる。  心地よい香りが鼻をくすぐる。セルタが付けている香油だろうか。その香りも、肌に直接感じる体温も、鼓動も、アィアリスを戸惑わせる。  いつまでもこうしてセルタの腕の中にいると、不安が増すばかりだ。不快ではないにしても、誰かの手に自分の身を委ねることに慣れていない。  だから小さく溜息をつくと、頭を軽く左右に振って言った。 「……耳、噛まないでくれる?」 八章 アリス 「誕生日?」  奈子は、驚いたような声を出した。 「……って、誰の?」 「もっちろん、あ・た・し」  にっこりと笑って、ユクフェが自分の顔を指差す。 「おや」  奈子と由維は顔を見合わせる。それは知らなかった――と。 「もしかして、遠回しにプレゼントの催促とかしてる?」 「ううん」  ユクフェの性格からして間違いないだろうと思ったのだが、予想を裏切って首を大きく左右に振った。この半年ちょっとの間にずいぶんと伸びた髪が揺れる。 「遠回しじゃなくて、きっぱり催促してる」 「……やっぱり」  まだまだ、彼女の性格を見くびっていたようだ。奈子は肩をすくめる。  昨年、押しかけ弟子としてソレアの許へやってきたこの少女の辞書には、遠慮などという単語は載っていない。 「いくつになるんだっけ?」  由維が訊く。 「十一歳だよ」 「もっと小さいかと思ってた」 「ユイおねーちゃんには言われたくないなぁ」  ユクフェは、由維の胸のあたりを指差した。  確かに由維は、中学三年生としては小柄で痩せている。当然、胸もない。  発育不全はユクフェも同様だったが、こちらは家が貧しくて、幼少時に栄養が足りていなかったという理由がある。  事実、ソレアの弟子になってここで暮らすようになってからは、それなりに肉も付いて、背もずいぶん伸びたようだ。あと数年もしたら、由維は追い越されそうだ。  しかし今は、この二人はまるで本当の姉妹のように見えた。華奢な外見だけではなく、物怖じしない性格が似ているせいかもしれない。 「誕生日プレゼント、か……」  奈子は腕を組んだ。  さて、どんなものがいいのだろう。  最近の由維へのプレゼントはアクセサリが多いが、ユクフェにはまだ早いだろう。  自分の世界のこの年代の子供であれば、ゲームソフトやCD等、ネタには困らないが、こちらではそうもいかない。  奈子が何を悩んでいるのか気がついたのか、由維が助け船を出した。 「だったら、一緒に街へ行って好きなものを買ってあげれば?」  なるほど、それはいいかもしれない。 「例えば、明日みんなでハシュハルドに行くとか……」 「ハシュハルド? 行きたーい!」  ユクフェが目を輝かせる。都会が珍しいのだ。彼女の故郷は辺境の寒村だし、ソレアの屋敷があるこのタルコプだって、所詮は小さな田舎街でしかない。  これまで訪れたことのある一番大きな街は、マイカラスの王都だろうか。しかしハルティには悪いが、ハシュハルドは比べものにならないくらいの大都会だ。 「うん、いいね。そうしよっか。そして夜はリューリィのところに泊まろう」  リューリィの養父はハシュハルドで宿を営んでおり、料理の腕には定評がある。 「わーい、決まりね!」  ユクフェが両手を上げる。奈子はキッチンでお茶の仕度をしていたソレアを振り返った。 「と、ゆーわけなんだけど。明日、送ってってくれる?」  ここからハシュハルドまで、徒歩ならば一ヶ月はかかる距離だ。ソレアかファージの転移魔法で送ってもらわなければ、とても一泊二日で行ける場所ではない。 「いいわよ」 「いいなぁ。私も行こうかな」  そう言いながら、さり気なくお茶請けのお菓子をつまみ食いしようとしたファージの手を、しかしソレアは見逃さずに抓り上げた。 「私とファージは用事があるから、夜に合流するわ。リューリィには私から連絡しておくから」 「うん、お願い」  この時までは普段通り、ユクフェが来てからずいぶんと賑やかになったソレアの屋敷の、日常の風景だった。  そして……。  この半年間続いてきたそんな日常は、この夜が最後だった。      * * *  翌日のハシュハルドは、いい天気だった。  ユクフェは大はしゃぎであちこち見て回っている。  これほどの都会を訪れるのも初めてだが、山育ちのユクフェにとって、街中に運河が走るハシュハルドの光景は珍しいものなのだろう。  誕生日のプレゼントについては、つい「金額を問わず好きなものを選んでいい」と言ってしまったために、数え切れないほどの店に付き合わされることになった。  半日以上かけて、街の中心部を行ったり来たり。  そうして結局ユクフェが選んだのは、絹とレースをふんだんに使った贅沢なドレスだった。ある意味正しい選択といえる。子供用のこんなドレスなど、タルコプでは到底手に入らない。 「えへへー、ありがとう。ナコお姉ちゃん大好き!」  買い物を終えたユクフェは、嬉しそうに奈子の腕にぶら下がった。買ったドレスは、ユクフェに合わせて少しサイズを直した後で、宿の方へ届けてもらうことになっている。だから今は手ぶらだ。  そんな光景を見て、由維は不機嫌そうにつぶやいた。 「奈子先輩ってば、やっぱりロリコンだったんだ」 「なに言ってンの。いきなり?」 「女性に服を贈るのは、それを脱がすため……ってよく言うじゃない」  十一歳になったばかりのユクフェが「女性」の範疇に入るか否かについては、この際触れない。 「それは男の場合でしょ! それに、服を選んだのはアタシじゃなくてユクフェなんだから」  という至極まっとうな反論は、しかし二人の耳には届いていないようだ。 「えー、そうだったの? そんな下心があったんだぁ。……でも、ナコおねーちゃんならいいかな。優しくしてね」 「ほら、いつの間にかすっかり手懐けちゃってる」 「違ぁぁうっ! ユクフェも、どこでそんな言葉覚えてくるの!」 「それに私、奈子先輩に服なんて買ってもらったことないし」 「……それが言いたかったわけね」  やれやれ……、と奈子は溜息をついた。  そうして奈子はこの日、由維にも服をプレゼントする羽目になったのである。  それでも、楽しい一日だったことは事実だ。  つい最近まで一人っ子だった奈子にとっては、ユクフェは妹のような存在だった。  友達はよく、由維を指して「姉妹みたい」と言うが、それは違う。由維はむしろ、奈子にとっては母親代わりかもしれない。 (由奈も、大きくなったらこんな感じなのかな……。でも、もう少しお淑やかに育って欲しいかも)  奈子はふと、先日生まれたばかりの実の妹のことを思い出した。      * * *  夕方近くになって三人は、今夜の宿であるリューリィの家を訪れた。  今夜はここで誕生日のお祝いをする予定だったが、まだ少し早い時刻なのでファージとソレアは来ていない。  代わりに、久しぶりに見るフェイリアとエイシスの姿があった。 「久しぶりだね、フェイリア。しばらく見なかったけど、どこ行ってたの?」  わざとらしくエイシスを無視して、奈子はフェイリアの隣に腰を下ろした。 「ちょっとね。大陸中をあちこち歩き回ってたの」 「……例の、あれ?」 「ええ」  フェイリアが両親と従兄弟の仇を追って旅をしていることを、奈子は知っていた。それでも最近はハシュハルドにいることも多かったようだが、この半年ほどはほとんど姿を見ていない。もっとも、奈子がこちらに来る回数が減ったせいもあるのかもしれないが。 「それで……?」  今回の旅の首尾はどうだったのだろう。何か、収穫はあったのだろうか。 「それが……ねえ。どうやらヴェスティアは死んでいて、黒の剣は他の者の手に渡ったみたいなの」 「え? それじゃあ……」  長年追っていた仇が、実はもう死んでいた。両親と従兄弟の敵を討つことに執念を燃やして生きてきたフェイリアにとって、それはかなりショックが大きいのではないだろうか。  そう思って奈子はフェイリアの表情を観察する。しかし、以前と大きく変わった様子はない。  奈子の想いに気付いたのか、フェイリアは言った。 「私の旅は終わらないの。黒の剣を滅ぼすまでは……ね」  ごく自然な口調で、しかし強い意志が込められた言葉。奈子が少し気圧されるほどに。 「こんなことで終わりなんて、許せるはずがない。私は、ヴェスティアと闘って瀕死の重傷を負った。意識が戻って最初に目に入ったのは、私を助け出して傷の手当てをしてくれたアークスの、冷たくなった姿だったのよ」  許せるはずがない、と強い口調で言った。奈子は何も言えなくなる。 「あの……」  そこへ、由維の声が割り込んでくきた。 「そもそも、黒剣ってなんなんですか?」  見ると、ユクフェも隣でうんうんとうなずいている。黒の剣にまつわる伝説は知っていても、その正体は知らないのだ。  それは奈子も同じだった。そういえばファージやソレアにも、黒剣について詳しく訊いたことはない。 「黒の剣。ストレイン帝国の皇帝ドレイア・ディが所有していたという、大陸最強の魔剣。力無き者が持てばその身を滅ぼす、呪われた剣……と、言われているわね」  フェイリアは語りはじめた。ストレインの時代から現在までの、黒剣を巡る数奇な物語を。  ここにいる顔ぶれの中では、彼女がもっとも黒剣について、そしてこの世界の歴史について詳しい。 「……だけど、いつ、誰が、どうやって黒剣を造ったのか、それは私にもわからないわ。そもそも、人が造った剣なのかどうか」 「人が造った剣ではない……? やっぱり、ランドゥ神が造ったんですか?」  ユクフェが訊く。黒の剣は暗黒神ランドゥが己の力を封じたもの――大陸で広く言い伝えられている伝説だ。世間一般では、それが通説となっている。  しかしもちろん、奈子や由維はそんな伝説を信じてはいない。二人は、この世界における「神々」の存在すら疑問視している。  そしてそれは、フェイリアも同様だった。 「一般に言われているような、神様の剣というのは眉唾ね。神様なんて、誰も見たことはないんだし」  そう言って笑う。 「だけど、黒剣が人の手になる物かというと、それも疑問だわ。そもそもあれは、本当に剣なのかしら」 「剣……じゃないの?」  ここにいる中では、フェイリア以外に奈子も黒剣を見たことがある。自分の目で直にではなく、聖跡で見た過去の幻影ではあるが。  刃が漆黒であることを除けば、あれは紛れもなく剣だった。ヴェスティアも、剣として使用していた。それ以外の何物でもない。 「私は、実際に黒剣を目の当たりにした。あれは剣の形をして見えるけど、その実体はもっと別なものよ」 「と、いうと?」 「あれはもっと……、何て言うのかしら。純粋な『力』ではないかと思うのよ。剣は力の象徴だから、人の目には剣に見えるという……」  フェイリアの台詞が途切れた。表情が強張る。  彼女が最初に気付いたのは当然だろう。一瞬遅れて、奈子の身体がびくりと痙攣した。 「な、……に……これ……?」  鳥肌が立つ。  全身から冷や汗が吹き出している。  少し遅れてエイシスやリューリィ、そして由維やユクフェもその気配に気がついた。  圧倒的な力。  吐き気を覚えるほどの。  まるで身体中の細胞が、悲鳴を上げているようだ。  それは禍々しさすらない、純粋な闇の気配。  テーブルに手をついて立ち上がった奈子の、その手が震えていた。 「黒の剣……やっぱり……」  絞り出すような声で、フェイリアはつぶやいた。  一瞬、その場が凍りつく。 「黒の剣……? でも、この気配……アタシ、知ってる……」  思わず、エイシスを見る。彼も小さくうなずいたのを見て、奈子は外へ飛び出した。  意識を集中するまでもなく、その『気配』を発している場所はわかった。それほど、強い力を持った存在だった。  奈子は通りを走る。  目指すは、街の中心にある大きな広場だ。  いつもは物売りなどが品物を広げていて、大勢の人間で賑わっているはずのそこは、何故か人の気配がなかった。  周囲の通りは普通に人が歩いているのに、広場にだけ人がいない。そしてそのことの異質さに、誰も気付いてはいない。 (心理結界……)  おそらく、誰にもこの光景が見えていないのだ。無人の広場と、その中心に立つ一人の女性の姿が。  広場に駆け込んだ奈子の脚が止まる。その女性は、真っ直ぐに奈子の目を見て微笑んだ。  黒い服に身を包んだ、美しい女性。  肩の長さで切り揃えた朱い髪と、金属的な光沢を持つ赤銅色の瞳。  よく知っている。  実際に会ったのは過去二度だけなのに、忘れようとしても忘れられない相手だった。 「ア……アィアリス!」  その名を叫んだ。そして、ぎっと奥歯を噛みしめる。 「久しぶり、ナコ・ウェル」  人間味に欠ける整いすぎた笑顔で、アィアリスは言った。 「もっと早く会いに来たかったんだけど、私もいろいろと忙しいの」 「な……んで……」  口の中がからからに乾いていて、うまく言葉を紡げなかった。いずれアィアリスと闘うことにはなると思っていたが、これはあまりにも意外な光景だった。  アィアリス・ヌィ・クロミネル。トカイ・ラーナ教会で生み出された、強大な力を持つ騎士。しかしその正体は、ファージと共通する遺伝子を持った魔物だ。 「なんで、あんたがその剣を……」 「何故……? 説明するまでもないでしょう?」  言いながら、腰の剣を抜いた。突風のような魔力の奔流が奈子を襲う。  アィアリスの手に握られているのは、漆黒の刃だった。  説明するまでもない、確かにそうだ。アルワライェ……彼女の弟を殺し、トカイ・ラーナ教会の本拠地を壊滅させたのは他ならぬ奈子なのだから。  そして奈子は、レイナの剣――無銘の剣の所有者である。  無銘の剣を持つ奈子の力は、アルワライェを上回った。アィアリスの力は弟以上らしいが、だからといって奈子に勝てる保証はない。  この世界で無銘の剣以上の力を持つ魔剣は唯一、黒の剣しかあり得なかった。 「……アタシを……殺しに?」  肯定も否定もせず、アィアリスは静かに微笑んでいる。それでも笑みの中に、尋常ではない悪意の存在を感じ取ることは容易かった。  しばらく間をおいて、アィアリスが口を開く。 「去年、アルの誕生日の少し前に約束したのよね。手足を切り落としたあなたを、綺麗にリボンで飾ってプレゼントしてあげるって。そして、今年の誕生日はもうすぐなの」 「――っ!」  奈子の方から先に仕掛けた。  アィアリスの周囲に、鮮やかな朱色をした光の球がいくつも現れる。それは一斉に爆発して、アィアリスの姿を包み込んだ。  並の人間ならば一瞬で炭になるほどの魔法だが、奈子はこれでアィアリスにダメージを与えられるなどと期待はしていなかった。  炎が視界を遮っている隙に、間合いを詰める。  意識を集中すると、奈子の手に一振りの剣が出現した。  無銘の剣。レイナの剣。  無限の切れ味を持った、恐るべき魔剣。  なんの躊躇もなしに、アィアリスを斬りつけた。  二人の身体が交差する。  一瞬遅れて、奈子の身体が地面に転がった。  太股を斬られ、激しく出血していた。  奈子の刃は、相手の身体に触れることすらできなかった。先手を取ったのはこちらのはずなのに、アィアリスの剣技は奈子をはるかに凌駕していた。  地面の上に、赤黒い染みが広がっていく。 「いささか拍子抜けね。こんなに簡単に片が付くとは」  漆黒の刃が向けられる。その切っ先は、奈子の血に濡れていた。  奈子は目を瞑った。次の瞬間には、黒剣は奈子の身体を貫くだろう、と。  しかし、そうはならなかった。  身体を貫く刃の感触の代わりに、美しい女性の声が耳に届いた。 「抜け駆けは駄目よ、ナコ。私が先でしょう? 私は、二十年以上も黒剣を追ってきたのよ」  目を開くと、フェイリアがいた。その隣にはエイシス。そして由維とユクフェ、リューリィまでもが後に続いていた。 「一人でいいカッコすんなよ、ナコ。相手は黒剣の王、正々堂々と闘おうなんて考えるな。三対一だって、要は勝ちゃあいいんだよ」  いつものように軽薄そうな笑みを浮かべたエイシスが、背負っていた大剣を抜いた。そして、手振りでリューリィや由維たちを下がらせる。 「そうね。まさか黒剣の王が、三対一を卑怯だなんて言わないわよね?」  黒剣とは対照的な白い刃、竜の剣を手にしたフェイリアが微笑んだ。  アィアリスの口元にも笑みが浮かんでいた。自分に刃向かう者たちの存在を楽しんでいるかのように。  傷ついた奈子に背を向けて、新手の二人に向き直る。 「役者が揃ったようね。まだ、ファーリッジ・ルゥが足りないけれど。でも、あなた方を殺せば出てくるでしょう」  奈子はこの隙に、魔法で傷の手当てをしていた。完治させている余裕はないが、とりあえず動ける程度には回復しなければならない。  奈子とフェイリア、そしてエイシス。  三対一ならば、勝算もあるはずだった。  たとえ黒剣を持っていなくても、アィアリス相手に一対一はきつい。奈子はアィアリスと直接闘ったことはないが、ファージに聞いた話では、少なくとも剣技については奈子など足元にも及ばないようだ。  魔力に関しても、アィアリスの力は群を抜いている。間違いなく、王国時代の竜騎士に匹敵する、あるいは凌駕する力を持っているはずだ。それに加えて黒の剣を持っているのだから、一対一でアィアリスに勝てる人間は、この世にはいない。  少なくとも、生きている人間の中には。  聖跡の番人、クレイン・ファ・トームならば話は別かもしれないが、彼女は基本的に、現在の大陸における出来事には関わろうとしない。  それでも三対一なら、まだ勝算がないわけではなかった。フェイリアやエイシスが牽制している隙に、奈子の剣でアィアリスの身体を貫くことができれば。  アィアリスがどれほどの力を持っていようと、生身で無銘の剣を防げるものではない。今の奈子は、以前よりもずっと強く剣の力を引き出すことができる。黒剣で直に受け止めない限り、魔法による結界だけではあの刃を止められまい。 (相手は黒剣の王、要は勝ちゃあいい……か)  しかし、本当にそれでいいのだろうか。  それはつまり、奈子の手でアィアリスを殺すことを意味している。  果たして、そんなことができるのだろうか。  アィアリスは以前、奈子を操ってファージを殺そうとした。しかしそれから一年が過ぎて、憎しみが薄れているような気がしてならない。こんな精神状態で、本当に人を殺せるのだろうか。  アルワライェを殺したのは、仕方のないことだった。  由維を傷つけられ、お腹の子供を殺されて。  あの男は、間違いなく死に値することをしたのだ。  しかしアィアリスがしたことは……結局、未遂ではないのか? (……何考えてるんだ。この期に及んで! あいつは……あいつがしたことを、許していいはずがない!)  そう、自分に言い聞かせる。  ファージは結局は助かったが、あの時、確かに一度は死んだのだ。 (思い出せ。あの時のことを……)  自分の刃で、親友の身体を貫いた感触。あれは決して忘れることができない。 (あんなことをした奴を許しちゃいけない……)  迷いは禁物だった。  アィアリスは、敵意を持って奈子に会いに来たのだから。 (……もう、闘いは始まっているんだ)  闘いが始まる前ならば、それを回避する努力をするのは構わない。しかし一度闘いが始まってしまったら、躊躇せずに全力を尽くさなければならない。  それが、北原美樹の教えだった。  そうしなければ、自分が殺されるのだ。 (……やるか、やられるか。だったら……やる! 自分が死ぬより、相手を殺してでも生き延びたい)  心は決まった。奈子は剣を構える。  奈子とフェイリア、そしてエイシスの三人は少しずつ場所を移動し、アィアリスを重心とした正三角形を描く位置に立った。  小さく深呼吸する。目の前の敵に、意識を集中する。  もう、迷いはなかった。  最初に動いたのは、フェイリアだった。精霊の力を借りて放つ光の矢は、数百本に及ぶだろうか。それが一斉にアィアリスを襲う。  同時に、エイシスが飛び込んだ。愛用の大剣を振りかぶる。  奈子は意識的に、一瞬遅れてスタートを切った。  アィアリスの結界が、フェイリアの魔法を受け止める。結界に阻まれた魔法の矢は、火花を散らして霧散した。  そこへ、エイシスの剣が襲いかかる。この大剣による斬撃は、魔法による結界だけで受け止められるものではない。アィアリスはここで黒剣を使うはずだった。  奈子が狙っていたのは、その一瞬だ。  フェイリアの魔法が、アィアリスが得意とする転移を封じている。エイシスの大剣が、黒の剣とぶつかり合う。  背後に、大きな隙が生まれる瞬間だ。  すべては計算通りだった。なんの打ち合わせもなしに、よくこれだけの連係ができたものだと思う。  無銘の剣は、背後からアィアリスを両断するはずだった。  ……なのに。  微かな金属音が鼓膜を震わせた。  奈子は、一つ瞬きをする。  アィアリスは、無傷で目の前に立っていた。無銘の剣は地面に転がり、奈子の手首から血が噴きだしている。 「て……めぇ……」  エイシスが呻く。彼の大剣が、柄の上三十センチほどのところからなくなっていた。滑らかな切断面が、夕陽を反射している。  切り落とされた刃が、エイシスの腹を貫いていた。刃を伝って血が滴り落ちる。  エイシスの打ち込みを黒剣を振り上げるようにして叩き斬ったアィアリスは、そのまま勢いを殺さずに身体を半回転させ、剣を持った奈子の手首を斬ったのだ。  指が動かなかった。腱と動脈が完全に切断されている。  出血に伴って、脚から力が抜けていく。奈子はその場に膝を着いた。それでも顔を上げて、アィアリスの動きを追う。  一瞬で戦闘力を失った奈子とエイシスを無視して、アィアリスはフェイリアを見た。冷静な笑みはまるで変わらない。 「残るはあなた一人。せっかくだから、竜の剣の力も見たいわね。先代の王、ヴェスティアを傷つけた竜の剣の力を」  フェイリアは無言で剣を構えなおした。額には汗が滲んでいる。  圧倒的な力だった。フェイリアの表情が強張っている。  勝てない。奈子はそう感じていた。向こうに先手を取られて自分とエイシスが負傷したこの状況では、勝てるはずがない。  たとえフェイリアが最強の攻撃魔法を放ったとしても、アィアリスに通じる保証はない。相手の方が疾く、しかも魔力ははるかに上なのだ。  大規模な魔法を用いたところで、街に被害を出すだけで効果は期待できない。むしろ強力な魔法は、どうしても隙が多くなる。  攻め方が逆だった。奈子とエイシスの力で格闘戦に持ち込んで、アィアリスに隙ができたところでフェイリアの魔法か竜の剣の力を使うべきだったのだ。  まったく勝算がなかったのだとは思いたくない。三対一ということで、どこか油断があったのかもしれない。あまりにも真正直に仕掛けてしまった。 (街に被害……、しまった!)  奈子の表情が固まる。うっかりしていた。由維やユクフェ、そしてリューリィを逃がさなければならない。  一瞬、意識がそちらに向く。思わず声を上げそうになり、辛うじてそれを押しとどめた。  由維とリューリィは、先刻までと同じ場所にいる。青ざめた表情で、不安げに見守っている。  しかし、一人足りなかった。  なんと大胆なことか。ユクフェが遠巻きにこっそりと、アィアリスの死角へ移動しようとしている。フェイリアもその動きに気付いたようだ。顔に、先刻までとは違う緊張が浮かんでいる。  アィアリスは、ユクフェの行動に気付いているのだろうか? 奈子はその表情をうかがう。  もしかしたら、気付いていない可能性もある。強大すぎる力を持つ彼女にとって、奈子とフェイリアとエイシス以外の相手は、取るに足らない存在だろう。いちいち気にしていないかもしれない。  気付いていないのであれば、これは大きなチャンスだ。ユクフェの不意打ちだけで倒せるはずはないが、必ず隙ができる。フェイリアはいつでも力を解き放てる態勢だし、深手を負っているとはいえ、奈子もエイシスも闘志を失ってはいない。  しかし、もしも気付いていたら……。  その時はユクフェの生命はない。  奈子とエイシスがまだ生きているのは、アィアリスがとどめを刺そうとしなかったためだ。  理由の一つは、一撃で仕留めようとした場合に他の二人の攻撃を避けきれない可能性があったから。  そしてもう一つは「いたぶって楽しむに値する」相手だから。  その値のないユクフェなど、蟻を踏みつぶすように殺されてしまう。 (どうしよう……)  声に出してユクフェを制すれば、アィアリスに気付かれてしまう。  果たして、気付いているのかいないのか。  真後ろに回ったユクフェが、意識を集中している。  と、アィアリスが唇の端を微かに上げた。 (……気付いている!)  考えるより先に、身体が動いた。 「アィアリスっ!」  奈子は先程落とした剣に飛びつき、そのまま地面を転がってアィアリスの懐に飛び込もうとした。  同時に、エイシスが魔力の源となる精霊を召喚する。エイシスやフェイリアの精霊魔法は、かなり強力な上位魔法にも匹敵する破壊力を持つ。この際、街の被害など気にしていられない。  そしてフェイリアは、一瞬竜の剣の力を解き放つと見せかけてアィアリスの気を引き、その隙にユクフェの周囲に結界を張ろうとした。  しかし。  先に行動を起こしていた二人の方が早かった。  アィアリスの立っていた場所が、灼熱の炎に包まれる。  ユクフェの魔法。それは鋼すら瞬時に熔かしてしまうほどの超高温の空間を作りだした。  だが、その炎の中にアィアリスの姿はなかった。フェイリアの結界を突き破っての転移が一瞬早かった。  炎はほんの数秒で消えた。  ユクフェが硬直している。驚きに目を見開いて。  その背後に立ったアィアリスが、ユクフェの肩に手を置いていた。 「勇敢なおちびさんね。あの三人より、よっぽど楽しませてくれるじゃない」 「あ……ぁ……」  ユクフェは動けずにいる。肩を押さえられて。まるで、全身が麻痺してしまったかのように。 「アィアリス!」 「この子のおかげで、いいことを思いついたわ。ねぇ、ナコ・ウェル?」  そう言ってちらりと奈子を見る。 「アルが言っていたわ。あなたは、怒っている時が一番魅力的だって」  その表情で奈子は悟った。アィアリスが、何をしようとしているのか。  さぁっと血の気が引いていく。 「やめて! お願い!」 「素敵な声ね。もっと聞かせて欲しいな」 「いやぁっ! やめてぇぇっ!」  奈子の絶叫と、大きな風船が割れるような、バンッという音が重なった。  そこにはもう、ユクフェの姿はなくて。  紅い飛沫と肉片が、花火のように丸く飛び散っていった。  スローモーションのようにゆっくりと、放物線を描いている。  ばらばらと、雨が降るような音が響く。  一瞬前までユクフェであった破片は、奈子の足元まで飛んでいた。 「……っ、…………っ!」  奈子は叫ぼうとした。しかし声が出ない。  まるで喉が、重い鉛の球で塞がれているようだった。  その場の全員が、動きを止めていた。  アィアリスは、紅く染まった掌を奈子に向けて笑った。 「知ってるわよ、ナコ。こうするとあなたは、もっと私を楽しませてくれるって。それとも、もっと大切な人じゃないと駄目かしら?」 「――っ! アリスっ!」  もう、限界だった。  アィアリスが横を向く。その目が奈子の「もっとも大切な人」を捉えることすら許せなかった。  心の奥底で、何かが音を立てて崩れていく。  その下に閉じこめられていたものが、噴き出してくる。  抑えようのない衝動。  それは、魂の解放。  アィアリスの目の前に、ぽつんと、小さな輝点が出現した。  針の先よりも小さく、しかし直視できないほどの眩い光。  それは、無限に小さな空間の中に閉じこめられた、無限大の『力』だった。  原初の宇宙のように。  すべての始まり。  そして、すべての終わり。  奈子の精神を通して『力』がこの世界へと流れ込んでくる。 「ナコ!」 「奈子先輩、だめぇっ!」  その甲高い叫びが、奈子の意識を現実に引き戻した。  それでようやく、自分が何をしようとしていたのかに気付いた。必至に、力を抑え込もうとする。  ここで、あの力を解き放ってはならない。  アルンシルを、トゥラシを滅ぼした力。  アルワライェを殺すために、一つの都市を滅ぼした力。  この力を解き放ってはならない。  ハシュハルドには、罪もない人々が何十万人と暮らしているのだ。  これは、すべてを滅ぼす力。王国時代の高度な文化を滅ぼした力。  一度解放してしまったら、奈子自身でも制御はできない。 (だめ……だめ……) (抑えなきゃ……抑えなきゃ……) (……お願い!)  アィアリスが、小さくくすっと笑った。今まさにこの街を道連れに彼女を滅ぼそうとしていた光点が、すぅっと消えていく。  奈子は、肩で大きく息をした。  本当に危ないところだった。由維の声がなければ、また、同じ過ちを繰り返すところだった。 「……甘いわね。甘すぎるわ」  その声には、むしろがっかりしたような響きがあった。アィアリスが肩をすくめている。 「途中で止めなければ、私に勝てたのに。これが、唯一のチャンスだったのよ」  ぱちんと、指を弾くような動作をする。  それと同時に。  奈子の目の前に、小さな、しかし直視できないほどに眩い輝点が出現した。      * * *  身体が、ふわっと浮いたように感じた。足下の地面の感触がなくなり、上下の感覚が消える。  視界が真っ暗になった。  次の瞬間、激しい横殴りの突風が奈子の身体を地面に打ち倒した。猛烈な風に蹂躙されて、身体が転がる。  そこで、違和感を覚えた。  ハシュハルドの街中の、大勢の人々に踏み固めたれた固い地面ではない。柔らかな草の感触。  耳元で、風が轟々と唸っている。  奈子は両手で耳を押さえて地面に伏せていた。この風が収まるまでは立ち上がることもできない。  一瞬止んだと思われた突風は、次の瞬間逆方向から襲いかかってきた。それは風というよりも、叩きつけられるような空気の壁だ。奈子の身体は為す術もなく転がった。  しばらく経って風が収まったとき、奈子は自分が青々とした麦畑の中にいることに気付いた。顔を上げて、周囲を見回してみる。  そこは建物の密集したハシュハルドの中心部ではなかった。見渡す限りの畑が広がっている。穂を伸ばし始めたばかりの麦は先程の突風によって、みな同じ方向に倒れていた。  立ち上がった奈子の視線が、ある方向に釘付けとなる。  そこには、巨大なキノコ雲が立ち昇っていた。  むくむくと蠢きながら成層圏へと昇っていく真っ黒い雲は、まるで禍々しい魔物のように見えた。  あの下は、いったいどうなっているのだろう。  奈子は唇を噛んだ。  最後に見た、あの輝点を憶えている。  アィアリスの……黒剣を持つ者の力だ。  奈子がトゥラシを消滅させた力。つい先刻、アィアリスを殺そうとした時の力。それと同じ力を、アィアリスが解き放ったのだ。おそらく、ハシュハルドという街はもう存在しないだろう。 「そん……な……」  そこで、ふと我に返った。慌てて周囲を見回して、ほぅっと胸を撫でおろす。  少し離れたところに、由維が倒れていた。今、頭を振りながら起きあがろうとしている。その傍にはリューリィも倒れている。こちらはまだ、意識が戻っていないようだ。  反対側に目をやると、エイシスがいた。片膝を着いて立ち上がりかけた姿勢のまま、青ざめた表情でキノコ雲を見上げていた。アィアリスに負わされた傷の手当てをするのも忘れている。  奈子は、自分の手首の傷を魔法で塞ぎながら、エイシスの側へ行った。由維のことも心配だが、エイシスの傷は奈子よりも深手だったはずだ。 「エイシス……。傷、手当てしないと……」  予備の治癒魔法のカードを取り出して、背後から呼びかける。しかしエイシスの耳には届かなかったようで、なんの反応もない。ただ呆然と、ハシュハルドがあった方向を見つめていた。 「フェア……」  小さく、そんなつぶやきが漏れる。  奈子もはっと気付いた。  フェイリアが、いない。  それで、すべてが理解できた。  あの瞬間、奈子たちをここまで転移させたのはフェイリアなのだ。あの中で、空間転移魔法が使えるのはフェイリアだけだった。  だから、フェイリアはここにはいない。  本来、間に合わないはずなのだ。アルワライェやアィアリスのような例外を除けば、転移魔法にはタイムラグがある。一秒にも満たないわずかな時間ではあるが、解放されたアィアリスの力が奈子たちを消滅させるのに必要な時間は、それよりもはるかに短い。  フェイリアの防御結界が、奈子たちを護っていたのだ。最強の結界であっても、あの場では一瞬で消滅してしまっただろうが、その一瞬で十分だった。フェイリアは防御結界で場を覆いながら、奈子たちを転移させたのだ。  自身は、最後まで結界を張り続けながら。 「フェイリアが……」  自らの命と引き替えに、奈子たちを救ったのだ。あの一瞬の間に適切な反応ができたのは、フェイリアだけだった。 「エイシス……?」  もう一度名前を呼ぶと、エイシスはゆっくりとこちらを向いた。  奈子は、エイシスの泣き顔を初めて見た。      * * *  リューリィが啜り泣く声だけが、静かに響いている。  あの後、何故かアィアリスが追撃してくる様子はなく、奈子たちは異変を察知してやって来たファージやソレアと合流した。  今はファージがアィアリスの行方を追っていて、他の者たちはソレアの屋敷へと戻ってきている。  他に、行くところはない。ハシュハルドという、大陸でも有数の大都市は、もう存在しないのだ。河畔に築かれた都市だったため、その跡はトゥラシ同様、大きな湖となっている。  誰も、口を開こうとする者はいなかった。  あの気の強いリューリィがずっと泣き続けているし、エイシスは傷の手当を受けた後、呆けたように座っている。  ソレアも由維も、沈痛な表情で俯いている。  奈子自身は……どんな表情をしているのか、自分でもわからなかった。  誰もが、大切な人を失ったのだ。  ハシュハルドはリューリィが長年暮らしてきた街であり、養父と、大勢の友人たちがいた。姉同然のフェイリアとともに、そのすべてを失ってしまった。  エイシスにとってフェイリアは、恋人同然の存在だった。リューリィの養父のウェイズとも長い付き合いがあった。  ソレアには、ユクフェの死の方がショックだったろう。長年他人と関わらないように生きていた彼女の、初めての弟子なのだ。  そしてユクフェは、由維にとっては妹と友達の中間みたいな存在だった。なにより由維は、身近な人の死を目の当たりにすることに慣れていない。  奈子は自分については、どのくらいショックを受けているのかよくわからなかった。  フェイリアとユクフェ、奈子はその両方と親しかったのだが、不思議と、涙は出てこなかった。  もしかしたら、あまりのショックの大きさに感覚が麻痺してしまったのかもしれない。神経が、痛みを感じることを止めてしまったかのようだ。  それとも昨年十月のあの事件で、一生分の涙を流し尽くしてしまったのだろうか。  ただ黙って、カップを手にテーブルに寄りかかって立っていた。中のお茶は、いつの間にか冷たくなっていた。  深夜。  喉の渇きを覚えた奈子が台所へ立った時、エイシスが一人、明かりもつけずに居間にいるのに気がついた。  もうとっくに、各自の寝室へ下がったものと思っていたのに。  奈子は水を飲みに行くのを止めて、エイシスの前に立った。ゆっくりと顔を上げて奈子を見る。 「あんた一人? リューリィは?」 「泣き疲れて眠ったよ」 「あんたは眠らないの?」 「……ああ」 「ここが奇襲されることはないと思うよ。ソレアさんが気付くもの」 「……ああ」  どうやら、アィアリスの襲撃を警戒して起きていたというわけではなさそうだ。だとすると、ただ単に眠れないのだろう。  奈子も、その気持ちはよくわかる。彼女もやっぱり眠れなくて、こうして起き出してきたのだから。  由維はしばらくベッドの中で泣いていたが、少し前に眠ったようだった。 「元気ないね。らしくないよ」 「今度ばかりはな……。さすがに、堪えた」  そうつぶやいて笑う。この男が奈子の前で弱音を吐くなんて、初めてではないだろうか。それだけ、フェイリアの存在が大きかったということか。  力のない笑みが見ていて痛々しい。しかしきっと、奈子も同じような表情をしていることだろう。 「アタシが、慰めてあげようか?」  冗談めかして言った。本気というわけではなかったが、エイシスがうなずいたらそれでもいいと思っていた。 「バカ言え」  その声は、少しだけいつもの調子に戻っていた。奈子は静かに笑う。 「……お前だって、泣きたいくせに」 「泣きたいよ。だけど……」  そこで一度言葉を切る。ぎゅっと唇を噛みしめて、涙が滲みそうになるのを堪えた。 「……泣くわけにいかないもの」  泣いて解決することではない。  ユクフェの死の責任は、奈子にもある。  そう思っていた。  今日、ユクフェをハシュハルドへ連れていかなければ。  いや、それ以前に。  奈子がアルワライェを殺さなければ。  黒剣を追っていたフェイリアはともかく、ユクフェは、そしてハシュハルドに住んでいた何十万人という人々は、奈子の闘いに巻き込まれただけなのだ。  不毛な考えかもしれない。しかしどうしても頭の片隅で、その不毛な「if」を考えてしまう。  今更、どうしようもないことなのに。 「アィアリスとアルワライェが、ファージを殺そうとした。由維を傷つけて、アタシの子供を殺した。だからアタシはアルワライェを殺した。……いつまで続くんだろう。アタシとアィアリスが死ねば、終わるのかな」 「……終わらねーよ」  エイシスがぽつりとつぶやく。 「永遠に終わらない。人間は……いや、動物は昔から、戦うことで生き残ってきたんだ」  それは確かにその通りだ。しかしだからといって、それですべて納得できるというわけでもない。 「フェイリアと、ユクフェと、トゥラシとハシュハルドの何十万人という人たち。それにリューイ・ホルトやアルワライェやウェリア。その死の責任は、どうすれば償えるの?」 「お前が死んだって、なんの償いにも解決にもならん。ソレアやユイが泣くだけだ」 「あんたは?」 「あ?」 「エイシスは、泣いてくれないの?」 「……泣く、かもな」 「じゃあ、死なないことにする」  そうやって自分を納得させるしかない。  何十万人もの命は、一人で背負うには重すぎる。その重さから逃れるために、自分の命を絶ちたくなる時がある。  それでも、自分が死んで泣く人間がいるうちは、そんな卑怯な死に方をするわけにはいかない、と。  そう言い聞かせている。 「俺だって、これまで何百人と殺してきた。その中には、必ずしも殺す必要のない人間だっていた。だけど……戦うしかないんだ。俺たちは、そんな生き方しかできないんだから」  自嘲めいたつぶやきに、奈子も小さくうなずいた。      * * *  エイシスが寝室へ戻った後で、奈子は最初の目的を思い出して水を汲んだ。カップを持って居間へ戻り、カーテンを少しだけ開けて空を見上げた。  いつものように、三つの月が空にかかっている。ちょうど今は、一番小さな月が天頂近くにあった。  奈子は月を見ながら、ゆっくりと喉を湿らせた。  突然、背後に人の気配が現れる。奈子は別段慌てなかった。馴染み深い気配だ。  振り返ると、そこにファージがいた。  あの後、一人でアィアリスの行方を追っていたのだが、ようやく戻ってきたらしい。 「堪えてるみたいだね、ナコ」 「うん、ちょっと……ね」  ファージの様子は普段とさほど変わりない。そういう性格だ。  それをわかっているから、奈子もなんとも思わなかった。ファージはもともと他人が生きようが死のうが気にも留めないし、フェイリアやユクフェと特別仲が良かったわけでもない。  第一、千年もの間生き続けてきたのだ。親しい者との死別だって、数え切れないほど経験しているのだろう。  自分が死んだらファージは泣くだろうか。奈子はふと思った。もちろん、本人に訊いてみる気にはなれなかったが。 「アィアリスは?」 「教会の新しい本拠地。カムンシルってところ」 「攻め込める?」 「見つかるのを承知の上なら、中へも転移できる。行く気?」 「……迷ってる」  それが、正直な気持ちだった。  これで終わりではないだろう。アィアリスとは決着をつけなければならない。  しかし、今日の闘いでわかった。今の奈子では、一対一ではアィアリスに勝てない。  黒剣の力は、想像以上だった。まともに闘って勝てる気がしない。  唯一勝算があるとすれば、奈子があの『力』を解放して、トカイ・ラーナ教会の本拠地ごと吹き飛ばすしかないだろう。しかしあれは自分の意志で制御できない力だし、これ以上無関係の人間を巻き込むわけにもいかなかった。 「アタシは……ううん、レイナの剣は、黒剣を滅ぼせるの?」  そう訊くと、ファージは微かに苦笑して首を横に振った。 「黒の剣は、不滅だよ。どんな強力な武器を持ってしても、滅ぼすことはできないんだ」 「不滅……? どうやっても?」 「川の流れの中にできた渦のようなものさ。石を投げ込んで渦を散らしても、またすぐ元に戻る。黒剣も同じ。あれは、この世界を満たす魔力の中に生まれた渦みたいなものなんだ。渦の中に集まってくる魔力の結晶、それが黒剣なんだ」 「黒剣は不滅……じゃあ、アィアリスと闘うことはできないの?」  奈子の心には、滅びの美学などというものはない。まるで勝算のない闘いに挑むつもりはなかった。それで死ぬのは自己満足にはいいかもしれないが、結局はなんの意味もない犬死にだ。 「そうとは、限らないよ」 「と、いうと?」 「黒の剣そのものを滅ぼすことはできなくても、それを持つ者を倒すことはできる。黒剣の王がどれほど強大な力を持とうとも、不死身ではあり得ない。ドレイアだって、ヴェスティアだって、結局は死んだんだ」 「……それしか、ないか」  力は、それを使う者がいなければ存在しないのと同じ。  黒剣の王は強大な力を持っているが、その肉体はあくまでも人間。簡単にはいかないだろうが、決して不死身でもない。  付け入る隙があるとすればそれだけだ、とファージは言った。 「ファージ……」  奈子は真っ直ぐにファージを見た。 「虫のいいお願いだってのはわかってる。でも……お願い、力を貸して」 「そんな泣きそうな顔しなくたって」  ファージが笑う。 「友達に協力するのは当然のことじゃない。それに私だって、アィアリスに恨みがあるよ」 「……ファージ」 「墓守の使命なんて知ったこっちゃないよ。クレインが文句を言ったって知るもんか」 「ファージ……」 「でも、その代わり……」  ファージが不自然に接近してくる。唇が触れるほどに。  しかし奈子は避けなかった。 「今晩、一緒に寝ようね?」  金色の瞳を細めて、いつもと同じ笑みがそこにあった。 九章 紅竜の騎士  その後間もなく、ソレアはタルコプの屋敷を引き払って、マイカラス王国へと移ることにした。  サラート王国とカイザス王国の間に戦争が始まりそうな雰囲気があって、タルコプの街も安全ではないと思われたからだ。  もちろん、行くあてのないリューリィも一緒に連れていった。  しかし奈子は、マイカラスへ行くことにいい顔をしなかった。  行けばきっと、ハルティたちに迷惑をかけることになる。また、無関係な者たちを闘いに巻き込んでしまうかもしれない。もう、誰も巻き込みたくはなかった。  しかし、他の者たちの意見は違った。  奈子が行こうと行くまいと、マイカラスが戦場となることに変わりはない、とソレアは言った。  アィアリスにとって、奈子の身分はマイカラス王国の騎士なのだから。  そして、事態は奈子の予想以上に進行していたのだ。  マイカラスを訪れたソレアは、知り合いの魔術師ラムヘメスの元にリューリィを預け、奈子と由維を連れて王宮へと向かった。ファージは来ていない。今、聖跡でクレインに会っているという。いったい何を話しているのだろう。  王宮を訪れて謁見を申し込むと、忙しい身であるにも係わらず、ハルティは即座に応じてくれた。むしろ、奈子の来訪を予期していたような雰囲気すらあった。  たまたまケイウェリが案内してくれたのだが、彼もなにやら意味深な笑みを浮かべている。  ハルティの前に進むと、奈子はなんの前置きもなしに言った。 「ハルティ様、アタシを騎士団から除名してください」  意外なことに、誰も驚いた様子を見せなかった。  苦笑めいた表情が浮かべて、ハルティとケイウェリは顔を見合わせる。 「賭けは私の勝ちですね、陛下」 「ナコさんの性格を考えれば、分の悪い賭けだったな」  二人が何を言っているのかわからない。奈子は訝しげな顔をする。 「つまり、ナコちゃんのこの申し出を予想していた、と?」  奈子に代わってソレアが訊ねると、ハルティはゆっくりとうなずいた。 「昨日、トカイ・ラーナ教会の使者が来ました。一方的な要求を捲し立てていきましたが……。まあ、一種の宣戦布告ということですね」 「宣戦……布告……」 「相手の要求というのは?」 「一つはギアサラス地方の割譲。そしてもう一つは……」  ハルティはそこで一度言葉を切って奈子を見た。 「あなたの身柄の引き渡し、です。ナコさん」  奈子は身を固くする。ソレアが言った通りだ。トカイ・ラーナ教会にとって奈子は、マイカラスの騎士として認識されているのだ。  本人が望まなくても、否応なしにこの国を巻き込んでしまう。そうしないために騎士団から除名してもらおうと思ったのだが、手遅れだったようだ。 「それで、陛下はどうなさるおつもりで?」  奈子ではなく、ソレアが訊く。幾分きつい口調だった。 「一時の勢力には及ばないとはいえ、教会の軍勢は大陸有数のもの。まともに戦えばマイカラスに勝ち目はないでしょう。それに対して、ギアサラスの大半は利用価値のない砂漠。そんな土地と、得体の知れない余所者の騎士一人で国の安全が買えるなら安いものでしょうね」  ハルティの返答を待たずにソレアは言葉を続ける。それに対して由維が何か言いたそうにしていたが、奈子につつかれて口をつぐんだ。  ハルティの表情が真剣になる。 「あなたに隠し事をしても無駄ですね。確かに、城内の一部にそういう声があるのは事実です」  奈子は、この台詞に対してはそれほどショックを受けなかった。当然の事だ。マイカラスにしてみれば、国の存亡に関わる問題なのだから。  それでも、少し悲しかった。そんなことを望んでいないのに、どんどん周囲の人間が巻き込まれていく。自分の闘いで自分自身が傷つくのはかまわない。しかし、他人が傷つくのは居たたまれない。 「もちろん、私はこんな要求を呑む気はない。領土はともかく、この国の恩人であるナコさんを売るような真似はできない」 「……いいえ」  奈子は首を横に振った。 「ギアサラス地方を譲り渡すことができるのであれば、要求は呑んでください。これ以上、迷惑をかけることはできません」 「ナコさん!」 「奈子先輩……」 「これは、私の個人的な問題ですから。マイカラスにも、ハルティ様にも、迷惑はかけられません」  そう。これは本来、個人的な問題だった。教会の名で使者を送ったとしても、奈子の身柄を求めているのはアィアリス個人なのだ。 「ただ……、回答をできるだけ引き延ばしてもらえると助かります」 「その間に、アィアリス・ヌィと決着をつける、と?」 「はい」  ケイウェリの言葉にうなずいた。ここに来る前から、そのつもりだった。ファージが聖跡へ行っているのもそのためだ。  奈子がアィアリスと闘えば、どちらが勝ってもそれで終わるのだ。  分の悪い闘いであることは百も承知だ。それでもファージの全面的なバックアップがあれば、まったく勝算がないわけでもない。奈子だって死にたくはない。ただ、これは避けて通れない闘いなのだ。 「我々を巻き込みたくないというナコの気持ちは分かるけどね」  ケイウェリがいつも通りの愛嬌のある笑みを浮かべて言う。 「もう、手遅れじゃないかな」 「手遅れ?」 「なにしろこの国の王は、ナコ・ウェルの名前が出た途端に逆上して、使者を切り捨てるような人物だから……仕える者としては苦労が多い」  軽い口調で言い、隣で眉をひそめているハルティをわざと無視している。奈子もつられて笑いそうになったが、考えてみれば笑い事ではない。  しかし、それで交渉決裂と決まったわけではなかった。 「……いいえ。アィアリスにしてみれば、自分の手でアタシを殺せるのであれば他のことはどうでもいいはずです。使者の生命の一つや二つ、気にするような性格とは思えません」 「アィアリス・ヌィと何があったんです?」  ハルティが珍しく固い口調で訊いた。奈子は一瞬口ごもったが、すぐに言葉を続けた。 「アルワライェ……彼女の弟を、アタシが殺しました」  正直に答えると、ハルティは難しい顔のまま、ちらりとケイウェリを見た。お互い、微かにうなずき合う。 「半年ちょっと前、教会の総本山があるトゥラシが突然消滅したという話は、ここまで伝わっている。それと関連が?」  隠しておけることでもないので、奈子はうなずいた。  ハルティの表情がよりいっそう険しくなる。この様子では、先日のハシュハルドのことも知っているのだろう。 「あなたは……」  やや躊躇いがちなハルティの言葉を遮るように、由維が小さく手を挙げた。 「あの、質問があるんですけど……。ギアサラスには、何があるんですか? 教会は何故、利用価値もない砂漠を欲しがるんでしょう?」 「さあ。それについては城内でも意見が分かれてまして……」 「……あの辺りには、古い遺跡があったわね」  ソレアがぽつりと、過去形で言った。 「ああ、そうですね。でもあの遺跡は、二年近く前にあなたとファーリッジ・ルゥが封印したのでは?」  由維は一瞬目を見開いて、奈子を見た。しかし奈子はまったく表情を変えていない。  マイカラスの砂漠にある、二年前にファージが封印した遺跡。それは少し前に奈子が連れていってくれた場所ではないだろうか。  奈子は『レーナ遺跡』と呼んでいた。トリニア王国よりも、ストレイン帝国よりも古い時代のものだという。その正体がなんなのか、奈子は結局詳しいことは話してくれなかった。 「今さら、教会が興味を示すほどの遺跡ではないはずですが……」  ハルティは困惑した様子だ。  あの遺跡に、何か秘密があるのだろうか。今の奈子の表情からは何も伺い知ることはできない。  しかし、奈子は知っているはずだ。ソレアですら知らないのかもしれない、遺跡の秘密を。そして、アィアリスもそれを知っている。だから、ギアサラスを手に入れたがっている。  そう考えると、つじつまが合う。 「ナコさんは、何か知っているんですね?」  奈子は無表情でいるが、由維の様子からそれを感じ取ったようだ。確信した口調でハルティが訊ねる。  少しの間、考えるような仕草をしていた奈子は、小さく苦笑した。 「もしかしたら、知っている……のかもしれません。でも……」  不意に言葉が途切れる。  その場にいる全員の表情が強張った。  奈子は窓に駆け寄ると、身を乗り出して外を見る。 「……来る!」  間違えようのない「気」が近付いてくる。  強大な力の気配。 「アリス……だ」  アィアリスと、そして黒剣の強大な力の気配。  それだけではない。他にも何か、大きな存在を感じる。  真っ直ぐにこの城へ向かって来る。  奈子が振り返ると、ハルティたちと目が合った。 「この城の近くで、周囲の被害を気にせずに闘える広い場所は?」 「それなら、西の練兵場だ」  ハルティとケイウェリは顔を見合わせて、小さくうなずいた。何も言葉を交わす必要はなく、ケイウェリは外へ飛び出していった。  奈子はソレアを見る。 「ソレアさん、アタシもそこへ。それから、急いでファージに連絡して。アリスの奴、とんでもないことを……!」 「ええ……」  ソレアも緊張した様子でうなずく。 「それとハルティ様、由維をどこか安全な場所へ……」 「それは任せてください」  由維は一緒にいたいと思っていたのだが、しかし何も言わずにいた。ユクフェのことがあったばかりなのだから、奈子が由維を闘いの場へ連れて行くわけがない。  不安を押し隠して、精一杯の笑顔を見せる。 「奈子先輩……死なないで」 「……大丈夫だって。アタシがこれまで一度だって死んだことある?」 「ファージじゃあるまいし、普通の人は二度も三度も死なないって」 「大丈夫だから。待ってて」  そう言って由維を抱きしめると、軽くキスをした。  由維の大きな瞳が、涙で潤んでいる。  二人の様子を、ハルティが複雑な表情で見つめていた。  奈子とソレアは、王宮の西に広がる練兵場へと転移した。  予想通り、王宮へ向かっていたアィアリスの気配も進路を変える。やはり、目的は奈子なのだ。  それにしても性急な話だ。昨日使者を送っておいて、その正式な回答も待たずに今日は自ら出陣とは。だったら最初から自分で来ればよさそうなものだが、何か思惑があるのだろうか。それとも、単なる嫌がらせか。  城の門が開き、マイカラスの騎士たちが出撃してくる。その先頭がケイウェリとダルジィであるのは予想していたが、その隣りにハルティの姿を認めて奈子は血相を変えた。  まさかこの状況で、国王自ら陣頭に立つなんて。  しかし、考えてみれば当然かもしれない。王都で敵を迎え撃つのだ。マイカラスにとっては国の存亡に関わる事態である。ハルティだけが安全なところに隠れているわけにもいくまい。  奈子は空を見上げた。黒い雲が低く立ちこめている。  まだ正午を少し過ぎた時刻だというのに、辺りは夕暮れのように薄暗い。  嫌な雰囲気だ。  ハシュハルドで感じた、黒剣の気配が近付いてくる。全身に鳥肌が立つ。  すべてを飲み込むような、闇の気配。  この前よりもはるかに遠くから気配を感じ取れるのは、向こうが意図的に存在を誇示しているためだろう。マイカラスの民を威嚇する意図があるのかもしれない。 「……これは?」  その時になってようやく、奈子は不自然なことに気付いた。アィアリスと黒剣の力を、かなり高い位置に感じるのだ。そして、相当な速度で近付いてくる。  まるで、空を飛んでくるようではないか。  確かに、魔法を使って飛行することはできる。が、普通は戦闘時にそれをする者はいない。攻撃と防御に回す魔力が不足するからだ。それに、地上から魔法で狙い撃ちにされる。  奈子の世界で空を飛ぶ兵器が有利なのは、すべての存在が重力に束縛されているからだ。重力の影響を受けない、魔法という攻撃手段のあるこの世界においては、相手より高い位置を占めることが必ずしも有利とは限らない。  攻撃と防御結界以外の余計なことに魔力を浪費しないことが、この世界での闘いの鉄則である。  しかし。  遠い過去においては、空中での闘いが当たり前のように繰り広げられていた時代もある。  それは……。 「まさか、そんな!」  ソレアですら、驚きの声を上げた。  信じ難い光景だった。  低い雲の中から姿を現したものを、即座に信じろという方が無理があった。  敵を迎え撃つ体勢を整えていた騎士団の中から、怯えたようなどよめきが起こる。勇猛さにおいては周辺の国々から一目置かれるマイカラスの騎士団の精鋭たちにとっても、それは予想もしなかった光景だった。 「アリス……あんたは……」  奥歯をぎゅっと噛みしめながらも、奈子は畏怖の念が湧き起こるのを抑えられなかった。  ある意味、神々しい光景ですらあった。  遠い昔に滅びたはずの生物。  この世界で最大、最強の存在。  唯一、人間を越えるもの。  それは大空を舞う、巨大な深紅の竜の姿だった。      * * * 「あんたは、知ってるんでしょ? エモン・レーナの正体も、黒剣の秘密も。何もかも」  ファージは不機嫌そうな口調で言った。  ここにいる時はいつもそうだ。自分を殺した相手に愛想よくできるわけがない。  そう。ファージはクレインに会うために、聖跡を訪れていた。 「まあ、知っていると言えば知っているな」  ファージのこんな態度には慣れっこのクレインは、むしろ楽しそうに笑みを浮かべている。 「しかし、私は手出しするつもりはない。死人が口出しすることではないからな。今を生きている者たちに任せてみるのも一興だろう。面白い飛び入りも参加していることだし」  最後の一言で、ファージの表情がいっそう険しくなる。 「これ以上、ナコを巻き込みたくない」 「今さら言っても手遅れだろう」 「それは……、そうかもしれないけど……」  語尾が小さくなる。  確かに、手遅れだった。奈子はもう、この世界に深く関わりすぎている。  今さら、なかったことにはできない。  あの、無銘の剣を受け継いだ日から……。 「っ、そう。レイナ・ディだよ! あいつはいったい何をしようとしていたの? どうして、奈子に剣を渡したりしたの?」 「さあ、な」 「嘘だ。知ってるはずだ!」  ファージは断定する。  レイナ・ディ・デューンから剣を受け取ったあの日から、奈子の『変化』が始まった。  剣から、あるいはレイナ自身から、なんらかの影響を受けているのは確かだった。そして、クレインがそれを知らないはずがない。 「……ああ、知っている。が、言う気はない。彼女が自分で気付かない限り、私からは何も言わない」 「どうして!」 「聞いたら、引き返せなくなる。引き返すことのできない道を進むか否かは、自分で決めるべきだろう?」 「……いったい、何があるの?」 「知りたければ、彼女と一緒にいればいい。こんなところに来ていないで、彼女と共に闘えばいい。いずれ、答えに辿り着くかもしれん」 「……いいの?」  ファージは驚きの表情を浮かべた。 「ナコと一緒に闘ってもいいの? ナコのために、力を使っていいの?」 「今さら何を言ってる。今までだって散々、勝手に力を使ってきただろう。だったら最後まで付き合ってやれ」 「本当に……?」  驚きの表情から喜びの表情へ。しかしその変化は途中で止まった。  クレインが眉をぴくりと動かす。 「来たか。ここを放っておくわけがないとは思っていたが」  そう言ったクレインは、どこか楽しそうだった。  外に、久しぶりの来客の気配があった。奈子やファージを除けば、一年半くらい前のアルトゥル王国の軍勢以来だろうか。  聖跡の秘密を探ろうとする者は多い。クレインはこれまで、そんな連中を数え切れないほど相手にしてきたが、今回は久々に歯ごたえのありそうな雰囲気だった。 「面白い」 「手出ししないって、言ってなかったっけ?」  ファージがさり気なく突っ込むが、クレインはさらりと受け流した。 「進んで手出しする気はない。が、向こうから来るなら話は別だろう」  言うが早いか、クレインは聖跡の外へと転移していった。ファージもすぐに後を追う。  これは珍しいことだ。普段のクレインは、相手が聖跡の内部へ侵入しない限り行動を起こすことはない。  しかし、外に出るとその理由は明白だった。  相手が、聖跡の中へ入れないくらい大きく、そして外からでも聖跡を攻撃する力を持っているからだ。  気のせいではなく懐かしそうな表情で、クレインは空を見上げていた。口元には笑みが浮かんでいる。 「久しぶりに見たな」 「千年ぶり……くらい?」  正確には九百年くらいだろうか。  ファージが、最後に本物の竜を見てから。  そして今、聖跡の上を二頭の竜が舞っていた。  赤褐色の鱗は、大陸の北の方に棲む竜の特徴だ。王国時代、ストレイン帝国の竜騎士たちがこの色の竜を駆っていた。  ファージにもクレインにも、驚いた様子はなかった。  竜が滅びて千年近くが過ぎた今の時代の者ならば、竜を目にして平然としていることなどできないだろう。  しかし彼女らは、生前に本物の竜を嫌というほど見ているし、実際に闘ったこともある。トリニアの竜騎士であったクレインは、自らも竜を駆って大陸の空を我が物顔で飛び回っていたのだ。  気配を感じたときから、その正体には気付いていた。 「試してみるか」  クレインの手の中から、青白い閃光が放たれる。それは空中で花火のように散って、数十条の光の矢と化して竜の一頭を襲った。  立て続けに爆発が起こる。  しかし竜はその巨体からは想像もできないような軽やかさで身を翻し、クレインの魔法をことごとくかわしていく。 「ふむ、本物だな。騎士の腕も悪くない」 「ユイが、アルンシルで培養されている竜を見たんだ。きっとどこかで、まだ化石化していない、保存状態のいい遺骸を見つけたんでしょ」 「騎士も培養ものか」 「多分ね。アルワライェかアィアリスのクローンだよ」  そうでなくては、この時代に竜を操れる騎士などそうそういまい。竜は簡単に人を乗せるわけではない。王国時代でさえ、竜に認められる力を持つ騎士は、大陸中で数十人しかいかなったのだ。  由維がアルンシルの地下で見たものについては、ファージも話を聞いていた。アィアリスもアルワライェも、王国時代の知識を元に作られた、一種のクローンなのだ。  失敗作も多そうだが、少なくともアィアリスなら、文句なしに王国時代の竜騎士に匹敵する、あるいはそれ以上の力を持っている。ならば他にも成功例がいたとしても不思議ではない。少なくともあの竜を駆っている二人は、どちらもアィアリスではなかった。  竜についても同様に、王国時代の古戦場跡を発掘して組織を入手し、それを解析、培養したのだろう。 「お前の親戚みたいなものだな」  クレインが笑う。 「そういう言い方は嫌いだ」  ファージは怒ったように言うと、短く呪文を唱えた。  朱色の炎が広く空を覆う。  しかし竜は、無傷で炎の中から姿を現した。大きく開いた口の中に、青白い光が生まれる。  稲妻のような一瞬の閃光。  次の瞬間、地面が燃え上がった。爆発した、という表現の方が相応しいかもしれない。竜の炎の中では、鋼ですら一瞬で蒸発する。 「……効くなぁ」  ファージが呻くように言う。ファージの結界をもってしても、竜の炎を完全に防ぎきることはできなかった。致命傷にはほど遠いが、かなりひどい火傷を負ってしまった。 「相変わらず防御が甘いな」 「うるさい!」  クレインは無傷だった。生前のファージならともかく、力の大半を封じられた現在では、クレインとの力の差は歴然としている。もっとも、力の差を抜きにしても、ファージが性格的に攻撃重視なのは事実だった。 「さて、久々に本気を出してみるか」  二頭の竜はこちらの隙を窺うように、聖跡の周囲を高速で周回していた。そのうちの一頭に意識を集中したクレインが、すっと目を細める。  同時に、竜の身体そのものが爆発を起こした。      * * * 「竜……なのね。本当に」 「そう、亜竜じゃない。紅い鱗。竜だよ、本物の」  その光景を実際に自分の目で見ていても、ソレアはまだ半信半疑といった表情だった。  王都の上空を舞う三頭の竜。首の付け根辺りに、騎士が跨っているのが見える。  そのうちの一騎が城に接近してきた。牛を丸飲みにできそうな口が開かれ、閃光が迸る。  耳が痛いほどの爆発音と共に、塔の一つが粉々に砕けて崩れ落ちていった。  凄まじい力だった。勇敢な幾人かの騎士が、飛び去ろうとする竜に向かって魔法で攻撃する。しかしそれは簡単に、防御結界に弾かれてしまった。  それが、竜の力だ。圧倒的だった。  マイカラス王国の騎士たちの中には、半ばパニックに陥っている者も少なくない。むしろ奈子の方が、この現実を素直に受け止めていた。  奈子にとってここは「剣と魔法の世界」である。竜がいたところで別に違和感はない。最初から、常識の範囲外の世界なのだから、今更何が起こったとしても騒ぎ立てるほどのことではないのだ。  しかしこの世界で生まれ育った者にとっては違う。奈子の感覚でいえば、太古に滅びた恐竜が突然現代に現れたようなものだろうか。  いや、彼らはそれ以上の恐怖を感じているに違いない。奈子の世界で現代に恐竜が現れたとしても、近代兵器を装備した軍隊ならば容易に倒すことができるだろう。しかしこの世界の竜は別格の存在だ。  王国時代、一騎の竜騎士は一万の兵すら歯牙にもかけない圧倒的な戦力だった。竜を、そして竜騎士を倒せるのは、同じ竜騎士だけなのだ。 「アルンシルの奥で培養されていたもの。由維は亜竜と思ったけど。実は本物の竜だったんだ。王国時代の竜の死体を手に入れて、組織を培養したんだよ、きっと」  口調は冷静だったが、実際にはそれほど余裕があったわけではない。自分の力でそう簡単に竜を倒せるとは期待していなかった。  確かに、奈子が持つ無銘の剣は、鋼よりも強靱な竜の鱗を切り裂くことができる。しかしそれはあくまでも剣であり、相手が空中にいては手の出しようがない。レイナ・ディ・デューンがこの剣で多くの竜と竜騎士を屠ることができたのは、自らも竜を駆っていたからだ。  この状況では、強力な魔法のサポートが必要だった。  しかし。 「……駄目。ファージとは連絡が取れないわ」  ソレアの台詞は、奈子を絶望の淵に叩き落とした。ファージの強力な攻撃魔法で相手を追いつめてくれれば、剣でとどめを刺すチャンスも生まれると思っていたのだ。 「そんな……。どうして?」 「……考えたくないけれど」 「ファージも、闘いに巻き込まれているの? まさか、聖跡が攻撃を受けているの?」  そんな無謀なこと、と思う。聖跡には、あのクレインがいるのだ。  王国時代、最強の竜騎士と呼ばれたクレイン。しかも、聖跡の強大な魔力に支えられた不滅の存在。 「竜がいるもの」  ソレアがぽつりとつぶやく。  確かにそうだ。竜がいれば、クレインに闘いを挑もうと考えるかもしれない。だとすると、教会の竜はここにいる三頭だけではないことになる。  もしかしたら、竜を生み出すためにも黒剣の力が一役買っているのだろうか。そうでなければ、中枢であるアルンシルを失ったトカイ・ラーナ教会が、一年と経たずにこれほどの力を回復するとは考えにくい。 「くそっ!」  奈子は唾を吐き捨てた。  王都のあちこちで、火の手が上がっている。  三騎の竜は散開し、思いのままに街を破壊している。  奈子はそのうちの一騎を魔法で攻撃した。マイカラスの騎士たちも少しずつ落ち着きを取り戻し、一部は反撃を始めている。  しかし竜の防御結界は、並みの魔術師など比較にならないほどに強固だった。こちらの攻撃魔法は避ける必要もなく、易々と結界で受け止める。竜は魔力に関しても、人間をはるかに凌駕するのだ。  今のところ、竜騎士たちは奈子を直接攻撃する気配はない。時々思い出したように、竜の炎で街を灰にしている。  それが、悔しかった。  向こうは、そうすることで奈子をいたぶっているのだ。奈子本人を攻撃せず、破壊されていく王都を奈子に見せつけているのだ。 「……エクシ・アフィ・ネ!」  その言葉と同時に、手の中に剣が出現する。  無銘の剣。別格である黒の剣を別にすれば、大陸最強の魔剣。  奈子は剣を掲げて叫んだ。一騎の竜に向かって。 「アリス!」  見間違えようもない。アルワライェほどではないものの、充分に鮮やかな朱い髪の騎士。  奈子が叫ぶと、ちらりとこちらを見たような気がした。 「アリス! あんたの目的はアタシでしょ! ちゃんと闘ったらどう? それとも、アタシが怖いの?」  その声が届いたのだろうか。アィアリスの騎竜が向きを変える。  高度を下げて、真っ直ぐにこちらへ向かってくる。  速い。時速数百キロは出ているのではないだろうか。最初は点のように見えた竜が、視界の中でぐんぐんその大きさを増す。  アィアリスが笑みを浮かべているのが見えた。 (来る……!)  竜の顎門が大きく開かれる。 「手伝うわ、ナコちゃん」  背後でソレアの声がする。二人でタイミングを合わせて、防御結界の魔法を展開した。  同時に、閃光が迸る。周囲が青白い光に包まれた。  どれほど魔力が強くとも、まともな結界では竜の炎を防ぐことはできない。奈子とソレアは、何十という数の結界を鱗のように重ねて展開していた。  竜の炎を浴びた結界が、瞬時に消失する。それでも一つ一つの結界が少しずつ炎の勢いを削ぎ、最後に一つでも残っていればダメージはほとんど受けずに済む。  もしもあの炎をまともに浴びれば、石造りの城壁だって崩壊する。人間など、一片の灰も残らない。  肌が焦げるような熱気に包まれる。それでも二人がかりの結界は、辛うじて最後まで炎を受け止め続けた。  頭上すぐのところを、竜が飛び過ぎる。風が渦を巻き、足元の土が巻き上がった。急激な気圧の変化に耳が痛くなり、奈子は思わず首を縮める。視界の隅に、アィアリスの嘲笑が映った。  頭から尾の先までおよそ三十メートル。最大の鯨よりも大きな生物が、これほどの速度で空を飛ぶ。それは非現実的な光景だった。  奈子は顔を上げて振り返る。竜はそのまま背後の王宮へと向かい、再び炎を放っていった。城壁の一部が粉々に砕け散る。  反転して戻ってくると思ったアィアリスの竜は、意外にもそのまま真っ直ぐに飛び去り、何処かへ転移してしまった。  残る竜は二騎。それまで街を攻撃していたものが、こちらへ向かってくる。 (ということは……)  アィアリスは、今日のところは奈子を殺すつもりではないのだろうか。  その気があれば、自ら手を下すはずだ。部下に任せたりはすまい。 (嫌がらせ……か?)  目の前でマイカラスの人々を殺し、王都を破壊し、奈子を精神的に追いつめるつもりなのか。  奈子を殺す気はなくとも、その分周囲の者たちが危ない。 (そんなこと、させない……)  竜の一頭に向けて魔法を放つ。相手は素晴らしい機動で易々とかわした。  生半可な魔法では歯が立たない。  もっと強力な魔法が必要だった。  竜を倒すための魔法が。  例えば、ファージが得意とするあの魔法。無銘の剣を持っている時ならば、奈子にもできる。  しかし、奈子の力ではせいぜい二十個程度の光球を制御するのが精一杯だった。王国時代、並みの力の竜騎士でも五十乃至百個の光球を放っている。そうでなければ、竜はすべてをかわしてしまうのだ。 (何か、もっと強力な魔法……)  一つだけ、ある。  トゥラシを滅ぼしたあの力。  しかしあれは、自分でも制御できない力だった。  感情の爆発が引き金となって発現する力。  今ここであれをやれば――できるかどうかもわからないが――マイカラスの王都が消滅する。力を制御して、敵だけを狙うのは無理だろう。  奈子は意識を集中しながら、竜の動きを観察していた。ほんのわずかな隙も見逃さないように。  必ずどこかに、攻撃するチャンスが生まれるはず――。  そう思いながら。  この頃になると、マイカラスの騎士たちもある程度冷静さを取り戻し、組織だった反撃を始めていた。  国王であるハルティが、自ら陣頭で指揮をしていることも大きいだろう。若い王ではあるが、少年時代から騎士団の中で修行を積んでいたハルティに対しては、騎士たちの信頼も篤い。  竜の炎による被害を最小限に抑えるために兵たちを分散させ、しかも高速で移動させながら、しかし魔法による反撃は一点に集中させている。  さすがに敵もこれは無視できないようで、小刻みな機動でかわしながら、小規模な炎で反撃を繰り返している。  空と地上の間で、青白い光、朱色の光が交錯する。  ハルティの傍らには、ダルジィの姿もあった。ケイウェリは離れたところで別働隊を率いている。  竜騎士という圧倒的な敵を相手に善戦を続けながらも、ハルティの表情は固かった。麾下の部隊はなんとか持ちこたえているが、しかし敵を倒す決定打がないのだ。自分たちに竜を倒す力がないことはわかっている。 「勝つ方法が見つからない闘いというのも、辛いものだな」  つい弱音が漏れる。無論、他の兵たちに聞かれないように気をつけてはいる。この声が耳に届いていたのは唯一、すぐ傍にいたダルジィだけだ。 「今はとにかく、持ちこたえることです。竜を倒すことについては、ナコと墓守たちに頑張ってもらいましょう」  ハルティは少し意外そうな表情をした。 「ダルジィは、ナコさんたちのことを嫌っていると思ったが」 「ええ、嫌いです」  まったく躊躇なしにダルジィはうなずいた。 「ですが、その力は認めます。それに、彼女がマイカラスを見捨てるとも思えません」 「……そうだな」  微かな笑みを浮かべて、ハルティもうなずいた。  その時、ダルジィの顔色が変わる。  敵の竜の一騎が、こちらへ向きを変えて高度を下げる。ハルティがここにいることに気付かれたのかもしれない。  周囲の騎士たちが立て続けに魔法を放つ。その集中砲火の中を、竜はくぐり抜けてくる。 「陛下!」  防御結界を展開する。ダルジィはハルティの前に立ちふさがった。  持てる魔力のすべてを、結界に注ぎ込む。  同時に灼熱の炎が襲いかかり、防御結界は次々と消滅していく。それでも騎士たちが力を合わせた結界は、辛うじてその役目を果たしていた。  竜が頭上を飛び過ぎる。騎士たちは、自分たが倒れながらも、護らなければならない存在を護りきった。 「……陛下、ご無事で」 「無茶をするな」  ダルジィが笑みを浮かべるが、ハルティは眉をひそめた。  ハルティを庇うように立ち、最後まで結界を張り続けていたのは彼女なのだ。自分の身を守るところまで気が回らなかったのか、火傷を負った腕から血を流していた。 「私は陛下をお護りするために、ここにいるんです」  その表情は、名高いマイカラスの騎士としての誇りに溢れていた。  二騎の竜は地上への攻撃を繰り返していた。  ソレアが防御結界を張ってくれているので奈子は攻撃に専念することができたが、それでも相手に目に見えるダメージを与えるまでには至っていない。  そもそも竜はその巨体に似合わず俊敏で、狙いすました魔法も易々とかわされてしまう。 「せめて、少しでも動きを封じることができれば……」 「だったら、俺が奴らを足止めしてやる」  背後から、奈子の言葉に応える声があった。いつの間にやってきたのか、リューリィと一緒に街に残っていたはずのエイシスが立っている。 「エイシス……」 「ほら、よそ見すんな。やるぞ」  エイシスが呪文を唱える。フェイリア直伝の、強力無比な精霊魔法だ。  周囲の空間に、精霊の魔力が満たされていく。 「こういう天気の日は、これが効くんだよな。今だ!」  エイシスが力を解放する。  低い雲に覆われた空一面に、網の目のように稲妻が広がった。それを避けようとした竜は、必然的に進路が制限されることになる。  そこを狙って、奈子は魔法を放った。大きな光の槍が、竜の身体を貫く。  結界に阻まれて力をかなり削がれたものの、それでも傷を負わせることはできたようだ。  その竜は空中でバランスを崩したが、一瞬で立て直してこちらへ進路を変えた。  地面すれすれまで降下して、真っ直ぐに奈子に向かってくる。  奈子を殺さないようにアィアリスから言われているはずだが、傷を負わされて騎士も頭に血が昇ったのかもしれない。  それは、深紅の鱗に覆われた巨大な竜。  竜の体色は個体差が大きい。もう一騎の竜はもう少し褐色がかった色で、身体も一回り小さかった。 (……あれ?)  何かが、頭をよぎる。  既視感。  この光景、あの竜の姿。  どこかで見たことがある。  聖跡で見た王国時代の幻影だろうか。それとも……。 「ナコ!」 「ナコちゃん! 逃げて!」  竜の姿に気を取られて、身をかわすのが一瞬遅れた。  深紅の巨体が視界一杯に広がる。紅一色の視界。  身体を捻ってかわそうとしたが、わずかに間に合わなかった。  次の瞬間、奈子の身体は十メートル近くも跳ね飛ばされた。  血飛沫をまき散らしながら、地面を転がる。巨大な竜の爪が、肩を掠めていったのだ。  微かに触れるか触れないかという程度の接触だったのに、トラックにでも撥ねられたような衝撃だった。直撃ならば身体が真っ二つに引き裂かれていたことだろう。  竜はそのまま頭上を通過して、再び高度を上げていく。 「ナコちゃん!」  駆け寄ったソレアに抱き起こされる。  左腕の付け根近くがざっくりと抉られ、腕が折れていた。 「何をぼんやりしていたの!」  ソレアが魔法で応急処置をする間、奈子は無言で空を見上げていた。 「……あの、竜……」  掠れた声でつぶやく。  奈子の視線は、竜の姿を追っていた。  血の色をした巨竜が、霞んだ視界に映る。 「あの竜……知ってる……」  間近で見て、奈子は思いだしていた。  あの竜は、以前にも見たことがある。  触れたこともある。  それだけじゃなく……。 「……ナコちゃん?」  手当ての途中だというのに、奈子は立ち上がった。塞がりきっていない傷から鮮血が滴る。  奈子はふらつきもせず、空を見上げていた。  竜は上空で方向転換して、またこちらに向かってくる。相手の騎士は、とことんまで奈子をいたぶるつもりなのだろう。  しかし、騎士の思惑なんて奈子にとってはどうでもいいことだった。  奈子は、その竜を知っていた。  憶えている。  身体が、魂が、その姿を憶えていた。 「……ナゥケサイネ!」  奈子は叫んだ。その竜の名を。  千年以上も前、大陸の空を我が物顔で飛び回っていた伝説の巨竜の名を。      * * * 「新手か」  二騎目の竜にとどめを刺そうとしていたクレインが、顔の向きを変える。  ちょうど、転移してきた竜が姿を現したところだった。 「……アィアリス!」  ファージが叫んだ。  この気配、間違えようがない。 「あれがそうか。なかなか楽しめそうな奴だな」 「あんたより強いかもね、クレイン」  本気でそう思っているわけではないが、余裕綽々のクレインに対して、つい憎まれ口を叩いてしまう。 「だからどうした? いまさら私が、死を怖れるとでも思うか? それに、ここは聖跡だ」  同時に、二人の周囲で爆発が起こる。アィアリスの魔法だ。一面炎に包まれ、視界が奪われる。  無論二人にダメージはないが、炎が消えると、目の前に地上へ降りた竜の姿があった。  首の付け根にある鞍から、アィアリスが飛び降りる。 「初めまして、クレイン・ファ・トーム。そしてお久しぶり、ファーリッジ・ルゥ」 「アィアリス!」  問答無用で、ファージが斬りかかった。手の中に、赤い光の剣が生まれる。  しかしアィアリスの剣は光の剣を砕き、そのままファージの身体を深々と切り裂いた。 「さすがに、これだけ聖跡に近いと即死はしないのね」  感心したような口調だった。  刃に付いた血糊を振り払いながら、傷を押さえてうずくまっているファージを見おろす。 「それにしても考えが浅いというか、猪突猛進というか……。この前だってあなたの方が不利だったのに、黒剣を持った私に勝てるわけがないでしょうに」 「まったくだ。相手との力の差というものを考えない奴だ」  クレインまでがアィアリスの意見に同意する。それから、アィアリスに向かって言った。 「……で、何が目的だ?」 「分かり切ったことを」  アィアリスが微笑む。 「私は黒剣の王として、大陸を支配して新たな時代を拓く。聖跡はいわば過去の象徴。目障りでしかないわ。ただ大人しく見ているだけならまだしも、たまに気まぐれでちょっかいを出してくるのはいただけないもの。消えてもらうしかないでしょう」  微笑みながらも、真っ直ぐにクレインを見据えた。  史上最強と謳われた竜騎士を前にして、微塵も臆したところはない。 「まあ、言い分はわからんでもない」  クレインがうなずくと、アィアリスはさすがに意外そうな表情をした。 「だが、黒の剣を持ったからといって、この私に勝てるかな?」  試してみるか、とクレインが言う。クレインはまだ剣を手にしていないが、必要とあればいつでも光の剣を生み出せる。  しかし、アィアリスは黒の剣を鞘へ収めた。 「あなたを倒す、なんて一言もいってないわ。大陸史上最強の騎士、クレイン・ファ・トームに喧嘩を売るなんて、賢いやり方とは言えないでしょう?」 「ほう?」  クレインの口元が綻んだ。  とりあえず傷が塞がったファージは、二人の顔を交互に見ながら立ち上がる。 「そして私は、賢いやり方が好きよ。騎士の誇りとか、名声とか……そういったものは二の次。私は、聖跡に消えてもらうと言ったのよ」 「なるほど」  クレインは納得顔でうなずいたが、ファージの顔からさっと血の気が引いた。  背後の聖跡を振り返った、その瞬間。  純白の閃光が、網膜を貫いた。  一瞬遅れて、衝撃波が襲いかかってくる。  防御結界を張りながら、ファージは恐る恐る隣のクレインを見た。  クレインもちらりとこちらを見る。  驚いたことに、クレインはどこか苦笑めいた、静かな笑みを浮かべていた。      * * * 「ナウケサイネ!」  その名を叫んだ瞬間、竜の巨体がびくっと震えるのが見えた。  奈子は、無銘の剣を真っ直ぐに空へ向けて掲げた。  騎士は竜を操って、もう一度奈子を攻撃しようとしている。しかし、竜は鞍上の騎士の言葉に従おうとしない。 「ナゥケサイネ! 我が命に従え! 聞こえているだろう!」  奈子はもう一度叫ぶ。  頭で考えて発した言葉ではない。無意識のうちに、心の奥底から湧き上がってきた言葉だった。 「お前は……アタシの竜だろ! どこの馬の骨とも知れない奴を乗せるな!」  竜の動きが一瞬硬直する。そのままいきなり空中で前転をするように宙返りし、同時に首を大きく振った。  騎士は、その突然の動きに対応できなかった。  鞍から空中に放り出される。  竜は宙返りの勢いをそのまま乗せて、丸太のような尾で騎士の身体を打ち据えた。  奈子の目には、空中にぱっと紅い花が咲いたように映った。  竜はそのまま降下してくる。  翼を広げて奈子の目の前に着地すると、地面にうずくまるように首を低く下げた。  近くにいたマイカラスの騎士たちが、畏怖の思いに満ちた目で、竜と奈子を見つめている。 「ナコ……ちゃん?」  ソレアの声は、奈子の耳には届いていなかった。  奈子は竜に歩み寄ると、自分の体よりも大きな竜の頭を慈しむように撫でた。 「……久しぶり。よく覚えていたね」  竜が、金色の瞳を微かに細める。それはファージの瞳と同じ色をしていた。  血の色をした、鎧よりも硬い深紅の鱗。  数え切れないほどの竜と竜騎士を屠ってきた、鋭い長剣のような牙。  尾の先まで優に三十メートルを超える巨体。  そのすべてが、懐かしかった。 「……行くよ!」  奈子は勢いをつけて鞍に飛び乗った。  竜が身体を起こす。大きく翼を広げ、強靱な脚が地響きを立てて地面を蹴る。  その巨体をものともせず、竜の身体は軽々と宙に浮かんだ。  瞬く間に高度が上がってゆく。地面が遠くなる。  奈子は興奮していた。  心が高揚する。血液中のアドレナリン濃度が上昇する。  空を飛ぶことは、常に人を興奮させる。しかしそれだけが原因ではない。  竜を駆ること。竜騎士にとっては、それこそが至上の悦びなのだ。  竜と一体化してゆく感覚。  心が一つに融合して、一個の生き物として大空を翔る。  重力という鎖も、この身体を束縛することはできない。  人は、竜と共に在る時、本当に自由になれる。  強靱な翼が、風を切り裂く。  竜の悦びが伝わってくる。本当の主と巡り会い、共に闘うことができる悦びに満ちあふれている。  竜の悦びは、奈子の悦び。  奈子の悦びは、竜の悦び。  一つに溶け合った精神。  これが、竜騎士の真の姿だった。  奈子は、エクスタシーすら感じていた。  解き放たれた精神が、歓喜に震えている。  耳元で、風が轟々と唸っている。  もう、王都全域を見渡せる高度まで上昇していた。  練兵場の騎士たち、混乱して逃げまどう市民たちは、胡麻粒のような大きさだ。  奈子は今、大空を独り占めしていた。 (……いや)  空に一つだけ、目障りな存在がある。  そうだ。それを片付けるためにここにいるのだ。  残ったもう一騎の敵の竜は、奈子たちよりもずっと低いところにいた。  つい先刻まではほとんど手も足も出なかった相手なのに、今は互角以上の闘いを挑むことができる。 「行くよ、ナウケサイネ」  奈子は意識を集中する。  遠い記憶を呼び起こし、その姿を思い浮かべる。  手の中に、銀色の光が生まれた。  光は長く伸びて、剣の形に実体化する。  不自然に大きな剣だった。刃渡りは三メートル以上もある。  それは、大竜刀と呼ばれる。  王国時代の竜騎士たちの主武装だ。竜騎士同士の闘いのためだけに、特別に鍛えられた剣。  竜が滅びた現在では無用の長物となり、実際の戦闘で最後に使用されたのは、もう何百年も昔のことだった。  しかし今は、この剣が必要だった。竜とまともに闘うためには、この大剣が必要なのだ。  奈子は剣を構えると、敵の竜へ向けて急降下した。  数百メートルの距離があっても、相手の騎士の驚愕の表情が見て取れる。今は、ナゥケサイネの目に映るものが直に伝わってくるからだ。猛禽類よりもはるかに優れた竜の視覚が、今の奈子の目になっていた。  相手が先手を取って、魔法と竜の炎で攻撃してくる。  魔法はナゥケサイネの結界が跳ね返す。  炎も、巨体を翻して軽々とかわした。  この程度の攻撃、ナゥケサイネに任せておけばよかった。指示を与える必要もない。そもそも竜は、人間以上の知能を備えているのだ。  奈子はただ、敵を倒すことだけに意識を集中していた。  ナゥケサイネの速度に任せて、小細工なしに一気に間合いを詰める。敵の姿が、自分の目でもはっきりと捉えられた。  アルワライェによく似た、しかしずっと若い少年。奈子よりも少し年下だろう。  迷いはなかった。  相手だって竜騎士なのだ。その気になれば、たった一騎でこの王都を灰にすることだってできるだろう。奈子の一瞬の躊躇が、何の罪もないマイカラスの人々、数百人の生命に関わるかもしれないのだ。 (一撃で、決める!)  ナゥケサイネがうなずいたように感じた。  二頭の竜がほとんど同時に咆哮を上げる。  竜の体格と力は、明らかにこちらが勝っていた。ナゥケサイネの強靱な脚の爪が、敵の竜の身体に喰い込む。  相手の騎士は隙だらけだった。眼前で起こっていることが信じられないようだ。  大竜刀も持っていない。  それもそうだろう。この時代、自分たち以外に竜を操れる者がいるとは思うまい。  竜騎士同士の闘いがあるなど、夢にも思わなかったはずだ。そもそも、竜騎士同士の空中戦など、訓練したことすらないかもしれない。相手だって、竜を駆るようになってからまだ経験は浅いはずだ。  奈子には、経験があった。竜騎士同士の闘いの経験が。  あの、レイナ・ディ・デューンの夢の中で。  頭の上に振りかぶった大竜刀を、力一杯に振り下ろした。  長大な刃は騎士の身体を一撃で両断し、竜の肩を深々と切り裂く。  騎士を失った竜に、一瞬の隙が生まれた。そこを衝いてナゥケサイネが首に噛みつく。  ミシッ……。  骨の潰される音。  竜の断末魔の絶叫。  首を喰い千切られた竜は、きりもみしながら落ちていく。  奈子は、その姿をぼんやりと見送っていた。  手の中の大竜刀が消える。  その手に、まだ感触が残っていた。  人を斬った感触が。  初めてだった。人を斬り殺したのは。  身体中に、返り血を浴びている。  騎士の血と、竜の血と。自分の血も混じっている。  急に、全身から力が抜けていくのを感じた。  敵を倒したことで、人を殺したことで、精神集中が途切れていた。  張りつめていた気持ちがぷつりと切れて、疲労が一気に押し寄せてきた。  竜を駆っての闘いの副作用だ。  竜を操ること。その際の身体と精神の負担は想像以上だった。王国時代の本物の竜騎士ならともかく、奈子にとっては限界を超えた力だった。  意識が遠くなっていく。  最後の気力を振り絞って、ナゥケサイネを城の練兵場へと誘導した。  着地と同時に、鞍から滑り落ちるように地面に降りる。  ソレアやエイシス、ハルティたちが駆け寄ってくるのも目に入っていなかった。  震える脚でなんとか地面を踏みしめながら、ナゥケサイネの顔を撫でてやる。 「ありがとう……」  なんとか、声を絞り出した。 「……長かったね。もう、終わったんだよ。休んでいいんだよ……」  恐ろしい竜の顔が、笑みを浮かべているように見えた。  ナゥケサイネの身体が、崩れ始める。  砂のように、さらさらと。  その姿が、幻のように徐々に薄れていく。  竜の巨体が、後には何も残さずに消えていく。  周囲の者たちは、言葉もなくただ驚きの表情で遠巻きに見ている。奈子はそちらへはまったく注意を払わなかった。  ただ泣きそうな表情で、それでも口元には微笑みを浮かべて、消えていく戦友の姿を見つめている。  やがてナゥケサイネの姿が完全に消え去ったところで、奈子の意識もふっと途切れた。 終章 さよなら 「……あれ?」  目を覚まして、その時自分が女の子にキスされていた場合――。 (二年前のアタシなら、悲鳴を上げて飛び起きるところだよなぁ……)  ずいぶんと免疫ができたものだ、と思う。  それがいいことなのかどうかはともかくとして、こういう事態に慣れてしまったことは事実だ。  特に、相手が金色の瞳の少女であった場合には。 「ファー……ジ?」  黄金色の輝きを持つ瞳が、奈子を間近で見つめている。  綺麗だ、と思う。初めて見たときからずっと、そう思っている。  その瞳が意味するところを知ってからも、それは変わらない。 「おはよう、ナコ」  もう一度、唇がちょんと触れる。  奈子はゆっくりと上体を起こした。 「アタシ、眠ってた?」 「うん。ぐっすりと」  だとすると、この鈍い頭痛は寝過ぎのためだろうか。ここ何日か、あまり眠れない夜が続いていた気がする。 「寝てる間に、何か……した?」  念のために訊いてみると、ファージは笑ってうなずいた。 「いろいろと、ね」 「どうせなら、起きてる時にしてくれればいいのに」  同じことをされるなら、ちゃんと気持ちよくして欲しい。由維には悪いと思うけれど、ファージに愛撫されるのは大好きだった。 「だったら、今からする?」 「……遠慮しとく」  少し考えて、奈子は首を振った。少し未練はあったが、これから改まって……となるとなんだか面映ゆい。 「それより、ここ、何処?」  周囲を見回すと、そこは森の中だった。二人がいるところは樹がやや疎らになっていて、地面には柔らかな青草が繁っている。  正確な時刻はわからないが、夜だった。今はちょうど、この星を巡る三つの月がすべて空にあった。  あの月も、初めて見た時は死ぬほど驚いたものだ。それが今では、月が一つしかない夜を物足りなく感じている。  ここにいるのは、奈子とファージの二人だけだった。他には誰もいない。感じる範囲に、他の気配はない。 「アタシ……なんでこんなところにいるの? ここ、何処?」 「憶えてないの?」  そう言われて、もう一度周囲を見回す。  なんの変哲もない森の中。しかし、以前にも訪れたことはあるかもしれない。  それにしても、どうしてこんなところで眠っていたのだろう。旅の途中の野宿にしては荷物もないし、焚き火の跡も見当たらない。  眠る前、いったい何をしていただろう。思い出せない。  一番高いところにある月が満月に近いということは、今は夜中のはずだ。どうしてこんな時刻に、ファージと二人きりで野外にいるのだろう。  ずっと以前に、こんなことがあったような気がする。  もう、ずいぶん前に。  そう。あの時も森の中だった。 「……初めて、会った森?」  半信半疑で訊ねると、ファージは嬉しそうにうなずいた。するとここは二年前、ファージと初めて出会ったルキアの街に近い森なのだ。 「どうしてアタシ、こんなところにいるんだろ? 由維やソレアさんは?」  どうにも記憶が曖昧だ。 「ナコと、少し話がしたかったんだ」 「え?」  ファージの言葉は、奈子の問いに対する解答にはなっていなかった。 「話、って?」 「うん……。もういいや、別に。ただ、会いたかっただけかな」 「どうしたの、急に?」  奈子は小さく笑った。ファージも微笑んでこちらを見ている。 「一つだけ、もう一度言いたかったことがあるんだ。私、ナコのことが大好きだよ」 「ファージ……?」  少しずつ、不安になってくる。  ファージの様子が、普段と違う。 「改まってどうしたの?」 「ナコと知り合えて、本当によかった。楽しかったよ。今までありがとう」  いきなり抱きつかれ、唇を奪われる。  驚いたことに、ファージは泣いていた。涙を流すファージなんて、初めて見たような気がする。  しかしそれは、悲しみに打ちひしがれた涙とは少し違う。やや悲しそうな表情ながらも、ファージは口元に笑みを浮かべていた。 「憶えていてね。私のこと、いつまでも」  「ファー……ジ……?」  すごく、嫌な予感がする。  ファージが立ち上がった。  ただそれだけの動作で、すごく遠くへ行ってしまったように感じる。  奈子も立ち上がろうとしたが、何故か身体が動かなかった。 「ファージ!」  少し困ったような表情で、こちらを見ている。  唇が、微かに動く。  ほとんど口を開いたように見えなかったのに、その言葉は何故かはっきりと耳に届いた。 「……さよなら、ナコ」      * * *  目を開けると、薄暗い部屋の中だった。  頭がずきずきと痛む。  痛いのは頭だけではない。身体中が、悲鳴を上げているように思えた。特に、肩に鋭い痛みがある。  奈子はゆっくりと頭を巡らせて、室内を見回した。  頭上に、睡眠の邪魔にならない程度の小さな魔法の明かりが灯っている。  窓には厚いカーテンが下りているが、まったく光が漏れていないところを見ると、まだ夜なのだろう。  奈子は、大きなベッドに寝かされていた。  しばらく考えて、ようやく自分がいる場所が理解できた。  マイカラスの王宮。いつも奈子にあてがわれている寝室だ。  ナゥケサイネを駆って敵の竜騎士を倒した後の記憶がない。気を失って、そのままここに運ばれたのだろう。だとすると、半日くらい眠っていたことになる。  それとも、怪我がひどくて何日も眠っていたのだろうか。左腕に巻かれた包帯に、血が滲んでいる。  しばらく黙って、天井を見つめていた。  特に何を考えるということもなく、天井の模様を見つめていて。  不意に、思い出した。  目覚める直前まで、見ていた夢を。  身体の痛みも忘れ、奈子はがばっと起きあがった。寝間着のまま、隣のソレアの寝室へ向かう。  ノックもせずに扉を開けた。 「ソレアさん! ファージはっ?」  半ば予想できたことだが、ソレアは眠っていなかった。机に肘をついて、頭を抱えるような姿勢で椅子に座っている。  ゆっくりと顔を上げ、奈子を見た。ひどく陰鬱な表情に見えたのは、部屋が暗いせいだけではあるまい。 「ナコちゃん、具合は……」  無理に笑おうとしているのが見え見えの、引きつった笑みを浮かべている。 「ファージは何処? ファージのところに連れてって!」  奈子は単刀直入に、なんの前置きもなしに本題を切り出した。ソレアに、誤魔化す余裕を与えないためだ。  ソレアが一瞬、視線を逸らした。  表情がいっそう強張る。  それで、確信した。  何が起きたのかを。  ソレアの傍に立つと、両手で顔を挟むようにして強引にこちらを向かせた。 「ソレアさん……」  ソレアの頬には、涙の後があった。  目が、赤かった。 「ファージは……ファージに何があったの?」 「…………」  それでもソレアは黙っている。 「わかってる。わかってはいるんだ。でも、はっきりと聞かせて。ファージが夢に出てきた。それで、さよならって言ってたんだ」  ソレアの顔に、諦めの色が浮かぶ。  小さく深呼吸して、ゆっくりと口を開いた。 「……そうね、行きましょう。隠しておけることでもないし。……ユイちゃんや、エイシスたちも起こしてきた方がいいかしら」  囁くように言うと、焦れったいくらいのろのろとした動作で立ち上がった。      * * *  ソレアに連れられて転移した先は、夕暮れの荒野だった。  マイカラスが夜中なのだから、ここは遠く離れた西域の地ということになる。  血の色をした夕日が、遠い山並みの陰に隠れようとしている。  何もない土地だった。  一本の草も生えていない。一羽の鳥も飛んでいない。  ただでさえ赤茶けた地面が、夕日に照らされてさらに朱く染まっている。  奈子とソレア、それに由維、エイシス、ダルジィの五人は、無言で立っていた。  五つの影が、長く伸びている。  本当はハルティも同行することを望んでいたが、戦いで大きな被害を受けた王都の復旧作業の指揮を執らなければならないということで、代わりにダルジィを派遣していた。  奈子だけは、着いてすぐにここが何処であるか気付いていた。他の者たちは、いったい何処へ連れてこられたのかと訝しんでいる。  ここには千年もの間、変わらぬ風景が広がっていたはずだった。  しかし今眼前に広がる光景は、昨日までとは大きく違う。  巨大な、クレーター。  それがぽっかりと口を開けていた。  直径は数百メートル。あるいはもっと大きいかもしれない。  そして深い。それは、このクレーターの成因が地下にあったことを示していた。  由維は、不安げな表情で奈子を見た。ここが何処であるかという疑問について、少し遅れて答えに辿り着いていた。 「なんなの、ここは……?」  事情を知らないダルジィが訊く。エイシスも同じような表情をしている。フェイリアと行動を共にすることの多かったエイシスも、ここへ来たことはなかった。  奈子は無言で、ただ呆然とクレーターを見つめている。  まったく表情の顕れていない顔をしていた。心を持たない人形のように。  ただ、握りしめた拳が微かに震えていた。  由維は視線をソレアに移した。こちらは、涙を流さずに泣いているような表情だった。 「聖……跡……?」  小さな声で訊く。  奈子もソレアも、何も反応しなかったが、それこそが肯定の証だった。  由維はつい最近、奈子に連れられてここを訪れている。その時はもちろんこんなクレーターはなくて、神殿風の小さな建物が建っていた。 「聖跡?」  他の二人が、声を揃える。 「聖跡って、あの聖跡か?」 「何もないじゃないの。この穴ぼこが……?」 「アィアリスが、やったの?」  由維の言葉に、ソレアがゆっくりと振り返った。  そして。  小さく、うなずいた。  三人が一様に、驚きの表情を浮かべる 「まさか、ファージやクレインが、負けたの?」  由維には信じられない。黒剣の王であるアィアリスが、極めて大きな力を持っていることはわかる。しかしクレインやファージの強さについて奈子から散々聞かされている由維には、それが現実だとは信じられなかった。 「……黒剣の王だって、クレイン様をそう簡単に倒せるものではないわ。アィアリスが二人を引きつけている間に、彼女の片腕である竜騎士セルタ・ルフが、内部から聖跡を破壊したの……」 「……考えたな」  エイシスがつぶやいた。  不死身の番人に護られた聖跡だが、クレインの妨害がなければその施設を破壊するのは不可能ではない。少なくとも、竜騎士並みの力を持った人間ならば。  クレインを相手に、正面から力で挑んでも簡単には勝てない。だから、クレイン自身とは直接刃を交えない手段を選んだのだ。  マイカラスを同時に攻撃したのも、そのための伏線だったのだ。この場に奈子やソレアもいれば、事はそう簡単には進まなかったはずだ。ただ聖跡だけを攻撃した場合、ファージやソレアは何処にいてもそれを察知しただろう。  今日のアィアリスの目的は、マイカラスや奈子よりも、この聖跡だったのだ。大陸の覇権を望む者にとって、聖跡の存在は不安要素だ。そうすることが可能ならば、何がなんでも排除しようとするだろう。 「しかし……向こうにも誤算はあったようだな」  そう言ったのはエイシスだった。 「まさか、マイカラスに残した竜騎士が全滅するとは思わなかっただろ」 「確かに誤算かもしれないが、致命傷じゃない。教会が竜を持っているのであれば、聖跡さえ破壊できればどれだけ損害を出しても構わないだろう。聖跡と、その番人さえ始末してしまえば、今の時代に誰が竜と闘える? しかもアィアリス・ヌィは黒剣を持っている」 「いるじゃないか、そこに」  ダルジィの視線が、ちらりと奈子を捉える。そして小さく首を振った。 「確かに、あの時は竜騎士だった。しかし今は……、ただの腑抜けだ」  奈子の耳にも、背後のそんな会話は聞こえていた。しかし、その内容はほとんど理解していなかった。  何も考えられなかった。  ただただ、喩えようのない大きな喪失感を味わっていた。  空虚、という言葉の意味を、生まれて初めて実感したような気がする。  あの時とも違う。  お腹の子供を殺された時。あの時は胸を、心を貫くような痛みがあった。  今は、それすらも感じない。  ぽっかりと、心が空っぽになってしまったようだった。  ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。  ファージが、死んだ。  その事実が、少しずつ身体の中に染み込んでくる。  ファージが、死んだ。  千年以上も生き続けてきたのに。  こんなにあっけなく。  ファージが死ぬなんて。  クレインもファージも、聖跡の力で不死を実現していた。それは、聖跡の魔力で維持されていた肉体だ。  聖跡がなくなれば、存在することはできない。  ファージにとって、本当の意味での『死』だった。  何も感じない。  痛い。  心が痛い……はずなのに。  何も感じない。  痛みを感じないほどの、強い痛み。  もう、何も残っていない。  限界を超えてしまったんだ、と。  ぼんやりと思った。  これまで、辛いことは何度もあった。  そして、なんとかそれを乗り越えてきた。  だけど、今度ばかりはそれができそうにない。  復讐しようという想いが、闘う意志が湧いてこない。  闘志、そんなものはすっかり失われてしまった。 (空っぽだ……アタシ)  膨らんで膨らんで、割れてしまった風船のように。  もう、何も残っていない。  ファージが、死んだ。  クレインも。  フェイリアも。  ユクフェも。  そして、奈子の子供も。  みんな死んでしまった。 (もう……だめだ……)  不思議と、涙は出てこなかった。 「アタシ……ね」  奈子は、独り言のようにつぶやいた。  聖跡があった場所を見つめ、他の者たちに背を向けたまま。 「初めてこの世界に来て、初めて魔法というものを目にした時、感動したんだ。心が躍ったよ。なんてすごい力。なんて、素敵な力なんだろう。こんな力があれば、きっとすごいことができる、って」  だけど、それは幻想だった。 「結局……『力』なんだよね。この世界も、アタシの世界も一緒。力って、それがどんなものでも、人は必ず闘いのために用いるんだ」 「ナコ……?」  ダルジィやエイシスが、眉間にしわを寄せる。奈子の台詞に、不自然なものを感じ取っていた。  由維とソレアは表情を強張らせた。奈子は今、自分の秘密について口にしていた。 「こんな、魔法なんて……」  声が震えている。  奈子はゆっくりと振り返った。 「こんな、なんのための力よ! アタシから、何もかも奪っていってしまうだけじゃない! ファージも、クレインも、フェイリアもユクフェも! それに、アタシの子供も!」  金切り声で叫んだ。握った拳が、ぶるぶると震えている。 「次は誰? ソレアさん? エイシス? それともハルティ様やアイミィ?」  唐突に、涙が溢れだした。 「アタシの好きな人たちはみんな……、みんな殺されてしまう。そして……」  これまで一滴もこぼれなかった涙が、顔を濡らす。 「そして、最後はきっと……由維なんだ」  泣きながら、奈子はベルトにつけた小さなポーチを開けた。  中から、一枚のカードを取り出す。 「だから……さ」  片手でカードをかざし、もう一方の手で由維の腕を掴んだ。 「だから……もう、ここには来ない。来れないよ……」 「奈子先輩……」 「ナコちゃん!」  ソレアが血相を変える。エイシスとダルジィは事情がよく飲み込めず、怪訝そうな表情をしている。  三人の顔を順番に見てから、奈子は呪文を唱えた。  手の中のカードが消え、転移魔法の白い光が奈子と由維を包んでいく。  奈子の唇が、微かに動く。  小さな、本当に小さな声で。 「……さよなら」  最後の言葉を紡いだ。          最終話『光の王国』に続く あとがき  ファージと、フェイリアと、そしてユクフェのファンの皆さん、ごめんなさい。  ……としか言いようがないですね、今回は。  なので内容の解説はナシ。きっと、次回のあとがきが異様に長くなるはずなので、今回は短めにいきましょう。 (ホントは、七章のセルタとヴェスティアについていろいろと語りたかったのですが、それはまたの機会に)  それでは、前回のあとがきクイズの解答。  問題は「ファージのモデルとなったアニメキャラとは誰でしょう? 答えは二人。でも二人とも当てるのは多分不可能なので、一人だけでも正解とします」でした。  そして正解者は……。なんと、ノーヒントでの正解者がゼロ。そんなに難しかったでしょうか? すぐにわかると思ったんだけどなぁ。  まず答えの一人目。『吸血姫・美夕』の美夕です。一番の共通点は瞳の色。  そしてもう一人はちと難しいのですが『幻夢戦記レダ』の朝霧陽子。これは難しいです。共通点は髪型。『レダ』公開当時、あの髪型を真似ていろいろなキャラを考えた時の名残がファージなんです。  実は今回もクイズを用意していたのですが、前回のあれで正解者がいないとなると、今回もきっと正解が出ないので止めにします。  さて、ここで皆さんにお願いがあります。  きっと今回も、読者の皆さんからたくさんの感想をいただけるものと期待していますが、ネタバレを含む感想は『ふれ・ちせ』の掲示板ではなく、kitsune@mb.infoweb.ne.jp宛のメールか、目次ページにある感想フォームでお寄せください。  掲示板に書くと、まだ読んでいない読者も内容を目にしてしまう危険があるので、よろしくお願いします。  そしてもう一つは、恒例のお願い。  この作品は『エンターテイメント小説連合』のランキングに参加しています。「面白かった」という方は、ぜひぜひ一票を投じてやってください。  投票は次のいずれかのページから行えます。 ●殿堂入り小説の紹介ページ  (http://novel.pekori.to/dendo/604.html) ●小説連合トップページ  (http://novel.pekori.to/main.htmlから、キーワード「光の王国」でオンライン小説を検索する)  では次に、新企画のお知らせ。  『光の王国』もいよいよ次回で最終回ですが、完結後に、全話を収めたCD―ROMを作ろうかと考えています。  内容は、再推敲した小説全話(HTML、テキスト、モニタ閲用PDF、印刷用PDF)。書き下ろし番外編。これまで使用されたCGと描き下ろしカット。読者の声。用語辞典。4コマ。そして『光の王国』にまつわる数々の裏話(書き下ろし含む)。執筆前のアイディアメモ。作者の了解が得られれば二次創作作品、等々。  要するに「現在ネットで公開している全コンテンツ+書き下ろし少々+未公開のジャンク品」を、レイアウトを全面的に見直して一枚のCDに収録しよう、というわけです。  CD―ROMという媒体の都合上、どうしても有料になってしまうのですが、それでも「欲しい」という方はいるでしょうか? 一応、本体五百円+送料百六十円程度と考えています。 「小説だけでも文庫十冊分近いテキストを含んで五百円は安い」と考えるか「Webで無料で公開している物なのに金を取るのはけしからん」と考えるかは人それぞれでしょう。  まるで需要がなければこの企画はお流れですし、逆に需要が多ければCD作成や印刷を手作業ではなく業者に頼むことになります。まあ、後者の心配はないでしょうけど(笑)。  そこで「発売されたら欲しいなぁ」という方は、http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/mila/cdr00.htmlから、仮申込みをお願いします(『光』の目次ページからリンクされています)。  なお、これはあくまでも需要の有無を調査するためのもので、正式な申込みについては完結後に別途ご案内します。  それでは最後に次回予告。  次回はいよいよ本編最終話『光の王国(仮)』。そのまんまのタイトルです。  四話のタイトルを『レイナの剣』に決めた時、一話からずっと「○○の××」というパターンになっていることに気付いて、だったら最後はこれしかないだろう、と。  今回に比べれば、かなり短い話になるはずです。もっとも、九話を書き始める時も同じことを思っていたので、あてにはなりませんが(笑)。  公開時期は……まだ未定。一応、二○○一年前半なのは確かなはず。できるだけ間を開けないように、この後すぐに取りかかろうと思っています。  ということで、ちょっとだけあらすじ紹介。      * 「アタシは、クラゲになりたい……」 「クラゲにはクラゲの苦労があると思うよ。マンボウやウミガメに食べられたり」  奈子は、ファージの死による心の傷も癒えぬまま、抜け殻のように夏休みを過ごしていた。  気分転換にと、由維と二人で旅行へ行ったその夜。奈子のなにげない一言がきっかけとなって、由維は大変な事に気付く。  それは、あの世界そのものの秘密。生命の中に隠されたメッセージ。  真実の歴史を知ってしまった奈子は、決断を迫られる。 「……決めた。もう一度行こう。ソレアさんたちも、敵になるかもしれないけどさ」  そして、最後の闘いが始まる……。      *  泣いても笑っても本編はこれでラストです。  ではでは、感動の(?)最終話をお楽しみに。                   二○○○年十月 北原樹恒                   kitsune@mb.infoweb.ne.jp                       創作館ふれ・ちせ          http://plaza4.mbn.or.jp/~kamuychep/chiron/